バグ⑭
コーヒーを一口、飲んだ。味の違いなんて遠藤にはわからないが、とにかく喉が渇いていた。
「途中、眠気に襲われて、うたた寝をしてしまったそうだ。そうして気が付くと街灯の無い真っ暗な道に差し掛かっていて、坂道を登っていたそうだ。ここはどこ?と聞くと、珍しく優しく母が、もう少しよ、と返してくれて、そのあとの記憶は水の上に浮かんでいるところから始まっているそうだ。寒くて手にはなぜかスマホがあったそうだ。暗い湖面でもがいて電波が悪かったので少し歩いて電話をしたと。」
「衝撃で、外に投げ出されてしまったんでしょうか。」
古川は遠藤のつぶやきに首を振った。厳しい顔つきだった。
「俺が着いたとき、体温は驚くほど低くなっていたが、外傷はなかった。救急車に乗せて、2月のダム湖に落ちたんだ、それだけでも病院にはいかなければならない。俺が夜勤の同僚に電話して応援を頼んで、ダム湖に落ちたであろう車の捜索を依頼して・・・どうせ身内は担当になれないからな。きっと外されると思ったから、現場から離れて、姪について行ったんだ。」
そこで一口水を飲んだ。
「そう、俺は確かに姪について病院に行き、そこで兄と兄嫁の訃報を聞いたんだ。水位が高く、車の引き上げはできなかったが、遺体は発見したと。後々調べれば借金の連帯保証人になっていたようだ。お人よしの兄のことだから、誰かに騙されたんだろうな、かなり多額の借金があった。」
「それが2月の話ですよね。」
穏やかな日差しの入る居心地のいい喫茶店には不釣り合いな、壮絶な顔をしていた。白髪交じりの頭がこくりと頷く。
「ああ、それから姪は3人で住んでいた家に戻ると言い張って、高校には寮があるからそこから通うと意地を張ったんだ。うちから通えばいいのに。あまり強くは言えなかった。言われるままに寮の手続きをして、あの時はバタバタしていてな。一応入学式には俺がついて行った。」
「そしてコガワさんは入学して、俺のクラスメイトになった。」
二人はそこで溜息をついた。年齢も経歴も生まれも全く違うが、なんとなく同じ気持ちだった。
「そうだ。それで7月、空梅雨でダムの水が減って、車の屋根が見えるくらいになった時、俺に連絡が来たんだ、ダムの管理室から。いや、俺にじゃないな、警察にだな。遺体がまだ入っているって。」
遠藤は喉が渇いて今度は水を飲もうとして、しかし体が動かなかった。
「現場に急行してみれば、変わり果てた姿のコトリが、ずっと水の中に入っていたんだ。シートベルトはしたまま、死因は溺死。両親の座っていた運転席と助手席は窓が開いていたから、体がはみ出ていて、すぐに発見されたそうだ。しかししっかり座っていた小柄なコトリは発見されなかった。」
「じゃあ、俺のクラスメイトは?」
「ああそうだ。俺は父親の携帯から電話をかけた姪を迎えに深夜に妻と一緒に車を飛ばして行って、病院まで行ったんだ。あの時の電話のあの子は?」
古川は自分の手をじっと見ていた。遠藤はコップを掴んで水を飲み干した。何もせずにはいられなかった。
「もう死んでいたはずなのに。」
どちらが言ったのかもわからない、もしかしたら両者同時に言ったのかもしれないし、心中で思っただけかもしれない。二人の思いは同じだった。おかしいと頭では分かっているのに、納得できなかった。だって遠藤は確かに、彼女と出会って、彼女に恋をしたのだ。もう顔も思い出せないが、見ているだけで幸せだった時期があった。
「7月にダム湖で遺体が揚がったことも、確か記事になっていたはずだ。農業用水とはいえ、あまり気分のいい記事ではないから、そんなに大きい扱いではなかったと思うが。そのあとすぐに、コトリの寮に行った。そうしたら、担任だという先生が部屋で困惑していたから、叔父であると名乗って、中に入れてもらったんだ。そこはもぬけの殻だった。使った形跡はなく、部屋には父親のスマホが電源が切れた状態で置いてあった。」
「クラスの女子が、コガワさんがいなくなった日に、寮にも行ったけど、何もなかったと言っていました。もぬけの殻とは・・・。」
だからなのか、小林は二日目にしてあきらめが強かった。
『いっそ、小田を追って行ってしまったと思ったほうがしっくりくるわ。』
そんな事を言っていた。小田とコガワさんがいなくなった学校は、それでも定期テストがあり、夏休みがあった。漠然と立てていた、小田と遊ぶ予定がきれいさっぱりなくなり、部活に明け暮れる日々だった。物足りなさを抱えたまま学年が代わると、今度は二人の名残が教室から無くなった。ずっと開いていた机に、ロッカー、下駄箱なんかが2年になって一新された。そこから急速に記憶から消えていき、喪失感も徐々になくなっていった。友人と呼べる人もでき、山口ともクラスは違うが話すようになった。
今、その高校生活の思い出の一部が、完全に消えさったのを自覚した。
「コガワさんがずっと休んでいたと言っていた人たちもいたんです。じゃあその人たちの言っていることが、正しかった、と。」
「集団ヒステリーだとか、何か名前がつく現象かもしれない。でもどうしても、信じられない。いなかったとは思えない…。」
しかしまったく、記憶と事実が合わない。
「遺伝子検査もしたし、死亡推定時期も全部、何度も見た。あの遺体は確かにコトリだった。じゃあ俺は、いったい誰からの電話を取ったんだ。」
あれは何だったのか、コガワの叔父と話していても、全く答えは出なかった。その後はお互い冷めたコーヒーを胃に流し込んで、お開きとなった。最初に飲んだ時より、苦く感じた。




