表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

僕の故郷2

 この『故郷』という言葉が唐突に頭に浮かんだのは、もしかしたら以前家でお姉ちゃんがほかのみんなと話していたことを覚えていたからじゃないかしら。あれはお兄ちゃんがアルバイト前に早めの晩御飯を食べた後だったろうか。どこからそんな話になったのかは覚えていない。

 『ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはなんで東京の大学に行かなかったのよ?その気になればどこにだって入れたでしょうに。』

 『なんだて、藪から棒に、ほんなもん俺の勝手だわさ。大体何でわざわざ東京なんぞ行かなかんのだ、とろくさい。』

 『ふん、もったいない。東京の方が面白いに決まってるでしょ。お兄ちゃんが東京に行ってたら、あたしいつも東京に遊びに行けるじゃない?』

 『ほうかほうか、俺が東京に行っとったらお前はしょっちゅう来てくれて、いろんなとこに一緒に遊びに行ってくれたんか?ほら残念だった、東京行っとけばよかったかしゃん。お前といっつもデートが出来たんならなあ。』

 『何言ってるのよ。あたしは一緒に行った友達と原宿とか六本木に遊びに行くの。』

 『嘘言ってござるわ。どうせ寄席通いか歌舞伎見物だろうが。』

 『それもちょっとはあるけど、あたしだって女の子らしい遊びくらいするわよ。だからお兄ちゃんはいいの。』 

 『ほだったら、ここで正解だわ。俺が東京行ってもええことなんかあらせんがね。』

 『そういうことじゃないんだったら!名古屋より東京の方がいいに決まってるでしょ。当たり前じゃない。』

 『決まってるとか当たり前とかお前さんは言っとるけどな、俺がバイト先で世話になっとる某大手何々店の東京本社の偉いさんが名古屋のことを、東京より東京っぽい街、と言っとらしたわ。名古屋も案外ええところかも知らんぞ』

 『何よそれ、馬鹿々々しい。』

 『いや、そう言わんとちょっとお聞き。その人は結構な年のおじさんなんだがな、自分のことを“栃木の田舎者”と称してござったから、まあ宇都宮とかの出身じゃあなかろうが、何しろ北関東の都会じゃないとこのご出身だわ。ところでそういうとこで生まれた小っさい少年が憧れる第一のもんは何だて?花の大東京だろうが。けどいっくら憧れとっても今と違ってそうそう簡単に東京なんぞ行けるもんじゃない。だでな、きっと少年たちはいろんな情報を集めては、東京とはどんなとこだかしゃんと想像しとったに違いないわ。けどな、これも何分昔々のことだで、今と違って手に入る情報も限られとる。テレビ、ラジオ、雑誌、ほんなもんだろ。そういうもんからせっせと情報を仕入れてな、地方の良い子たちは想像しとったんだわ、東京とはこんなとこだかしゃん、とな。そうしとる間に少年たちも大きくなる、大学生になったり就職したりする、そこで漸く憧れの大東京に行けることになるんだわさ。ところがここで例の偉いさんな、この人の場合は、いざ東京に行ってみたら自分がずっと想像しとった東京の風景と現実の東京の光景がちょこっと違っとったみたいなんだわ。まあそういうことは往々にして有り勝ちだで、ほんなもんかなと思っただけだったげな。それからその人は仕事の関係で日本中の都市と言われるとこに行くことになる、まあ要するにでかい歓楽街があるようなとこだわな、ほいでいよいよ名古屋に来て、まあ何と、ここに自分が小っさいころ想像しとったとおりの風景が広がっとったということらしいわ。ほうしてこれは名古屋でだけ感じることで、おまけに何度来てもそう思う、と言ってござった。だでな、その人にとっちゃ東京より東京っぽい街という風に思われるという話だて』

 『そんな話信じられない。あたしだけじゃなくて誰でもそうだと思う。』

 『虚心坦懐に物事を見てみりゃあ、案外世間の常識の方が間違っとることもあるでよ。この人は名古屋へ出張するときはいっつも東新町の方のビジネスホテルを利用するげなけど、しかしなあビジホとは、ほんな偉いさんなんだで、まあちょっとええホテルでも、とか思うけどが―――これはどうでもいい話だわ、ほいでその東新町のビジホから広小路通を店がある錦の方へ向かうことになる。てくてくと歩いて行くその間の風景、特に久屋大通の辺りでその感が強いと言ってござった。ところでこの久屋大通、花の都と謳われとるパリのシャンゼリゼ通りと姉妹提携を結んどるって知っとったか?』

 『ええ?知らないわよ。本当のことなの?』

 『ほんとのことだて。ちゃんとパリの偉い人達が直接ござってしっかりご覧になった上でな、これならうちんとこの通りと姉妹提携するに相応しい、と判断されたんだて。だでお前、名古屋の風景がなかなかのもんだという、これ以上のお墨付きはないと思わんか?』

 『あらそう、ふーん、でもそれって都市伝説の類じゃないの?』

 『ほんなことないて、ほんとのことだて。まあ人が折角ええ話をしてやっとるのによお。』

 『はいはい、分かりましたよ。でもねえお父さん、お父さん東京で生まれたんですよね?お兄ちゃんの大学受験の時、東京の大学へ行けって言わなかったんですか?自分の生まれ育ったところなんだから。自分の息子に東京へ行ってほしいって感じると思うんだけど。』

 『いやあ、別に行ってほしいとは思わんが、どこでもいいだろ。それに俺の兄弟だって、大概皆外に行っちまったよ、まあほとんどは関東圏だけどね。最終的に都内に残った奴は一人だけ‥‥‥で、俺は兄弟の子供達、つまり甥っ子姪っ子から名古屋の伯父さんと呼ばれている、この呼ばれ方、俺は気に入ってるんだ。それで十分だよ。』

 『へえ、そうなんです?そんな話初めて聞いた。お父さんの御兄弟、ほとんど東京に住んでみえないなんて、普通逆でしょう?』

 『人それぞれと言うやつだよ。東京へ行きたい奴もいれば東京から出たい奴もいる。』

 『じゃあお父さんはどうして東京を出たんですか?』

 『まあ、それも人それぞれということ‥‥‥なんだが、やっぱり本当は俺も出たかったのかなあ。大学は地元の学校だったんだがね、俺が行ってた学部の学生の多くは大学院まで行く、俺もご多分に漏れず進学を希望したんだが入院先はこっちの某大学にした、そして無事退院した後は就職なんだが、就職先もこっちにした。そんなことで、無理やり理由付けしようとするなら、学校と仕事の関係だね。』

 『そうそう、ほいであたしと運命の出会いをして結局こっちに居ついちゃったじゃんね。そこんとこはちゃんと可愛い娘に話したげりん』とお母ちゃん。

 『訂正するよ、俺の場合は仕事と結婚の関係だ。』

 『そう‥‥‥それで仕方なくってことですか。』

 『ちょっと何だん、その言い方、仕方なく?なわけないじゃんか!お父さんはあたしに惚れたんだわさ。だで喜んでこっちに住んどるんだに。』

 『お母さんだって、元々は刈谷じゃないですか。どうしてこっちに来たんですか?』

 『そこは、ほれ、まあいろいろと、あたしんとこは刈谷だけどが、うちの両親、あんたらの祖父さん祖母さんは、あんたも何回か行っとるらあ、奥三河の山ん中の出だでね。山から出てきて豊橋も通り過ぎて西三河まで、もともと流れもんかも知れんね。それからあたしは何だかんだで名古屋の方に、ねえ、とにかくそれからは旦那さんであるお父さんの仕事の関係で、だわ。』

 お父ちゃんもお母ちゃんも何故かあまり歯切れが良くなかった。僕は両親のそんな話を直接聞くのは初めてだったので思わず聞き耳を立ててしまっていた。

 『まあ、ほんなことはどうでもええがね。親父さんとお袋さんが、昔々東の方からこっちにござって“運命の”出会いをしてまって、ほいでなんか知らん結婚してくれよったおかげでお前がこの世に生まれてきたんだで、感謝せなかん。』

 『あんたら、さっきから人をおちょくっとるのかん?“なんか知らん”って何だん!』

 『あっ、すんません、ちょこっと口が滑ってまって。だでな、何にしろお前という人間はここで生まれてここで大きくなって立派になって―――つまりはここがお前の故郷だっちゅうことだわ。この名古屋が、この千種区が、この振甫町が、お前の故郷なんだて。』

 『ここがあたしの故郷‥‥‥この一方通行の狭い道路で区分けされた小さな区画がごちゃごちゃっとしているこの下町が――――』

 『相変わらず身もふたもないことを言いよるなあ。まあほんとのことだでしょんないけどが。兎に角、親父さんの故郷が東京の浅草、お袋さんの故郷が刈谷の依佐美、でお前の故郷は―――ここなんだわ。けどそれはそれとして、ほんなにお前が東京行きたいんなら一生懸命勉強してな、東京の大学に行きゃあええわけだ。親父さんはきっと学費も生活費も出してくれるで。』

 『おお、承知した。任せておけ―――しかし出来たら国公立に‥‥‥』

 『ふん、何を言ってござる、しみったれたことを。まあとにかくそういうことだわ。ほいじゃ、そろそろバイトに行ってきますで。』

 『おお、ご苦労さん。今晩も徹夜か?』

 『はあ、おそらくは、何しろ土曜日なもんで。』

 『あんた、バイトもいいけどが、あんまりいかがわしいことやっとったらいかんよ。お巡りさんの世話になるようになっちゃったら大変だで。気をつけりんよ。』

 『そこんとこは大丈夫だと思いますわ。俺のバイト先は脱法行為も脱税行為もしとりゃせんですで、多分。何なら一度親父さん、店に来んですか?店長に綺麗どころたっぷりのサービス、弾むように頼んだりますよ。』

 『お母さんの前で物騒なこと言うなよ。ところで、お前のバイト先、錦三丁目だったよな。実は俺は栄四丁目の方が好きなんだ。会社の同僚ともよく行くんでな。お前、バイト先変えんか?そうしたら色々と情報が貰えそうだ。』

 『女子大小路ですか―――池田公園界隈、あそこら辺は外国人やホストが多いですがね。ほんなおそがいとこ、遠慮しときます。』

 『おそがい、ってこたぁないだろう。お前なら外国マフィアや国内ヤクザが出てきてもへいちゃらだ。向こうの方が裸足で逃げ出すさ。』

 『人を化けもんみたいに言わんといてください。まあ、おそがいっても錦三だって似たようなもんですけどね。けどほんとのこと言いますと、おねえさんやねえさん達が東新町よりもええ感じなんですわ、容姿も色気も‥‥‥男っちゅうもんは厚化粧のおねえちゃんよりも深窓の令嬢の方に案外ぐっとくるようなもんで―――』

 『いい加減にしときんよ、あんたら!ここにはまだ将来のある子どもが二人もおるんだで、教育上よろしくないわ。まあとろくさいことばっかり言っとらんで、とっとと行きん!』

 『これは手厳しい、俺にはもう将来ないっちゅうことですかね。はあはあ、そう言われんでも時間が急いとりますので、ほいじゃ行ってきますわ。』

 『ああ、今度こそご苦労さん、無理すんなよ――――しかしあいつも大したもんだなあ、学費は全部自分で賄っているんだから‥‥‥』

 『そこんとこは、まあいいですけど、ただあの子も医学部とかもっと実のあるところに入ってくれとったらねえ。何を考えてあんな訳の分からん学部学科に入ったのか知らん、さっきの話じゃないけどが、将来どうするつもりだかしゃん。』

 『あいつなら何とでもなるさ。いざとなれば学者にでもなればいい。正直、あの頭の良さには感服だね。人間の頭ってのは具体的なものを抽象に置き換えることは比較的容易に出来るんだが、あいつの場合その逆をいとも簡単にやってのけるんだからなあ。ちょっと手が付けられん。トンビが鷹を生んだとはこのことだ。』

 『あら、そんなことはないに。何とかいう哲学者だかの本に、人間の知的な能力は母親から、意志的な所謂性格とかは父親から遺伝する、みたいなことが書いてあったってあの子が言っとったで。だとしたら、あの子のオツムの具合はあたしからの遺伝っていうことになるじゃんか。ほんだで、ああいう頭のいい変人が生まれたのは必然ってことになるだらぁ。』

 『変人ってのが俺からの遺伝ってわけか、まあそれでもいいけどね』そこでお父ちゃんはお姉ちゃんの方へ顔を向けて、『しかしお前も兄さんにもう少し優しくしてやれよ。お前が生まれた時、あいつは本当に喜んだんだぞ。そうして何から何まで世話を焼くってきかなかった。当時あいつも幼稚園児だったから、出来ることは限られていたがな。それでもおむつを替える、ミルクを飲ませる、飲ませ終えると抱っこして背中を叩いてげっぷを出させる、はいはいができるようになったら部屋で遊んでやる、離乳食になったら食事の世話だ。笑っちまうがあいつにはどうも父性本能―――と言うかほとんど母性本能と言っていいようなものがたっぷりあるらしい。覚えてないかもしれんがな。』

 『‥‥‥覚えてます。』

 『そうか、そりゃ良かった。お前が幼稚園、小学校となるといろんなところへ遊びに連れて行っていたよ。近所の公園から始まって、東山動植物園やら伏見の科学館やら大須やら、あいつだってまだ子供だったが全く心配無用だったな。その頃には、おい、おちびさん、お前も一緒に連れて行かれてたな、覚えてるかね?』

 僕は思わず首をすくめた。ところがここでお母ちゃんが一言、

 『ほだね、おかげであんたはいっつも子どもの世話から解放されとったでね。あの子の小さい時はよくあたしの実家やおばあさん家で預かってもらっとったし。おかげであの子の喋り方、名古屋弁と西三河、東三河の言葉がごちゃまぜになっちゃって。』

 『おいおい、何を言う。俺だって時々ちびを遊びに連れて行ってたぞ。』

 確かに、僕も随分小さい頃お父ちゃんに遊んでもらった記憶はある。ただそれは例の池田公園で、ということが多かった気がする。成程、そういうことか。

 『まあ、そういうあたしだってお陰で楽さしてもらっとったんだで、大きなことは言えんけどが。まあ、お互い様だわねえ。』

 『そういうこと。お互い、あいつには頭が上がらんってわけだ。だからな、いや、だからってのも変だが、お前も東京に行きたいんなら一生懸命勉強してだな、是非ともいい大学に行っておくれな。学費その他は心配いらんよ。何しろお前の兄貴にはちっとも金がかかっとらんのだ。だからな―――そう、ここで使う言葉だ、経済的な心配は何もない。好きなようにやってもらえばいい。』

 『‥‥‥お兄ちゃんはそのために地元の学校に行ったのかな。どこか東京とか大阪とか京都とか、そういう大学とかに行きたくなかったのかな。』

 『ふふん、やっぱり分かってないな、お前らは。あいつはな、お前たちのことが大好きなんだよ。そしてお前たちが生まれ育ったこの土地が大好きなんだ。何を好き好んで他所の土地へなんぞ。俺にはあいつの気持ちがよく分かるぞ。何しろ俺自身、あいつやお前やちびが生まれ育ったこの土地が大好きだからだ。』


      *    *    *    *    *    *    *    *


 この時のことは何故か妙にはっきり覚えている。『故郷』という言葉を普通の会話のなかでさり気なく、使われるなんてことは初めてだったんじゃないだろうか。だからこの言葉を中心にあの日の夜のことがすごく印象に残ったんだろうか。

 僕はそのまま歩いて行った。故郷の方へ、故郷の我が家の方へ歩いて行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ