通学路とクラスメイトの桐沢さん
僕は毎日30分くらいかけて学校と家を行き来する。小学生の僕にはすごく遠い道のりだったが、繰り返すと慣れてしまった。たいがいは仲のいい友達と遊びながらだった。中途半端な田舎道は用水路などもあって遊びにはもってこいだった。学校指定の黄色いリュックを背負って今日もえっちらこっちら登下校を繰り返す。
それはある寒い冬の下校中だった。僕の前を一人で歩く女の子がいた。同じクラスの桐沢さんだ。僕は教室では男子と遊んでばかりで、女の子との接点は全然ない。女の子と話していると、ほかの子から変な風に言われるかもしれないと思っていた。
桐沢さんがどんな子かは全くしらない。けど改めて見た彼女は他のことは少し違って見えた。きれいな黒髪に、クリっとした目、顔は小さくて、なんだか唇もぷるんとしている。僕がじっと見ていることに気づいたのか、桐沢さんはなに?というように怪訝な表情を浮かべた。
僕はなんだか無性に居心地が悪くなって顔をそむけた。桐沢さんは特に気にした風もなく歩いていく。僕も気にしていないと自分に言い聞かせるように歩き出した。帰りの方向は同じなのか、彼女のあとをついていくような形になる。
僕は一切話しかけるなんてことは考えもしない代わりに、彼女の後ろ姿をじっと見る。なんだか無性に気にかかって、あまりよくないことをしているようなばつの悪さがある。僕の足音が耳に入ったのか、たまにちらりとこちらを振り返る桐沢さん。僕はすっと目を遠くにやり、なにも気にしていないアピール。だって僕は女の子と話したことなんてなかったから。
それからしばらくそんな時間をすごしていた。やがて桐沢さんは足をぴたりと止める。振り返り、僕を見て口を開いた。ちょっとだけ微笑んでいたのを確かに見た。
「じゃあ、また明日教室でね」
それだけ言って彼女は僕の通学路とは別の方向に歩いていく。あっちに家があるのだろう。
僕は口を半開きにしながらその場で彼女を見送る。そのままたっぷり30秒ほど固まってからのどの奥から声を絞る。
「あ…またね」
いったいなにがここまで自分を動揺させるのかわからないまま、とりあえず条件反射的な返事を返す。桐沢さんには多分届かなかったと思う。
僕は口をもごもごさせながら、どうしてもっと早く返事ができなかったのかと悔やむ。桐沢さんと言葉を挨拶を交わせなかったことがすごくもったいないことに思えた。
帰り道の途中。なんだか胸がほかほかと温かかった。桐沢さんの一瞬の微笑みを思い返しながら通る通学路は、いつもと全く違って見えた。にまにまと笑顔で帰宅した僕を見たお母さんは首をかしげていた。
桐沢さんのことを思い出すたびに感じるこの幸せな気持ち。僕がその気持ちの名前を知るのはもう少しだけあとのことだった。
本当にささいな出来事ですが、彼はきっとこの一瞬の記憶を大事に持って生きていきます。