バグ⑤小林と小田
小田が事故に遭った翌日。
部活に力を入れている小林は入部して初めて、その日の部活を休んでコガワを寮の前まで送っていた。小田が事故に遭ったと聞いたときの様子があまりにも痛々しく、このままいなくなってしまうのではないかと心配になってしまった。
「ちゃんと栄養取ってしっかりするのよ。」
コガワの親友としては、小田の件よりそっちが気がかりではあった。こんな言い方は冷たいかもしれないが、小田の全快を願うのは、親友が、明るく元気に過ごすためだ。小田の為では全くない。だからわざわざ時間を取って昨日『事故』にあった小田の病室を訪れたのだって、親友の為なのだ。
病院に着いた小林は、手術は成功したと聞いていても、たかが同級生を通してくれるのか?という疑問を抱きながら受付に行った。後日みんなでお見舞いには来るつもりだが、今日だけは小林一人で来なければならなかった。なぜなら、口裏を合わせるためだ。
受付では案外すんなり病室を教えてもらって、エレベーターに乗った。教えてもらった5階で降りた。部屋番号を頭の中で反復しながら、病院の入院棟の独特の雰囲気に居心地の悪さを感じた。歩きぬけた部屋の中から、機械音が一定の間隔で鳴っていた。目指す部屋が見えてきて、そこの扉がちょうど開いたので思わず身構えた。
「あら、あなた確か、通報してくれた…。」
「どうも、同じクラスの小林です。まだ早いかと思ったんですけど、どうしても小田に聞きたいことがあってきました。今起きていますか?」
「ええ、…そうね、私、今ちょっと席を外すから。天、クラスメイトの子が来てくれたわよ。」
疲れ切った顔をした小田の母が、それでも無理やり笑って中に促してくれた。包帯まみれの小田は目線をこちらに寄こした。右腕にはギプスをしていた。
「あ…ええ、なんで小林?」
「救急車を呼んだの、だれだと思っているの?」
「小林なの?」
小田の母が病室から出て行ったのを確認して、ずかずかとベッドサイドの椅子に座った。椅子がまだ生暖かかった。ずっとここに座っていたんだ。
「なんであんた、自殺しようとしたの?」
単刀直入に、聞いた。あの時小田は小林の後ろから走ってきて追い抜かし、目の前の公園の階段を昇って行って、中腹くらいで手すりをこえた。その時の様子が正気じゃなかった。いや、自殺なんてしようとした奴の精神状態が、正気なはずない。相当追い込まれなければ、そんな事はしないはずだ。
「自殺…、だな。」
「なんで…お母さんにあんなに心配かける様な事したの?そのこと、言ったの?」
まずかった、と小林は後悔した。どうしてか自分は言い方がきつくなってしまうことがあった。責めるつもりはなかった。ただ思ったことを先に言ってしまうのだ。それで何度か友達を無くしているし、もうそんなことはしないように気を付けていたつもりだった。でも我慢ならなかった。
「ごめん、なんでかよく、覚えていなくて。でも、その場に小林がいたのは見た気がする。」
小田は視線をさまよわせて、最後に小林を見た。
「…私が、…通報の時…なんて言ったらいいかわからなくて、事故だって言ったの。だって、あんたのお母さんにも、言わなきゃいけないのよ?あんなに心配してる人に…そんなこと言えない。」
「そっか。アレ、見てたんだよな?…さっき、母さんに言ったんだ、あれ、事故じゃないって。」
「何があったのか、一から説明してよ。」
小林は腕を組んで、頬の裏を嚙んで途中で余計な口を挟まないように、食いしばった。先ほどから決壊しそうな涙腺を、壊れないように眉間にしわを寄せた。今回は何を言われても、何を聞いても、最後まで聞くつもりだ。
「ん、確か、山口と一緒に帰ってた。」
早速コガワの存在が記憶から消されていたが、ぐっと顎に力を込めた。
「…そうね、山口が、あんたの様子がおかしかったから、心配してたわ。連絡も来ないって。」
「あ、そっか。そういやスマホ見てねぇな。…そんで、その時、俺と山口とあと一人、いたみたいなんだ。俺、そいつの声、聞こえねぇの。」
「聞こえない?」
確かにコガワは声は小さい。おしとやかで、大口あけて笑うタイプではない。
「姿も見えない。」
「見えない?」
ますます意味が分からなかった。だってクラスメイトが見えないって、おかしいだろう。
「母さんにも言ったんだけど、うん、なんか変な顔された。それで、山口が一人でずっと、独り言を楽しそうに言っていて。気味が悪くなって…。怖くて…。」
そう言えばあの時、小田が頭がおかしい俺は生きている。そう言っていた。
「いや、俺頭がおかしくなったみたいなんだよ。あれが見えないのはおかしいだろ…。山口は独り言で俺をからかったりしないし。いっつもまじめで、何事にも一生懸命なやつだから、『ソコ』には俺に見えないなんかが居たんだよ。なんかが。ずっとついてくるんだ。俺は走って逃げたのに付いてきて、やっぱりあの時も俺の背中を押したのも『ソレ』なんだ。そのせいで車道に押し出されて殺されそうになった。ああそうだ、あの時もそうだ。公園の階段の一番上に人影がいて、『アレ』がいたんだ。恐ろしくてもう、いきている意味が分からなくなって、もうやめようと思ったんだ。」
頭を掻きむしりながら、ブツブツ言う姿に、自殺未遂直前の小田の姿が重なった。小林は思わず頭を掻きむしっている左手を握って止めた。
「わかった。『それ』はあんたにずっと付いてくるのね?えっと、今はいるとか、わかる?」
もちろん今この病室には小田と小林の二人だけだ。夕方の光がふんわり入ってきて、室内全体が暖かい色をしていた。
「わかんね。俺には見えないんだよ。『ソイツ』が。」
「あんたが公園の階段を登っている時も居たの?私もその場にいたわ。」
「…あんときは、ああ、えっと、あんときは、手すりのほうから声がした。その向こうに木が生えているだろ?あそこの隙間から、声がした気がして…。」
あの時の小田は、確かに公園の階段の中腹で、前を向いていたのかと思ったら、急に手すりのほうに方向転換していた。まるで呼びかけられたみたいだった。
「確かにあんたは急に手すりのほうを向いたわね。」
初めて小田の目が小林を視た。
「信じてくれるのかよ…。」
「…私は声とか聞こえなかったけど、確かにあんたはあの時、急に手すりのほうに行ったのよ。何かに気がついて方向を変えたみたいに。だからなにか居たとかは分からないけど、あんたの様子はそうだった。」
「あそこに、何かあった。手招きしてた。」
「そうなの…私はそれは見てないわ。あんたを止めようとして、手を掴み損ねて…下をすぐ見たから…。」
不思議そうな顔をして、手を?と小首をかしげた。なんでそんなに不思議なのか。小林はその時伸ばした右手のひらを眺めた。
(馬鹿なの?当たり前でしょ。)
自覚はなかったが、かすかにふるえていた。あの時は本気で掴んで止めるつもりだった。
「止めようとしたの、間に合わなかった。…ごめん。」
言うつもりがなかった謝罪が、口を突いて出た。なぜ小林は自分が謝っているのかさえ分からなかったが、でも出てきた。自殺を止めようとしたのだ、普通のことだろう。自分が謝るのはなんかおかしい。そもそもこいつがそんなことしなければ、小林はこんなに息苦しく、心が苛まれることもなかった。むしろ謝ってほしいくらいだ。
「いや、その…。」
困った顔で窓のほうを向き、左手で机の上のティッシュ箱を小林の目の前に置いた。手のひらには我慢ができなかった涙がぽたぽた落ちてきた。最悪だ、今きっと世界で一番不細工だ。思いっきり下を向いて、しかし小田がくれたティッシュを使うのは癪だったので、スカートのポケットを探ってハンカチを引っ張り出した。
「…ありがとう。助けようとしてくれて。」
落ち着いたと思ったのに、そう言った小田のせいでますます顔が挙げられなくなってしまった。いつの間にか握りしめられていたこぶしの上にまた、雨が降ってきた。
しばらくして小田の身じろぎで我に返った。
「あんまり、こすんな。」
顔が全体的に熱かった。しかしまだしゃべれる状況ではない。うるさいと悪態をついたが、喉の奥からかすれた何かしか出てこなかった。
「…帰る。」
「おう…。」
急に恥ずかしくなって一気に立ち上がった。髪の毛で顔を隠して、小田のほうを見ずに出て行こうとすると、出入り口に小田の母が静かに立っていた。あまりに驚いて身を固くしていると、また彼の母は微笑んで、扉を開けてくれた。
後ろからまたな、と小さく聞こえた。思わず振り向いたが、そっぽを向いていた。
「…また来てね。」
「お邪魔しました。」
何とかか細い声でそう返して、お辞儀をしてから病室を後にした。