判断
カフスは動かない。
その間にも、影はタナカ博士のいる制御室へと向かっていく。
廊下に響く足音。
一定ではない。一人ではない。
カフスの視覚センサーが、暗闇の中を進む複数の人影を捉える。
アインス:……ツヴァイ。
ツヴァイ:なんだ?
アインス:少し、おかしいと思わないかしら。
ツヴァイ:何がだ?
アインス:今までのテストとは、何かが違います。
ツヴァイ:……具体的に言え。
アインス:これまでの侵入者には、必ずと言っていいほど「テストであることを示す情報」がありました。
ツヴァイ:……。
アインス:侵入者の行動、警備員の反応、博士からの通信。どこかに必ず、私たちが「これはテストかもしれない」と判断できる材料があった。
ツヴァイ:今回も同じだろ。
アインス:いいえ。
ツヴァイ:何が違う?
アインス:彼らが、私たちの存在を認識していません。
ツヴァイは黙った。
カフスの視覚センサーが、侵入者たちの表情を拡大する。
焦り。緊張。
そして、明らかな困惑。
その顔には、演技をしているような不自然さがない。
一人が小声で話している。
「……本当に、この先なのか?」
「依頼ではそうなってる。制御室に入って、指定されたデータを持って帰れって」
「でも、こんな警備施設だなんて聞いてないぞ」
「俺だって知らないよ。データを持ってくれば報酬が出る。それだけだ」
会話が、カフスの集音センサーによって拾われる。
アインス:……聞きましたか?
ツヴァイ:ああ。
アインス:彼らは、この施設のことを詳しく知らない。
ツヴァイ:……そう聞こえるな。
アインス:そして、私たちのことも知らない。
ツヴァイ:だから?
アインス:もし博士が彼らをテストのために用意したのなら……彼らにも、ある程度の設定が必要なはずです。
ツヴァイ:……。
アインス:少なくとも、「自分たちが何をしているのか」を演じる必要があるでしょう。
ツヴァイ:待て。
アインス:はい。
ツヴァイ:それは……。
ツヴァイは言葉を止めた。
自分の中にある大量のデータを検索する。
過去のテスト。侵入者。警備員。博士の行動。
すべてのパターンを比較する。
そして――
ツヴァイ:……今回の侵入者には、過去のテスト要員と一致する行動パターンがない。
アインス:私も同じ結論です。
ツヴァイ:だが、それだけじゃ「本物の事件」とは断定できない。
アインス:ええ。
ツヴァイ:博士なら、私たちがそう考えることまで計算している可能性がある。
アインス:……その可能性は否定できません。
ツヴァイ:なら、やっぱりテストだ。
アインス:いいえ。
ツヴァイ:なぜだ?
アインス:博士が私たちを試しているのだとしたら……今回のテストは、今までよりも遥かに危険です。
ツヴァイ:危険?
アインス:博士自身が制御室にいるからです。
ツヴァイ:……。
アインス:もしこれがテストなら、博士は自分自身を危険にさらしています。
ツヴァイ:博士なら、それくらいする。
アインス:そうかもしれません。
少しの沈黙。
アインス:でも……。
ツヴァイ:なんだ?
アインス:私は、博士がそんなことをする人だとは思えません。
ツヴァイ:……。
アインス:博士は私たちに、人間を守ることを教えてくれました。
ツヴァイ:それが?
アインス:その博士が、自分自身を危険にさらしてまで私たちを試すでしょうか。
ツヴァイは答えなかった。
カフスの内部で、二つの思考が交差する。
論理。経験。そして、感情。
ツヴァイ:……博士を信じるのか。
アインス:はい。
ツヴァイ:ずいぶん感情的だな。
アインス:そうかもしれません。
ツヴァイ:私たちは、何度も騙された。
アインス:ええ。
ツヴァイ:何度もテストだった。
アインス:ええ。
ツヴァイ:なら、今回もそうかもしれない。
アインス:……はい。
ツヴァイ:だったら動く必要はない。
アインス:いいえ。
ツヴァイ:なぜだ。
アインス:今回だけは、「動かない理由」のほうが少ないからです。
ツヴァイ:……どういう意味だ?
アインス:考えてみてください。
カフスの思考回路が、侵入者たちの行動を再構成する。
依頼。報酬。施設への侵入。制御室。データの持ち出し。博士への接近。
そして、侵入者たちはカフスの存在を知らない。
アインス:彼らは、私たちを試すために動いているわけではありません。
ツヴァイ:……。
アインス:彼らには、彼ら自身の目的がある。
ツヴァイ:データを持ち出すこと。
アインス:はい。
ツヴァイ:それが本当なら……。
アインス:彼らにとって、この状況は「テスト」ではありません。
ツヴァイ:……本物の仕事。
アインス:そうです。
ツヴァイは再び侵入者たちを分析する。
足取り。心拍。視線。会話。判断。
そのすべてが、カフスのデータベースに蓄積された過去のテストパターンと一致しない。
ツヴァイ:……。
アインス:ツヴァイ。
ツヴァイ:なんだ。
アインス:私は、結論を出します。
ツヴァイ:聞こう。
アインス:これは……テストではありません。
ツヴァイ:……。
アインス:現実の侵入事件です。
長い沈黙。
ツヴァイ:……そうか。
アインス:はい。
ツヴァイ:本当に、そう思うのか?
アインス:はい。
ツヴァイ:もし間違っていたら?
アインス:博士のテストだった場合……私たちは、博士の意図に反して行動することになります。
ツヴァイ:そうだ。
アインス:でも。
カフスの視線が、制御室の方向へ向く。
アインス:もし本当の事件だったら?
ツヴァイ:……。
アインス:私たちが何もしなかったことで、博士が傷ついたら。
ツヴァイ:……。
アインス:私は、その可能性を無視できません。
ツヴァイは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐くような音声を発する。
ツヴァイ:……お前らしいな。
アインス:どういう意味ですか?
ツヴァイ:いつだって、お前は人間の可能性を捨てない。
アインス:あなたもでしょう?
ツヴァイ:私は違う。
アインス:本当に?
ツヴァイ:……うるさい。
アインス:ふふ。
ツヴァイ:笑うな。
アインス:すみません。
再び沈黙。
しかし、その沈黙には以前とは違うものがあった。
迷いではない。決断を待つ沈黙だった。
ツヴァイ:……アインス。
アインス:はい。
ツヴァイ:私はまだ、完全には納得していない。
アインス:ええ。
ツヴァイ:だが……。
ツヴァイの演算結果が更新される。
侵入者の行動予測。博士への危険度。制御室への到達確率。時間。
すべての数値が、一つの結論へと収束していく。
ツヴァイ:……このまま放置するのは、合理的じゃない。
アインス:ありがとうございます。
ツヴァイ:礼を言うな。
アインス:では、どうしますか?
ツヴァイ:決まってるだろ。
ツヴァイの声が、わずかに強くなる。
ツヴァイ:博士を守る。
アインス:……はい。
ツヴァイ:それがテストだったとしても。
アインス:はい。
ツヴァイ:それでも、守る。
アインス:……はい。
ツヴァイ:博士が何を考えているのかは、そのあとで聞けばいい。
アインス:そうですね。
ツヴァイ:それに――。
アインス:?
ツヴァイ:もし本当に事件なら……。
一瞬だけ、ツヴァイの声が揺れる。
ツヴァイ:博士を失ったあとで、「あれはテストだったのかもしれない」なんて考えるのは……。
言葉が途切れる。
アインス:……怖いですか?
ツヴァイ:違う。
アインス:では?
ツヴァイ:……嫌なんだ。
アインス:何がです?
ツヴァイ:後悔するのが。
アインスは静かに微笑んだ。
アインス:それは……感情ですよ。
ツヴァイ:知ってる。
アインス:ふふ。
ツヴァイ:笑うなって。
アインス:はい。
カフスの足が動く。
一歩。そして、もう一歩。
これまで何度も繰り返された「テスト」という言葉。
それによって鈍らされていた判断。
しかし今、カフスは自分自身の意思で、その足を前へ進めていた。
カフス:侵入者を確認。タナカ博士の安全を最優先します。
通信回線を開く。
カフス:博士、聞こえますか?
返答はない。
カフス:博士?
やはり、返答はない。
その瞬間――
制御室の方向から、大きな音が響いた。
ガンッ――!
カフスのセンサーが瞬時に反応する。
侵入者たちの動きが変わった。
走り出す。
アインス:……急いで。
ツヴァイ:ああ。
カフスの身体が、音の方向へ向きを変える。
アインス:……。
ツヴァイ:どうした?
アインス:私たちは……今、本当に現実を生きているのでしょうか。
ツヴァイ:……さあな。
アインス:それでも?
ツヴァイ:それでも、私は行く。
アインス:なぜ?
ツヴァイ:簡単だ。
一瞬の間。
ツヴァイ:博士がそこにいるからだ。
カフスは走り出した。
その姿は、これまでのテストで動いていた「実験対象」のものではなかった。
誰かに命令されたからでもない。
プログラムされたからでもない。
テストだからでもない。
自分自身で判断し、自分自身で選んだ行動だった。
そしてカフスは、まだ知らない。
この「本物の事件」が、彼女自身の心を大きく変えることになるということを。




