第5話「夏コミ準備に追われる部員たち」(2019年8月)
県立東陽大学のキャンパスは閑散としていた。夏休み真っ盛り、多くの学生が帰省する中、サブカル部の部室だけは異様な熱気に包まれていた。
「締め切りまであと2日!」小野寺の悲鳴のような声が響く。「あと12ページも描かなきゃいけないのにー!」
デジタルペンを握る彼女の手は疲労の色を隠せない。モニターには途中まで描かれた同人誌の原稿が映し出されている。
「頑張れ」高橋が冷静に言った。彼はソファで自分のガンプラ製作に余念がない。「締め切りを守るのは社会人の基本だぞ」
「余計なこと言わないでよ!」小野寺が振り向きもせずに叫ぶ。
「僕が手伝えることはありますか?」中村が控えめに申し出た。「トーン貼りとか…」
「マジで?」小野寺が初めて顔を上げた。目の下にはクマができている。「トーン貼り助かる!それと、このセリフの清書も…」
「大丈夫です、任せてください」中村はパソコンの前に座った。
「小野寺さん、水分補給を」山田がペットボトルのお茶を差し出した。「脱水症状になりますよ」
「ありがと〜」小野寺はそれを一気に飲み干した。「山田ちゃんも小説の方はどう?」
「何とか完成しました」山田は小さく微笑んだ。「前半はファンタジー小説、後半は創作論という変わった本になりましたが…」
「それ、実は超需要あるよ!」小野寺が目を輝かせた。「同人界隈では創作ノウハウ本、けっこう人気なの」
「そうなんですか?」山田は少し驚いた様子。
部室のドアが勢いよく開き、佐伯が大量の資料を抱えて入ってきた。
「よし、みんな聞いてくれ!」佐伯は興奮した様子で言った。「C96のサークルマップをゲットしてきた!俺たちのスペースはここで、周りはこんな感じで…」
「佐伯」高橋が冷静に指摘した。「その情報、Webで見れるぞ」
「紙の方が全体像が把握しやすいだろ!」佐伯は熱く反論した。「それに、このマップを持っていると、コミケ感が増すんだよ!」
「わかるー!」藤井が突然現れた。手には大量のコンビニ袋。「差し入れ持ってきたよ〜」
「おお!救世主!」小野寺が叫んだ。
「藤井、ありがとう」佐伯も感謝した。「お金後で返すよ」
「いいよいいよ」藤井が満面の笑みで言った。「私のバイト代から出してるから。それより、皆の準備はどう?」
「私はもう印刷データ入稿したよ!」藤井は自慢げに言った。「『推しと私の365日〜アイドルヲタクの記録〜』、20ページだけど、写真いっぱい使ったから大丈夫!」
「藤井さんも本出すんですか?」山田が驚いた様子で尋ねた。
「うん!サブカル部からは私と小野寺ちゃんと山田ちゃんが新刊出して、あとは佐伯さんが評論本と、高橋くんがガンプラ解説本でしょ?」
「私のはただの感想文みたいなものですが…」山田が恥ずかしそうに言った。
「それが良いんだよ」佐伯が熱く言った。「同人誌の魅力は多様性だからな。商業誌にはない視点や情熱がある」
「また始まった」高橋がため息をついた。「佐伯の熱弁」
「あの…松田さんは参加しないんですか?」中村が静かに尋ねた。
「松田は…」佐伯が説明しかけたとき、部室のドアが開いた。
松田が黙々と入ってきて、大きな段ボールを置いた。
「何これ?」小野寺が不思議そうに見る。
松田は無言で段ボールを開け、中から10台ほどのレトロゲーム機とソフトを取り出した。
「おお!」佐伯が目を見開いた。「松田、これは…」
「物販」松田は一言だけ言った。
「なるほど!レトロゲームのジャンク品を修理して販売するのか」高橋が理解した様子で言った。「さすが松田」
松田は小さく頷くと、黙々と機材をチェックし始めた。
「皆、それぞれの形で参加するんだな」佐伯が感慨深げに言った。「中村くんは?」
「私は…」中村が恥ずかしそうに言った。「実は初参加なので、まずは見学と手伝いを…」
「それでいいんだよ!」佐伯が力強く言った。「コミケは一度経験しないと分からないことも多いからな。来年は中村くんも何か出せるといいな」
「はい」中村は嬉しそうに微笑んだ。
「よし、じゃあ作業に戻るぞ!」佐伯が声を上げた。「あと2日で全ての準備を終わらせなきゃ!」
「待って!」小野寺が突然パニック声で言った。「私、背景全然終わってないのに、あと何ページも…」
「私が手伝います」山田が申し出た。「小説は終わったので、時間はあります」
「えっ?でも山田ちゃん、絵描けるの?」小野寺が驚いた。
「いえ、絵は描けませんが…」山田は静かに言った。「文章構成とか、セリフの推敲とか…」
「それ、めちゃくちゃ助かる!」小野寺の目が輝いた。「実は私、セリフとか苦手で…」
「私に任せてください」山田は自信を持って言った。「ラノベ読破の経験が役立つと思います」
「じゃあ俺は印刷所との連絡担当だな」佐伯が言った。「去年みたいな入稿トラブルは避けたい」
「データのバックアップは俺が担当する」高橋が意外にも申し出た。「USBとクラウド、両方に保存しておく」
「私は差し入れとコスプレ衣装の準備!」藤井が手を挙げた。「今回は『ラブライブ!』の衣装で行くんだ〜」
「コスプレするの?」小野寺が驚いた。
「うん!せっかくだし!」藤井はスマホを取り出して写真を見せた。「これ、先月買ったやつ!」
「すごい出来だね」小野寺が感心した。「私も去年はコスプレしたけど、今年は新刊に集中するから…」
部室の中は熱気と緊張感に包まれつつも、どこか楽しげな雰囲気が漂っていた。それぞれが自分の役割を見つけ、互いに助け合いながら準備を進めていく。
「あの…」中村が突然声を上げた。「みんなで集合写真を撮っておきませんか?記念に」
「いいね!」佐伯が目を輝かせた。「サブカル部、初めての全員参加コミケだもんな!」
「私、三脚持ってるよ」藤井がバッグから取り出した。「自撮り用の」
彼らは部室の壁をバックに並んだ。
「はい、チーズ!」
シャッター音とともに、準備に追われながらも笑顔の七人の姿が記録された。写真の中央には小野寺の描きかけの原稿が写り込み、松田の手にはドライバー、高橋はガンプラを持ち、山田は原稿用紙、藤井はコスプレ衣装の一部、佐伯はサークルマップ、そして中村はカメラに向かって初めて思い切り笑っていた。
「あとは当日だな!」佐伯が力強く宣言した。「みんな、コミケで会おう!」
窓の外では夏の太陽が輝いていた。大学は夏休みでも、彼らの熱い夏はまだ始まったばかりだった。
***
コミケ当日。早朝5時の東京ビッグサイト。
「暑い…」小野寺がうなだれた。「もう疲れた…」
「始まってもないぞ」高橋が冷静に言った。
「これがコミケか…」中村は周囲の長蛇の列に圧倒されていた。「想像以上です」
「中村くんも山田さんも初参加だっけ?」佐伯が振り返った。「大変だけど、楽しいぞ!」
「分かりました」山田は決意を込めて言った。「この経験を今後の創作に活かします」
松田は黙々と機材を設営していた。藤井は更衣室に向かう前、皆にガッツポーズを見せた。
「皆」佐伯が真剣な顔で言った。「これは単なるイベントじゃない。これは文化だ。歴史だ。我々はその一部なんだ!」
「はいはい」高橋がため息をついた。「とりあえず、設営終わらせようか」
だが、高橋の口元も少し緊張と期待で引き締まっていた。これから始まる長い一日。サブカル部の夏コミが、今始まろうとしていた。