バグ③
煙草を携帯灰皿に入れてつぶし、ダムの駐車場に止めていた車に戻る。その道すがら紅葉を求めてきたらしき家族連れとすれ違った。坂道を下り自分の車が見えてきた。
あのころの小田は、きょろきょろと教室を見回しては、何かを見つけておびえているようだった。それは授業中だったり、昼休みだったり、掃除の時間だったり。そうしているうちに、小田が、教室にいるのを避けていると気が付いた。
『なんか、教室ってお化けが出そうで怖い。』
そう言っていた小田を、からかった思い出があった。そんなもの、高1にもなって怖がっているなんて、と、小田の弱点を知って、気分がよくなっていたのだ。うちの高校はそこそこ築年数も浅く、とてもお化けの出そうな学校ではなかった。生徒が自殺しただの、教師の不審死などとは無縁で、七不思議なんかなく、少し面白くないと思っていたくらいだった。しかし小田は真面目だった。
『いや、この教室、絶対いるんだ。』
そんな会話に割って入って来たのは菊山だった。猫の顔の付いたゴム飾りで、ポニーテールにしてある、典型的な猫派。小田くんに賛成!と会話の中に割って入って来た。うげっと思い、遠藤は思わず顔をしかめてしまった。空気の読めない彼女は、クラスの女子から煙たがられているのを薄々感じていた。仲がいいのは、学級委員長女子の一梅だ。菊山は眼鏡をクイッと上げて語り出した。
「なんかこのクラス変なのよね。小田くんも分かってくれるなんて、うれしい。うちの猫を連れてこれたら、どこにいるかわかるんだけどね。」
「猫ならわかるのかよ?」
食いつくな小田。そういうと彼女はますます得意げに、スマホの画面に映した猫を見せてきた。
「そうなのこんなにかあいいのに、幽霊も分かっちゃうイイコなの、にこちゃんていうんだけどね!見てこのトラ柄美しいでしょ。」
「っていうかお前んち何匹飼ってんだよ。めちゃくちゃいっぱい写ってるけど?」
「これは譲渡会に行った時ので、こんなには飼ってないよ。譲渡会に興味が??」
この後猫トークを二人がしていたような気がする。小田も猫派だったとは意外だ。そういう何気ない思い出も、今では大事なものだ。
***
「このペンケース、女子の誰かのだから返しておいてくれないか?」
うしろから男子に声をかけられた。小林は猫柄のペンケースを見て、すぐに菊山のものだと気が付いた。
「俺は日直だから、理科室のカギ、職員室にもっていかないといけないんだ。」
女子で最後だった小林とコガワは、そういうことなら、と受け取った。
「今のって、小田、くん、だよね。」
そうか細い声で言ったコガワは、顔が真っ赤で可愛かった。
「やさしいんだね。」
それがコガワの恋に落ちた瞬間だったと思う。その場に居合わせられた自分によくやったと言いたかった。
小田天は、一言で言えば、サッカーのことしか考えていない、サッカーバカだった。他のことに興味がなさ過ぎて、コガワも手をこまねいていたように思う。しかもちょっとぼんやりしていることも多く、コガワの呼びかけに全く反応しないことも何回かあった。
引っ込み思案で声の小さいコガワとは、相性が悪かったのは認めよう。でもそれ以上に、可愛いのだ。
(こんなに可愛いコトリに、気が付かないなんてある?)
幾度となくそう思った。しかし声が小さいのもまた事実。コガワも声を出す練習をしていて、ちょっとずつ大きくなってきた。声がかけられて、話せるようになってきたら、サッカーバカも変わるだろう。そう思っていた。
だから遠藤が美化委員集会に出られないから小田と変わった時、美化委員の菊山に無理を言ったのだ。
「ねえ、今回の美化委員集会代わってくれない?」
「おやおや、舞子ちゃん~美化委員の代りに出たいなんて、変わり者だね。もしかしてゴミ拾いガチ勢なのかい?私も結構好きだけどね。なんかこう、小さいゴミも逃しはしないわって感じ?」
「いいから、今回だけ、コトリに代わって。」
「コトリ?ん~ああ。コガワさん?今日は来てるんだね?良いけど…。」
なんかよくわからないけど~頑張れ!そう言って菊山は親指をぐっと挙げた。少々おせっかいなのはわかっている。しかし何としても一言くらい話す機会があったっていいじゃないか。そう思って送り出した。それなのに見事に玉砕した。荷物は全部小田が持っているし、貰ったプリントも遠藤と菊山に渡しているし、コガワは真っ赤な顔で全部やってくれた、と感動しているし…。
(あれは違う。やってくれたんじゃない、無視したんだよ…。)
あれはコガワの存在を無視したんだ。関わりたくなくて、話すこともしたくなくて返事もしないし話もしない。多分、意図的に無視している。
そう感じたとき、小林は小田のことが嫌いになった。聞こえてないはずがない呼びかけを、全く無視されたときは、腹が立って、頭に血が上った。
「ちょっと、あんた待ちなさいよ!」
「?なんだ?」
しかし悪びれる様子もなかった。もうほんとこいつダメだ。
「ひとつ持つって言ってるでしょ?!」
「?いや、大丈夫だ。」
そう言ってさっさとゴミ捨てに行ってしまった。なんなのあいつホントにもう、あんなのコガワが好きとか、ありえない。
「ねえ、コトリ、あんなののどこがいいのよ。もっといい人いるわよコトリなら。」
「そ、そんなこと言わないで舞子ちゃん。小田くんは、すっごく優しいよ。」
あんなに悪びれずに、人を無視する人が?そう言いかけて、やめた。コガワは今、恋は盲目ってやつなのかもしれない。そのうち覚めるかな、と軽く考えていた。
「それより見て、これ。サッカーボールの刺繍入れてきたの。どうかな。」
「おお、きれいね、さすが手芸部。やっぱりコトリは器用だわ、今日渡すの?」
「えへへ、うん。放課後に。」
顔を赤らめて照れ笑いするコガワが、可愛かった。きれいに入った刺繍をこんな子に渡されたら、好きにならないわけがない。
しかし次の日あったコガワは、真っ青な顔色で現れた。何があったのか聞いても、手を震わして、何でもない、というだけだった。そしてその日、小田が倒れた。昼にケロリとした顔で戻ってきてまた腹が立った。こっちは心配したっての、とひとりで怒っていた。その放課後に小田がテニス部に来た。私のタオルを返しに来た。
「これ、ありがとうな。いまみんなに返してたんだ。」
「いつでもいいのに。」
「そういうわけにもいかねぇだろ。」
「部活は?」
「今日はさすがに休み。先生が親に連絡して、迎えに来てもらう。これから病院行ってくる。」
「ふーん。」
「ところで、菊山って何部?」
猫柄のタオルが一枚握られていた。確かに菊山のだ。
「確か文芸部。」
小田は天を仰いだ。
「部室何処だよ…。」
文化部の部室なんて、小林も知らなかった。
「持って帰って明日にしたら?」
「…そうする。悪いけど、そう菊山に連絡しておいてほしい。俺、連絡先知らんから。」
今まで一度も使ったことがなかったが、一応同じクラスの女子として、連絡先は知っていた。
「わかった。」
「ホント悪いな、ありがとう。じゃあ俺行くわ。」
「じゃあね。」
こうやって個人的に話す分には、小田はいい奴ではあるのに。菊山へのフォローもちゃんとしているし、話しだって通じるし、ありがとうもごめんなさいも言えるやつなのに。なのになんでコガワに対してはあんなに失礼なのか。何というか照れているのか?女子と噂になるのが嫌だったとか?確かに面白がって噂を広げた自覚はあるが。それがいけなかったのか?
それから数日たった時、菊山が階段から落ちて、怪我をした。
不可解な事故だったらしい。菊山はタオルの一件から、同じ猫派ということで時々小田と話し込んでいた。クラスの女子は噂を知っているので、小田と長々と話したりしないのだが、なにせ菊山は猫のこととなると、いきなり饒舌になった。そして小田も猫派であることから、菊山の飼い猫の写真を見せてもらっていた。
移動教室で、階段を上っている時、三段ほどの高さから、『後ろに引っ張られた。』そうだ。もちろん踊り場には誰もいないし、足首の捻挫程度だった。『やっぱりこの学校、何かいるのよ!』そう言い出した彼女はますます女子の輪から外れて行った。彼女と話をするのは、中学から一緒だった、一梅と、小林、後ろの席の工藤くらいだった。菊山だって変わっているが、いい子ではあるのだ。小林はみんなの誤解を解きたかった。しかしなかなか思うように解けなかった。
人間関係に悩んでいたある日、教室に忘れ物をしてしまい、部活終わりに取りに行った。二階の窓から、男女三人が並んで歩いているのが見えた。
サッカー部の男子と、コガワと、小田だった。あの男子は小田と話しているのを見たことがあった。確か山口だったか。どうやら二人きりは失敗したけど、三人は成功したらしい。それをほほえましく思って、明日成果を聞かねばと思っていた。
「山口君って、思ったよりも話しやすかった。」
コガワの口から山口の名前が出たので、他の女子は色めきだった。山口は何せモテた。彼女らが静かにこちらの話に耳を傾けていた。
「それで、今日も三人で帰ろうってことになって…。」
ニコニコ笑っているコガワは、殺気立った女子たちに気が付いていない。
「それで、慣れてきたら、小田と帰ればいいもんね?」
そう言った。
「うん。上手くいくかな?」
「いくわよ。」
そこまで聞いてやっと殺気が無くなった。そう言わば本命は小田で、山口はついでだ。コガワは山口など眼中になかった。そうしたら、今度こそ刺繍を渡すの。そう言って微笑んでいた。
ということは私は今日は一人で帰るか。いつもはコガワと途中まで一緒に行っていた。久しぶりに本屋にでも寄って帰ろうかな。
そう思い、部活帰りにいつもはいかない道を歩いていた。よく運動部でつかう、ランニングコースにある本屋を目指し、公園横をのんびり歩く。この公園にはゆるやかだが、数の多い階段があり、そこをよくダッシュで登ってトレーニングしていた。登り切ると手すりとちょっとした展望エリアで、小さな広場がある。散歩にはいい公園だ。
下道を歩いていると、後ろから何か聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「俺は狂っているんだ。おかしいんだ。やっぱり変だ。」
振り向くと小田に追い抜かれた。
「小田?」
しかし聞こえなかったのか、ブツブツ言いながら目の前の階段を速足で昇って行った。
「俺は、…てちゃいけない。」
様子がおかしい。常軌を逸した目をしていた。コガワと山口と一緒に帰ったのではなかったのか。平常ではない小田の様子。どうしても心配になって、彼の後を追った。
緩い階段を昇って行ったが、小田が早くて追いつけない。半分ほどまで来た。嫌な予感がした。急に足を止めた小田が、唐突に手すりを乗り越えた。
「小田!」
人生で一番大きな声で叫んだが、瞬きの後にはその場に小田はいなかった。すべてがスローモーションに見えて、伸ばした手は小田の制服をかすめて何も掴めなかった。
ザザサ、ゴン。
そういう鈍い音がした。手すりに縋って下を見た。下までは5、6メートルはある。
木の隙間、小田が倒れていた。今度は全速力で下った。うめき声がした。生きている。
「何してんのあんた!」
血が出ていた。救急に電話をした。手が震えて声も震える。その間小田がまだブツブツ言っていた。
「もういい、もういいよ、ほうっておいてくれ、こわいんだ、いきるのが、おれはあたまがおかしい。このままで。」
「すぐに救急車を、同級生が…、」
(なんて言おう、なんて言ったらいいの?)
「手すりから落ちてしまって、公園の。血が出ているんです!住所は…」
(あれは、なんて言うの?自殺?自殺未遂したって、私に言わせる気?!なんて言ったらいいんだよバカ小田!)
血に濡れるのもかまわず、頭の下にハンカチを押し込んだ。なぜか小田の頭は雨をかぶったように濡れていた。
救急車の音がしてきた。いつの間にか切れていた、スマホを制服にねじ込んで、小田の腕をつかんでいた。
「ああ、生きてる。頭のおかしい、俺は生きている。」
「あんたは頭おかしくなんかないよ!」
うそは苦手だ。しかし小林は少しうそをつくことにした。
小田は公園の階段の手すりで座っていて、不注意で落ちた、と。自分が声をかけて驚かせてしまったのだと。すぐにバレるだろうけど。
「先生、小田が、小田くんが、事故にあった。」
「私が救急車を呼んで、病院に付き添っているから、小田くんの家族に連絡して…。」
手術中の灯りが点いていて、見上げながらドラマで見たそのままなんだな、と余計なことを考えていた。
「あなたにケガはありませんか?」
看護師に聞かれた。これもまたテレビで見たことのある光景だ。
「私ですか?大丈夫です。」
まったく、小林自身にケガなどなかった。バタバタと走る音がした。
「すみません、小田天の母です!息子はどうなんでしょうか。」
血相を変えた女性が、涙交じりで看護師に問いかけた。逆に看護師は冷静だった。
「お母さんですね、今輸血と腕の手術中です。足にも捻挫がありますが、こちらは軽症です。命にかかわることはないでしょう、手も足も動きますので。ただ骨がくっ付くまで時間がかかります。」
「よかった…。」
「詳しい事故の様子は彼女に聞いてください。」
話しを振られた小林は、小田の母のほうは見れなかった。
「私が道を歩いていたら、公園の階段の手すりに腰かけている、小田の後ろ姿が見えて、危ないから、注意しようと思って声を掛けたら、逆に驚かせてしまったみたいで。バランスを崩して、そのまま落ちて…、すみません、私のせいです。」
「手すりに、座ってたのね…。」
「はい…。」
「なんて…おバカ。」
「…。」
小林の手に、小田の母の手が重ねられた。いまだに震えが止まらなかった。いまさらながら制服の袖についていた血に気が付いた。
「ありがとう、貴女は注意しようとしてくれていたのね。そうよね、手すりに座っていたら、危ないものね。」
今まで上げられなかった顔をあげた。涙を流している小田の母の顔を見た。
「救急車を呼んでくれて、ありがとう。」
「そうですね、出血が多かったので、彼女がすぐに呼んでくれなかったら、危なかったでしょう。」
こくりと頷いた看護師が、幸いだったとそう言った。
「あなたは天の、恩人だわ。」
(違う。ちがう。私は恩人じゃない。だって。)
急に目頭が熱くなって、涙がこぼれた。今までずっとこらえていたのに、ダメだった。
(あいつは…死にたいって言ったもの。)
突然泣き出した小林の、背中をさすりながら、大丈夫?と優しく声をかけてくれた小田の母。ボロボロこぼれる涙。歯がギチギチ鳴っていた。こんなに小田の心配をしているこのヒトに、そんなこと言えない。
(言えるわけないじゃない、小田のバカ…!)
「元気に、なったら、小田に、文句を言います。」
「そうね…。思いっきり言ってあげて。」
***
目が覚めた。幼少期から使っている自室で、飛び起きた。
(夢…だったらどんなにいいか。)
時計はまだ早朝を指していた。しかしもう一度、布団に戻る気にはならなかった。
いつもより早く、学校に着き、自主的に職員室に行った。小田の容態が知りたかった。
「大丈夫か?小林?」
先生は疲れた顔をして、しかしこちらの心配をしてきた。あのあと到着した先生に送ってもらい、家に帰ったのだ。
「大丈夫です、それより、小田は?」
「とりあえず手術は成功した。手すりに座っていたんだよな?お前のほうが詳しいか。命に別状はないが、右手骨折全治2か月だそうだ。足の捻挫はその間に治るだろうが、大会には間に合わんな。ま、まだ一年だし、すぐに授業に出られるさ。」
(果たして、そうだろうか。)
あの、精神状態で、学校に戻って来られるのだろうか?こわいんだ、いきるのが。そう言っていた小田が、学校に戻ってくることなんてあるのだろうか?
「コトリ、ちょっといい?」
「ん?おはよう、舞子ちゃん。どうしたの?」
「昨日の小田の様子、教えてほしいんだけど。3人で帰ったよね?」
「え?昨日の小田くん?普通だったけど…。あ、用事があったみたいで、途中で一人で帰っちゃったよ。」
「用事?」
「うん、一緒に行こうって言おうとしたら、走り出してておいていかれちゃった。」
「そう…、あのね…。」
キョトンとしたコガワに、ますます言い出しにくくなってしまったが、小林は一呼吸おいてから話し始めた。
「昨日、小田が…事故…にあったのよ。」
「え?」
「私が一人で帰っていたらね、公園の階段あるでしょ?あそこの手すりに座ってね。」
大きな目が見開かれていた。
「バランスを崩して落ちちゃったの。見てたのよ。」
手を口元にもっていき、ぽろぽろと涙を流し始めた。小林は思わず視線を外した。
「今病院よ。命に別状はないけど、骨折したの。」
何も言えないコガワが、落ち着くまで待っていた。
「昨日、変わった様子、無かったかなって。」
「変わった、様子?」
そのとき教室の後ろの扉が開いた。
「小田ーーー来てる?って、コガワさん、どうしたの?」
「山口くん。」
涙を流しているコガワさんに動揺しつつ、こちらに来た。
「どうしたのよ。」
「いや、小田が昨日から連絡着かないから…昨日の帰り、様子が変だっただろ?」
「どう変だったの?」
小林は振り返って山口に問いただした。
「え、ああ、ちょっと顔色悪くてさ。体の調子でも悪いんかと…。」
「それで?」
「昨日の練習中もボーっとしてたこと多かったから…。らしくないと思って。」
コガワは顔を伏せた。
(そんなの全然気が付かなかった。)
「やっぱり…」
「…舞子ちゃんは、小田くんが変だって…いつもと様子が違うって思っていた?」
小林は山口のほうを向いたまま、首を振った。
「ううん。全然気が付かなかった。でも事故に遭ってから、思うことはある…。」
「…え!?事故!?」
「あいつ、何か悩み事があったみたいなの…。うん、ああ、あんたは知らないか。あの、昨日ね…。」
小林が山口に小田のことを話している間、コガワは昨日の小田の様子を思い出していた。どう思い返してもおかしな様子なんてなかった。言えることは…。
「なんか独り言で、ブツブツと何か言ってたかも。」
「うーん独り言ね、やっぱり本人に聞かないと分からないわね。」
「あいつ、練習中ボーっとするような奴じゃないんだよ。」
「そうね、やっぱり今度落ち着いたら、お見舞いに行ってみましょう。」
そう言いつつ小林は頭の中で今日の予定を立てていた。放課後に、小田の病室に行かなければならない。それも一人で。