第二十二話 比翼の鳥
最初ヘルミーネの高速回転ダンスは会場を大いに盛り上げたのである。しかし次第にそれがダンスではなく、一種の懲罰である事に誰もが気が付きはじめたのだ。
手足が伸びた状態で空中で振り回され続ける侯爵令息。その異様な光景はあたかも悪夢の様であり、舞曲が終わる頃には会場は沈と静まり返っていた。
ヘルミーネは小鼻を膨らませて、気絶した侯爵令息を見下ろしている。
そんな彼女の横にグロリエンはそっと近づくと、面白そうにして言ったのだ。
「見事な格闘技だったな」
「ダンスですわよ!」
「まあ理由があっての事だろ?」
「もちろんです」
「なら仕方ないさ」
とはいえヘルミーネは自分を見る人々の視線が気にならない訳ではない。
今や珍獣から猛獣を見るそれに変わっている事に、居心地がどんどん悪くなる。
「でも、やり過ぎちゃったかしら」
「べつにいいだろ。あいつは色々と問題のある男だと聞いているよ」
鼻息を荒くして「まったくですわ」と頷いたヘルミーネは、気絶した大男が運ばれてゆくのを横目でチラリと見る。
彼女の瞳には僅かな後悔が滲んでいた。この無礼者への仕打ちにではない。また悪目立ちしてしまった事への後悔だ。
「もう帰りたい」と心の中で呟いたヘルミーネに、グロリエンはさりげなく自分の左腕を差し出した。
「なあヘルミーネ。ちょっと庭まで付き合ってくれないか? ここは人が多くて息がつまるんだ」
当然ヘルミーネは気づいている。気まずい空気の会場から、グロリエンが自分を連れ出してくれようとしている事を。
彼女はグロリエンのその気持ちが素直に嬉しかった。しかし言葉は気持ちほど素直には出てこない。
「す、少しだけなら付き合って差し上げてもいいですわ!」
決まりが悪そうにそう言ったヘルミーネは、グロリエンの左腕にそっと自分の右手を添えると、小声で「ありがとう」と囁いた。
そんな二人のやり取りを密かに監視している者がいる。白髪の目立つ初老の男で、この屋敷の使用人である事が見てとれよう。
男は庭へと抜け出してゆく二人の後を尾行した。とても素人とは思えない見事な尾行でだ。
(ようやくチャンス到来だ──)
グロリエンの勇者の加護を警戒し、用心深く庭の暗闇に身を溶け込ましたこの使用人は一体何者なのであろうか。
正体を明かせばその男、実は変装をしたアスマン伯爵であった。帝国の秘密諜報部の最高幹部である彼は、変装と尾行の名手でもある。
アスマンが口にしたチャンスとは、言うまでもなくグロリエンの暗殺の事だ。
ペイルディス帝国皇帝にグロリエンの暗殺計画を奏上したアスマンは、その許可を貰うと平和友好会議の相談役として自治都市バリアへと赴いた。
粛々として暗殺の準備を整えたアスマンは、自身の加護比翼の鳥でグロリエンとヘルミーネを強制的に恋愛させるチャンスを待つ事にする。
恋愛させると言ってもグロリエンには勇者の加護があるので、比翼の鳥の様な呪い系の加護は通用しない。しかしだからこそ暗殺が成立するのだ。
(古今無双の公爵令嬢の二つ名が、伊達ではないところを見せて貰いましょうか)
ヘルミーネにだけ効果を発揮した比翼の鳥は、彼女を片想いの状態にするだろう。だが比翼の鳥の加護はその状態のままで居る事を決して許しはしない。
その報われない恋心はやがて狂気の愛へと変わり、グロリエンを殺して自分のものにするようにとヘルミーネを操るのだ。
(よしんばこの娘が返り討ちにあったとて、王太子は重傷を負うだろう。そこを我々秘密諜報部の精鋭たちで襲えば、仕留める事も容易い)
アスマンはここバリアに三十人に及ぶ諜報員を潜ませている。そしてヘルミーネに殺人衝動が生まれるのが、おそらく二~三日の内。平和友好会議の開催期間中には方が付く算段である。
アスマンは何も知らずに庭を散歩する二人の後ろ姿を見て、その目を妖しく光らせ僅かに微笑んだ。
「寒くはないか?」
グロリエンは並んで歩くヘルミーネを気遣ってそう尋ねた。
状態異常無効を使えば寒さを感じないで済むグロリエンとは違い、コートを着ていない彼女に初冬の夜風は厳しいはずだ。
それに何となく良いムードでもある。夜風を理由にさりげなくヘルミーネの肩を抱いてしまうのも悪くない。
何を隠そうグロリエンもまたヘルミーネと湖畔でピクニックをして以来、彼女に対する愛情が以前にも増して強くなっている。
だからこそグロリエンは、もっと積極的に二人の距離を縮めたいと思った。
ここで勇気を奮わねば勇者の加護が泣くとばかりに、ヘルミーネの肩へと手を伸ばす。
しかし彼のその手は、ヘルミーネの肩に届く寸前で止まった。グロリエンが彼女の身体に起きている異変に気づいたからだ。
「ヘルミーネ! そ、その湯気は何だ!?」
なんとヘルミーネの身体からは、モウモウと湯気が立ち上っているではないか。
「何って、私の筋肉が熱生産をしているだけですけど」
「ね、熱生産??」
「あら、ご存知ありませんでしたの? 私寒い時にはこうして加護を使い筋肉に負荷をかけるのです。すると発熱してきてポカポカになりますのよ」
「そ、そうか。便利な加護だな……」
「ええ、とっても!」
もちろん普通の筋力強化にそんな機能はない。ヘルミーネの桁外れの筋力強化だからこそ出来る神業である。
(そんなのアリかよっ!)
肩透かしを食らった様な気持ちになったグロリエンは、行き場を無くした自分の手を見てがっくりとしてしまう。
だがその時だ。グロリエンは誰かが自分たちに近付いて来る気配を感じ取る。
「そこに居るのは誰だ」
咄嗟にヘルミーネを庇う様にしたグロリエンは静かな声で誰何した。すると一人の初老の男がおずおずとした様子で現れる。
その男は変装しているアスマンであるのだが、グロリエンがその事に気付いたる様には見えない。
「驚かせてしまい申し訳ございません。私はこの屋敷の使用人でございます」
「ここで何をしているのだ」
「はい。使用人の交代時間となりましたもので、自分の部屋へと帰るところでございます。庭を横切ると近いものでして」
そう言って深々と頭を下げたアスマン演じる使用人は、いかにも無害そうに見える。
グロリエンは警戒を緩めると、軽く手を振って使用人を促した。
「そうか、ならば行くがよい」
「はい。素敵な恋人同士のお時間にお邪魔していまい、大変ご無礼致しました」
実際には二人が恋人同士でない事くらいアスマンは承知している。しかしあえてそう言ったのは、加護比翼の鳥を使う為にだ。
彼の加護の発動には、対象本人に直接呪文をかける必要があるのだ。
しかしもし今加護を強引に使えば、たちまちグロリエンにより妨害されるだろう。
だからこそ二人と会話をしながら、不自然にならないように加護を発動せねばならない。
(覚られぬ様、あくまでも自然に──)
アスマンはこの場を去る素振りをしながらも何気なく、「恋人同士が愛を語らうには良い晩ですな」と二人の心の機微を突っついてみる。
若い男女にとって無視するのが難しい心の機微は、案の定揺れた。
「あ、いや、俺たちは恋人同士じゃ……」
「ちっ、違いますわッ!」
使用人の勘違いを軽く否定しようとしたグロリエンに比べ、ヘルミーネの否定はまことに強烈であった。
「私たちはそういう関係ではございませんから。ですわよねっグロリエン様!」
「も、もたろんだとも!」と同意してみせたグロリエンであったが、内心はかなり傷ついている。というか拗ねている。
(ちえっ。何もそんなに強く否定しなくてもいいだろに……)
そんな二人の様子を見ていたアスマンは、「それはそれは」と相槌を打ちながら、グロリエンの気が散っている事を見逃さない。
ならば今こそが畳み掛け時だとばかりに、アスマンは会話を捩じ込んできた。
「ですが勿体ない。こんなにもお似合いのお二人ですのに!」
「お、お似合いっ!?」
恥ずかしそうにモジモジとするヘルミーネに、アスマンは「はい、とっても!」と人の好い笑顔で頷いた。
「そうだ、私がお二人の為に故郷に伝わる恋のおまじないをして差し上げましょう」
「まあ! そんなおまじないが?」
「ございますとも!」
頬を赤く染めて期待に目を輝かせるヘルミーネと、少し訝しそうにするグロリエン。
たが二人とも男の好意を疑ってはいない。ならばこの機会を逃すものかと、アスマンは急いで呪文を唱え始めた。
「キョエーッ! ケョエケョエ、ケョエッケョエーッ!」
呪文というより奇声である。聞きようによっては鳥の鳴き声にも似ているが、ヘルミーネとグロリエンは当然その様には聞こえていない。
正直反応に困った二人は「あ、はい。どうも」とぎこちなくお辞儀をして、早くここから立ち去ろうと思った。
だがその途端だ。勇者の加護を持つグロリエンだけは、我が身におこった僅かな違和感にと気が付いたのだ。
(この感覚は……呪いかっ!?)
そう思うより速くグロリエンはその身を翻し、男を拘束しようと動きだす。
「何をした貴様ッ!」
むろんアスマンは、この時点ですでに逃走を計っている。しかしグロリエンの反応速度は彼の予想以上であった。
「くそっ、捕まる!」と、アスマンが諦めかけたその時────
「イヤっ、グロリエン様。私の傍から離れないでッ!」
「ちょ、ヘルミーネっ!?」
ヘルミーネが必死の勢いでグロリエンの腰にとしがみついてきたのである。
グロリエンが呆然としてヘルミーネの潤んだ瞳を見た時には、すでにアスマンの姿はどこにもなかった。




