第八話 二人きりの部屋で
話は少しばかり巻き戻る。
エリスティアのはからいにより漸くヘルミーネと二人きりになれたグロリエンは、私室のソファに座りながらヘルミーネが紅茶を淹れる様子を見つめていた。
べつに喉が渇いて待ちわびているワケではない。不器用な手つきで茶器や熱湯を扱うヘルミーネが危なっかしかったからだ。
「なあ、侍女を呼んできて淹れさせた方がよくないか?」
「いいえ結構ですわ。それとも私が淹れたお茶ではグロリエン様はご不満ですの!?」
「い、いや。楽しみです……」
ヘルミーネはここぞとばかりに女性らしさをグロリエンにアピールしたくて、自分がお茶を淹れようと引き受けたのである。
しかしだいぶ昔に行儀作法の授業で習って以来、一度もお茶を淹れた経験がなかったのだ。
(まずいわ。全然憶えてないっ!)
いまさら出来ませんとも言えないヘルミーネは、四苦八苦しながらも何とかお茶を用意する事が出来たようだ。
妙に色の濃い紅茶がカップに波々と満たされて、グロリエンへと差し出される。
「どうそ召し上がれ」
「ありがとう……」
その紅茶は湯気が立つなんてものじゃない。見るからに熱湯のままであり飲めば大ヤケド待ったなしだ。おそらく味も相当に酷いだろう。
しかしその出来栄えを不安げな目で見ているヘルミーネに、正直な感想を言うのは残酷である。
それゆえグロリエンは密かに勇者の加護を使って、耐熱防御と五感調節の能力を引き上げ我が身を守った。
嘘を言うようで少々良心は痛んだが、ヘルミーネを傷つけるよりはマシだ。
「うん、美味しいよヘルミーネ」
「まあ良かった! 本当を言うと上手に淹れられているか不安だったのです。では私も失礼して──」
ホッとした表情で自分のカップに手を伸ばしたヘルミーネに、グロリエンはギョッとした。このまま飲んだらヘルミーネがヤケドをしてしまうからだ。
だから慌てて言ったのである。
「た、確かヘルミーネは猫舌だったよな! ならもう少し冷めてから飲んだ方がいいんじゃないかい?」
「そうかしら?」
「そうだとも!」
「……じゃあそうしますわ」
「うむ、それがいいぞ絶対に!」
どことなく不審な態度のグロリエンに、ヘルミーネは物言いたげな顔をした。
これ以上この話題を引っ張る事は得策ではないだろう。そう思ったグロリエンは急いで話題を変える事にしたようだ。
「ところでヘルミーネ。俺はお前に謝罪せねばならないんだ」
「謝罪? さっき気絶なされる前にも謝っていた様でしたが、それと何か関係が?」
「ある。同じ謝罪だ」
「そうですか。あの時はきちんと聞いて差し上げる事も出来ず、本当に申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げたヘルミーネに、グロリエンは慌てて手を振った。
「いやいや、俺の謝罪の前にヘルミーネが謝ってはあべこべだ! とにかくもう一度謝罪をやり直させて欲しい」
「でも一体何の謝罪でしたの?」
「お前の婚約についての話だ」
婚約という言葉を聞いた途端、ヘルミーネの胸に鋭い痛みが走る。
すでに十数回、ヘルミーネは婚約破棄の件で恥ずかしい思いをしてきた。だが胸の痛みはそのせいではない。先日夜会があった時のグロリエンの態度が思い出されたからだ。
(あの日の事を、グロリエン様は全然覚えていなかった──)
言うまでもないがあの日とは、ヘルミーネがお前のような筋肉女は結婚など出来ないと、グロリエンに罵られた日の事だ。
ヘルミーネは執念深い性格ではない。どちらかと言うとサッパリとした性格である。なのにどうして三年も前の出来事を、こんなにも忘れずクヨクヨとし続けてしまうのか。
ヘルミーネ自身もそんな未練な自分が嫌で、その理由を何日も考えていたらしい。それで分かったのである。
グロリエンに暴言を吐かれた事に傷ついたのではないということが。
(要するにグロリエン様は私を異性としては見ていないのだわ。私はそれが腹立たしくて悲しかったのよ……)
グロリエンにとってヘルミーネは恋愛対象では無い存在なのだ。三年前のあの日が忘れられないのは、いま現在もその事実が変わっているとは思えないからなのだろう。
実際はヘルミーネの思い違いであり、グロリエンは幼い頃から彼女を愛している。
だがそんなグロリエンの気持ちを知る由しもないヘルミーネは、己の誤解に気を沈ませてみるみる表情を曇らせてゆく。
(──ヘルミーネ?)
その表情の変化にグロリエンはギクッとした。なぜ曇らせてしまったのか分からなかったからだ。つくづく乙女心は難しい。
いずれにせよ謝る前に気分を害させては元も子もない。ゆえにグロリエンは急いで謝罪することにした。
「あ、あのな。マッドリーから理由を聞いて、俺も思い出したんだよ。確かに三年前のあの日、俺はお前に残酷な事を言ってしまった。年頃の女性に対して言っていい事じゃない。だから伏して謝りたい、すまなかった!」
そう言って深々と頭を下げたグロリエンに、ヘルミーネは僅かに眉根を寄せて聞く。
「年頃の女性って……私のことですか?」
「そうだ。俺はただ勝負に負けた悔しさでお前を侮辱してしまったんだ。とんだ八つ当たりなんだよ。そもそもお前が結婚出来るかどうかなんて、考えてみた事もないよ」
「考えてみたことも、なかった?」
「うむ、もちろんだ!」
誠意ある謝罪。それはとても素晴らしい行為である。だからグロリエンは必ずや彼女の心に届くと思っていた。
ところがヘルミーネの曇った表情がますます加速され、なぜか怒っている様に見えるのはどうしてだろう?
「やっぱりそうだったのですね……」
「そうだと……も?」
「つまりグロリエン様にとっての私は、結婚を考えるまでもない女性であるという事ですわね!」
「えっ? いや、ちょっ? 何でそういう話になっているんだ!?」
「そういう話をたった今したのはグロリエン様ですわッ!」
「ま、待てヘルミーネ、落ち着け! 話を飛躍させるなッ」
ヘルミーネにとっては図らずも、グロリエンに恋愛対象とみられていない事が裏付けられる結果になった。
繰り返すがこれは彼女の誤解であるのだが、一度僻んでしまったヘルミーネの気持ちに理性は通用しない。むしろ糞食らえである。
「それでは聞きますが、グロリエン様にとって結婚なさりたいと思う女性とはどなたの事ですの? アグネス様ですか?」
「ば、馬鹿を言うな! なんでアグネスの名前がそこで出てくるんだっ」
「とーっても親しくなされていたご様子でしたので!」
「違うっ! あれはそんなんじゃないッ」
グロリエンは歯痒かった。自分が結婚したいと思う女性はヘルミーネだけだと、正直に打ち明けられたらどんなに良いだろうか。
しかしヘルミーネに相応しい男になるには、ヘルミーネより強い自分であらねばならないのだ。彼女に勝てない自分では愛を告白する資格はない。
「俺は……。俺が尊敬できる強者にしか興味がないんだ!」
だからグロリエンは精一杯の気持ちを込めてそう言った。ヘルミーネへの想いの欠片だけでも届いて欲しいと願いを込めて。
「それって、もしかして……」
そう返事をしたヘルミーネから、尖った感情が消えていく。
代わりに驚きと戸惑いを露にさせた彼女は、少し呆然としながら「今まで気づきませんでした……」と言って目を伏せた。
「グロリエン様は同性愛者でしたのね」
「何でそうなるんだよッ!」
どうやらグロリエンの想いの欠片は届かなかったようである。
「違うのですか?」
「違うよッ!」
「でも、グロリエン様が尊敬できる強者といったら男性しか居ないじゃありませんか。例えば騎士団長とか」
「奴は妻帯者だっ」
「じゃあ英雄の加護をお持ちの聖騎士長とか。あの方は確か独身じゃ?」
「なあヘルミーネ、とにかく一度男から離れようか……」
むしろグロリエンが同性愛者であったなら、ヘルミーネも納得出来たのかもしれない。
(なんだ、違うのね──)
自分が異性として興味を持たれない理由としては申し分なかったのになと、なんとも身勝手な落胆をしている。
しかし怪我の功名と言うのもおかしいが、今の彼女からはすっかり毒気が抜けていた。言いたい事を言って少しスッキリしたせいかもしれない。
なんだか喉の渇きを覚えたヘルミーネは、紅茶を飲もうとカップに口をつける。
(ちょっ!? 熱っ!)
さすがにもう冷めているだろうと思った紅茶は意外にもまだ熱かった。
その熱さがヘルミーネの猫舌のせいではない事は明白で、もともと淹れた時の温度が異常に熱かったのが分かる。
(でもグロリエン様は美味しいって……)
途端、顔色を青くさせたヘルミーネがグロリエンの名を叫ぶ。
「グロリエン様ッ、火傷はッ!?」
「んっ? 火傷?」
グロリエンの平気な様子を見たヘルミーネは直ぐにと気づく。彼がヘルミーネに恥をかかせないようにと勇者の加護を使ってくれていた事を。
大ヤケドをする熱さのうえ苦くて糞不味い紅茶を、グロリエンはヘルミーネの為に美味しいと言って飲んだのである。
(本当に……この人はいつだって優しい)
そんなグロリエンだからこそ自分は愛したのだと思い出したヘルミーネは、思わずクスっと笑ってしまう。
そして優しい眼差しで、カップの中で揺れる紅茶を見つめるのであった。