バグ⑫ と小田
月曜日の朝礼ほど、気の重くなるものはない。
「最近は暑くなってきたから、えー、水分はこまめに取るように。」
担任の吉田先生の声だけが、教室に響いていた。相変わらず遠藤の後ろの席は空いたままだし、また張り合いの無い学校生活を送るのか、と少しだけつまらない思いを抱えていた。
「それから最後に、小田が病院の転院の関係で、転校することになった。」
何を言われたのか、よく、分からなかった。突然のことに声が出なかった。
転校?今先生はそう言ったか?
クラスメイトの視線が何人かこちらに向いたような気がするが、遠藤の驚愕の表情に、知らなかったらしいと察してくれたようだった。二の句の継げない遠藤に代わってなのか、小林が声をあげた。
「それっていつですか?転院って、そんなに悪いんですか?」
「お母さんが言うところによると、なかなか吐き気が収まらないようで、落ちたときに頭を打ったせいかもしれないから、検査のため県外の名のある病院に行くそうだ。ちなみにもう転院はしているから、病院に行ってもいないぞ。」
まるで、夜逃げのように突然消えてしまった。
「それでも、なんで急に。」
思いのほか大きいつぶやきになってしまった遠藤の声を、先生は仲が良かったことを考慮して拾ってくれた。
「もし脳に何かあるなら検査は早いほうがいいという事らしいんで、こんな急な転校になったそうだ。」
確かに、確かに小田がたびたび嘔吐していたのは分かっている。そのうち何度かにはかち合っているのだ。しかしそうは言っても急すぎる。山口から会いに行った旨の連絡があったのが、土曜日だ。
「何にも聞いてないわよ、私。」
「俺もだよ。」
担任の吉田先生が出て行って数学の先生が来る間、遠藤の席の近くに行った小林がため息交じりに言えば、彼は同意の声しか出なかった。
「確かに辛そうだったし、検査で原因が分かればもしかしたら戻ってくるかもしれないよな?あいつサッカーがしたくてこの学校に来たんだし、また会えるよな?」
自分で言っていて、可能性の少ないことだとは自覚していた。これを、コガワはどう思うだろう。そう思って彼女の席に目をやった。
「アレ?コガワさんは?」
「え?さっきまでいたわよ。私、コトリの後ろの席だし。」
ざわつく教室を小林と一通り見回して、たいして広くない教室で小さい女子を探した。いない。朝礼と1時間目の間に余裕はない。だからわざわざ教室から出ていく人など基本的にはいないはずだ。
「あ、担任に小田のこと聞きに行った?」
そう言って扉を開ければ、担任の先生の後ろ姿が小さく見えた。数学の斎藤先生が歩いてくるのも見えたので、小林は二人の先生に声をかけた。
「先生、コトリ・・・コガワさん、知らないですか?」
ちょうどすれ違うところだった、担任と斎藤先生は同時に足を止めた。
「さっきまで教室にいただろう?」
「はい、でも今は見当たらなくて。トイレに行くなら先生のいるほうに行くでしょう?」
もうチャイムが鳴ってしまうから、速足で先生たちのほうに向かいながら言った。
「あ、今日は出席しているんですね。」
中年の斎藤先生は、それはよかったとのんびり言った。
「今日は?いつも出席していましたよ。」
「そんなはずないですよ、彼女の席はいつも空席じゃないですか。何か月か前にコガワ、でしたっけ?どうしているんですかって聞いたじゃないですか。そしたら問題ないって。彼女寮住まいでしたっけ?それで不登校って珍しいなと思ってたんです。」
斎藤先生は名簿開いて、ずっと欠席になっているコガワの欄を見せた。それを見ても信じられないと言った様子の小林が、青ざめながらか細い声で言った。
「いえ、今日の朝は確かにいました、私は話しましたし。」
「じゃあ、数学だけさぼってる?僕は会ったことないよ~。入学したての頃に一番前の席の女子にも聞いたけど、一度も会ったことが無いから分らないって、ずっと休んでいるって言ってたし。」
一番前の席の女子って、だれだ?遠藤はすぐに思い出せなかった。
「まさか、菊も?」
小林の疑問に、しかし違和感を感じた。
「いや、私のほうの名簿には出席になっています。どういうことですか?」
担任も全くさっぱり訳が分からないという感じだ。
「一度教室を見てみましょう。吉田先生も一緒に来てくださいよう。」
扉を開いたときにチャイムが鳴ったが、席についた生徒に、コガワはいなかった。開いている席は今先生たちの隣にいる遠藤と小林、それから小田とコガワだった。斎藤先生が目の前の菊山に声をかけた。
「今日ってコガワさん、来てた?」
「いえ?お休みじゃないですか?いませんでしたよ。」
菊山がくるりと後ろを振り向き、後ろの席の工藤のさらに後ろを覗き込んだ。その工藤も後ろを向いたと同時に、クラス全員が一斉にコガワの席を見た。
「アレ?今日来てたよね?」
「え?そうだっけ?でも女子の休みはいなかった気がする。」
ざわつく教室に、菊山は担任の吉田先生に振り返った。
「私は一番前だから、朝からいたかはわかんないかもです。吉田先生ならわかるよね?どうでした?」
「・・・出席していたはずですが。」
「じゃあ、具合が悪くなって、保健室に行ったとかかもしれませんね。吉田先生は行きそうなところを探してください。私は数学の授業をしますね~チャイム鳴ったので。」
吉田先生は担任だが少し動揺していた。数学の斎藤先生のほうが年かさで経験豊富なためか落ち着いていた。
「はい。保健室に行くとか、トイレに行くとか、具合が悪いとか、聞いた人はいるか?」
主に女子に吉田先生が聞くが、小林を筆頭に一様に首を振った。
「ねえ、いっこいい?」
菊山が工藤に振り向き、小首を傾げた。
「教科書とか、そういうのって机に入ってる?カバンとか、あるかな?」
その疑問に、吉田先生がコガワの机のほうに来た。
「濡れてるな?」
机に水たまりができていた。上からぴっちょんぴっちょんと滴り落ちていた。
「雨漏りですか?これはかわいそうだ。いつからでしょうかね~。上の階も確認しましょう。」
吉田先生は手を濡らしながら椅子の背を引いて、机の中身をを覗いた。
「何もないな。カバンもない。ロッカーは…。」
「鍵が付いているんじゃないですか?」
小林がコガワのロッカーを指さしながら言ったが、一応、と先生が引っ張ると、すんなりと開いた。中身は空っぽだった。入学してもう数カ月たつが、使用感がなかった。
ぴっちょんぴっちょん。
「さすがにこのままはよくないね~遠藤君、掃除ロッカーからバケツと雑巾出して。」
一番後ろの角席である小田が今はいないので、一番ロッカーに近いのは遠藤だった。すぐに一番きれいな雑巾とバケツを持ってコガワの席に行った。ササっと机を拭いてからその上にバケツを置いた。手を洗いに行きたいと言えば、斎藤先生が行ってきな~と言ってくれたので、中座した。その間に吉田先生は教室からいなくなっていた。
ぴっちょんぴっちょん。
「これでいいね。じゃあ数学をしようか。」
いつも通りの授業だったが全く身に入らなかった。
ぴっちょんぴっちょん。
相変わらず水の音が先生の声と教室に響いていた。




