バグ⑬遠藤と古川
あの後、バケツがずれていたと、小林に文句を言われて、もう一度コガワの席を拭く羽目になった。しかしおかしいのだ。バケツには一滴も入っていなかった。どこから水が来るのかと天井をじっと眺めても、滴っている水はおろか、シミの一つも見当たらなかった。それでも音はする。
ぴっちょんぴっちょん。
そして机には水たまりができて、コガワの机や椅子を濡らすのだ。いったいどうなっているのかさっぱりだった。
昼休みになってもコガワは姿を現さなかった。職員室に小林と向かったが、先生たちがいつも以上にあわただしく動き回っていた。担任の吉田先生はどこかに電話中であったし、学年主任は席にいない。扉で先生の電話が終わるのを待っていると、後ろから斎藤先生がちょっとどいてね~とやって来た。遠藤は思わず斎藤先生を止めた。
「あの、コガワさんはどうなったんですか?見つかりましたか?まだクラスに戻ってきてないんですけど…。」
「うん。そうだね。戻ってきてないってことはそういう事だよね。」
今度は小林が顔色悪く言った。
「そういうことというのはつまり・・・」
「見つかってないよ。保健室にも、玄関の靴もないし、トイレも手分けして全部見回ったけどいなかった。」
つまりそれって。
「消えちゃったね。どこに行ったんだろうね。」
その日初めて背筋に寒いものを感じた。あの時小田の転校という衝撃があったが、それにしてもコガワは視界には入っていたはずなのだ。なのに、消えた。
「私あの時あんたのほう、一瞬見たのよ。小田が転校するって聞いて。その一瞬目を離した時に消えたのかしら。というかそうよ、小田と連絡とった?なんか返信とかある?」
「それが、返信が無いんだよな。もしかしたらあっちもバタバタしてるんかな?病院がスマホ禁止とか?」
「脳神経外科とかだとそうかもね~。MRIは磁気のせいでスマホが壊れるっていうし、持ち込み禁止だったと思うよ~。」
「そうなんですか。」
いったい何がどうなっているのか。教室に戻り遠藤の席にたむろすれば、同じ質問を菊山にもされた。
「私が送った連絡にも返信がないの。というか一斉にたくさん送ったからクラスで代表して誰かに返信来るかなと思って…それなら帰ってきそうなのって遠藤君じゃん。でも来てないのか…。」
しょんぼりしてしまった菊山に、先ほど斎藤先生に聞いたMRIの話をして、きっと後から返信来るから大丈夫だと励ました。
「というか、みんなコガワさんを探していたのね。」
「そう、菊、聞きたいことがあったの。菊も、コトリのこと、見えなかったの?」
そう言えば、小林の話に違和感があった。それがこれだった。
「見えない?よくわかんないけど、一度も会ったことないよ。だって学校に一回も来てないじゃん。斎藤先生にも言ったけど、ずっと休みでしょ?」
不思議そうな顔の菊山に、はあ、と小林はため息をついた。
「それ、小田に言った?」
少し声のトーンを落とした小林に、首を傾げながら菊山も声の大きさを抑えた。
「言ってないよ。小田くんには別件の相談をしてたの。あの、後ろの席から、水の滴る音がするの。そしたらコガワさんの席、濡れてたんでしょ?私怖くて。だっておかしいでしょ。ずっとぴっちょん、ぴっちょんって言っているの。バケツに水が落ちたら、ボンとか、トンとかいうはずでしょ?全然音が変わらないから、おかしいって怖くて後ろ向けなかった。でも2限目以降もずっとぴっちょんだし、ずっと音はするし。」
脂汗を流しながら言った菊山の言葉に、遠藤と小林は体を固くさせた。思わずコガワの席を見た。
確かに、そうだ。そして今もそうだ。
ぴっちょん、ぴっちょん。
置いたバケツに入ることなく、机にずっと滴っている。そのおかしさに何で気が付かなかったんだろう。
結局次の日には水が滴ることは無くなった。コガワの行方を待つ日々を送っていたが、その日からコガワはクラスに戻ることはなかった。
***
ダム湖から車に乗り、記憶よりは少しだけ古くなった高校の前にやって来た。1年の夏休み前まで一緒だった二人のクラスメイト。めっきり顔も思い出せなくなってしまっていた。校庭は授業中なのか静かで、昼休みはここで小田とサッカーをしていたな、と思い出に浸っていた。高校の連中で今でもよく連絡を取っているのは山口だった。
「なんで連絡をくれないんだよ、小田…。」
成人式の後の、プチ同窓会で、酒をあおった山口はそう呟いて、初めて飲んだ酒を流し込んでいた。スポーツトレーナーになるべく大学進学した山口は、相変わらず真面目に日々を過ごしていたらしい。あのあと一度だけ返信が来た。
小田から、『いきなりいなくなってごめん、これからスマホを解約するので、連絡が取れなくなる。それからずいぶん遠いことろにある病院に来たため、気軽に会いに行けないが、遠くからみんなの活躍を祈っている。』そんな、もう二度と会えないような内容の返信だった。
大人になったら会いに行こうと、山口は思っていたようだが、これでは手掛かりがなさすぎる。遠藤のほうは半ばあきらめていたが、いつか来るかもしれない連絡を、山口はずっと待っていた。最後に会ったのは彼だから、諦められないのだろう。遠藤と山口の話すことと言ったらもっぱら小田についてのことだった。
「心配かけすぎなんだよ。」
そう愚痴を言って煙草をふかした。また車に乗り、今度は通学路沿いにあった喫茶店に停めた。商店街に続く道に面しており、人の往来が田舎にしてはあるほうだ。少々くたびれた扉を開けば、客は一人。待ち合わせの人が先に来ていたので、遠藤はぺこりと謝罪の意味で頭を下げた。
「すみません、お待たせしました。」
彼はメニューを開いて水を飲んでいた。
「いえいえ。少し早く来てしまったのはこちらですから。」
遠藤とは親子ほど年の離れている、中年の男性だった。少し精悍な顔立ちに見えるのは、遠藤が彼の警察官という職業を知っているせいかもしれなかった。向かいの席に座ると、マスターが水を入れてメニューをくれた。
「直接会うのは初めてですね。古川と申します。コトリの叔父にあたります。」
「どうも初めまして、遠藤と申します。この度はクラスメイトとして話をお聞きしに来ました。」
そう言って二人は名刺を交換した。
「もう何十年も前のことだからね、あんまし期待しないでくれ。」
「それは承知しています。失礼なのは自分のほうだということも存じておりますが、少しばかりお話をしていただきたいのです。」
「何から話そうか?」
そう言って両者コーヒーを頼んだ。
「この記事を見てください。」
「ああ、あの日のか。」
『一家心中か?ダム湖に車で突っ込む。』
そういう見出しの記事には、遺体が2つあがった、と書かれていた。古川はふうとため息をついた。
「あの日、2月の、深夜の、2時だったか。そのくらいに電話があった。俺の携帯に、まあ急な連絡もたまにある職業ではあるから、そういう事もある。画面を見ずにぶっきらぼうに出てみたら、今年中学3年になった姪からだった。」
そこで言葉を切った。マスターが無言で差し出したコーヒーを受け取った。
「中学3年の、コガワコトリさん。」
「震える声で車がダムに落ちた、と言っていた。とりあえず救急に連絡して、俺も現場に向かった。電話をしながら運転はできないから、嫁さんを起こして電話を代わってもらってな、ダム湖まで1時間半、かかった。その間妻がコトリを励まして、何があったか聞いていたんだ。」
「彼女は自分の電話から?」
「いや、俺の兄の・・・お父さんのスマホから。」
「そうなんですね。」
「夜に急に、父がドライブに行こうと言い出したそうだ。その日の夕方まで母と喧嘩をしていたから、妙だとは思ったが、昔のように仲の良い二人に戻っていたから、喜んで久しぶりのお出かけに行くことにした。些細な疑問はどこかに行ってしまった。小さいころからよく行った公園や、海辺の旅館の前など通って、少しはしゃいで、行きたいところはないかと言われたそうだ。だからコトリは春から通う、高校を見たいと言ったそうだ。二人は押し黙った後に、ナビに住所を入れだした。」




