最悪の予感
翌日の朝、水姫がいつも通り夜従の部屋へと向かうと、二枚扉の前に初日に水姫を案内した巌のような男が立っていた。どうもこの男は夜従の側近らしい。
「今日はお前の仕事はない」
水姫の姿を見るなり男は頑とした口調で言い放った。
「よしょ……王がそう仰ったのですか?」
「そうだ。王が送り出した間諜が早朝に戻った。今、詳細の報告をしている。今日はお前にかまう暇はない。大人しく部屋に戻れ」
初日通りの威圧感のある口調に圧倒されながら水姫は素直に頷いた。
「かしこまりました」
思いがけず今日の仕事がなくなってしまった。夜従に会うこともなく予定が切り替わったことに内心少し戸惑いながらも水姫は踵を返した。
夜従の部屋の扉が見えなくなる前に、なんとなく気にかかって男が守る扉を振り返る。頑強に閉ざされたその姿はふいに、水姫の胸に遠ざかっていた恐れを思い出させた。
夜従は部屋の中でいったいどんな話をしているのだろうか。問いと同時に答えが浮かんで水姫は憂鬱な気分になった。
さらに翌日の朝、夜従のもとへ向かうと彼はいつも通り寝台に腰掛けて水姫を待っていた。
「おはよう、水姫」
「おはよう、夜従。……昨日はなにか大事なお話があったと聞いたわ」
「そうだね。朗報がやっと飛び込んで来たのさ。いつ動くかと思っていたが、張っていたかいがあったな」
ひどく機嫌良く夜従は答えた。水姫が衣を選んで戻ると寝台に腰掛けた夜従に、着替えを取り上げられ腰を引き寄せられてしまった。
いつになく親しげな表情を向けられてどきりとする。すぐに身を引き離そうとしたのに、水姫の腰に両腕を回した夜従がひどく楽しそうに微笑むからなぜだか気が削がれてしまった。
「……なんだかとっても機嫌が良いように見えるわ。そんなに良いお話だったの?」
側近の男の口ぶりから仕事……盗賊業に関する内容かと思ったのだが違ったのだろうか。夜従の表情を見て水姫はほっと息を吐いた。昨日から夜従と間諜という者の話の内容を想像して一日中気が気ではなかったのだ。
「ああ――ずっと動くのを待っていた荷がついに外へ出ると報せが入った。これからそれを奪いに行ってくる」
ひどく楽しげな声で言われた言葉に水姫は冷や水を浴びせられた心地になった。
一度気を抜いた分信じられない気持ちで夜従を見る。
「今から? 荷を、襲うの?」
「もちろん。だからお前は今日は部屋にいるといい。外に出てもいいけれど村を囲う風の結界を強めて行くからね。物慣れないお前が動いては切り刻まれてしまうかもしれないよ」
夜従の言葉にも水姫はうまく反応できなかった。荷が襲われる。移動するからには当然周りに人がいるのだ。荷を運ぶ彼らの命も奪われる。それに、商隊には護衛が。ひどく胸がざわめいて水姫は胸の前で両手を強く握り合わせた。
「水姫?」
立ち竦む水姫を訝しんだ夜従が首を傾げて見上げてくる。
「どうしても今日でなければ駄目?」
気づけば口が勝手に動いていた。
「どういう意味?」
夜従が凪いだ声を出す。
「それは、ええと、昨日の今日で……その、すぐに荷を襲う準備ができるものかしら。もっと時間をかけて整えた方がいいのじゃない?」
自分でもなにを言っているのだろうと思いながらも水姫はしどろもどろつぶやいた。
夜従が頷くわけがない。当然、彼は情報がいつもたらされてもいいように下の者達に準備を整えさせていただろうし、夜従自身いつでも動く用意があるのだ。心の準備を整える必要もない、水姫と違って。
「水姫、荷が動くのは今日だ。聞いていただろう?」
水姫は頷いた。でも、とすぐさま心が反論の声を上げる。でも。行ってほしくない。夜従に荷を襲ってほしくない。
ぎゅっと組み合わせた両の手を解いて、代わりに夜従の手を取り包み込む。夜従が怪訝そうに眉をひそめた。今ここにいる自分が、盗賊の王である夜従に向かってこれ以上どう言葉を重ねればいいかわからず、水姫は縋るように夜従を見つめた。
「水姫? どうした。手がずいぶんと冷たいな」
片方の手を冷えた水姫の両手にくるまれた夜従が、その上に空いた自分の手を重ねた。夜従の手は乾いていて温度がない。それでも緊張に冷えた水姫の手には温かく感じられた。
夜従に水姫の思いは伝わっただろうかと思い、伝わらないはずがないとすぐに自答する。水姫の戸惑いを夜従はたやすく読む。
案の定、夜従は唇端をまた持ち上げた。
「やれやれ、手のかかる。水姫、そんなに僕と離れるのは嫌? それとも人が殺されるのが許せない? 略奪行為はお前の正義に悖るか? 今、ここにいることを選んだお前なのに?」
事実を告げる夜従の言葉は相変わらず容赦がない。けれど水姫はどこか散り散りな自分の心の中を整理する気持ちで夜従の声を聞いた。
「ならば僕を止めてみる? その華奢な身体で」
重ねた手を水姫の頬へ滑らせた夜従に、輪郭を優しくなぞられる。唇を押し開くようになぞられて、跳ねかけた肩を意思で抑えて水姫は夜従を見つめ返した。そうしてしばらく声なく見つめ合う。水姫自身、心の中をいろんな感情がない混ぜになっていてどうしたらいいのかわからない。けれど今夜従に対して引いてしまってはなにも成長がないような気がした。なぜだか夜従に対してだけは引きたくない。夜従がそれを受け入れてくれるかどうかは別にしても。
水姫が手を振り払わないでいると、唇の笑みはそのままに凪いだ視線を向けていた夜従は呆れたとばかりに肩を竦めた。
「お前は僕がお前に対してなにもしないと思っているのか? 甘いね、水姫」
「あなたは私を物扱いしないと最初に言ったわ」
「物以外の扱いはできる。けれど今は時間がないな。水姫、支度を」
水姫の我がままを打ち切らせて、夜従は有無を言わさぬ口調で寝台の上に放り出した衣を取り上げた。押し付けられた水姫は今度は反論しなかった。どちらにしても水姫に夜従を止める力も権利もありはしないのだ。その事実にただ首を振って水姫は夜従の寝着に手をかけた。
身仕度が整うと夜従は水姫に部屋に戻るよう言い含めて、盗賊たちを率い村を出てしまった。
自室に戻った水姫は独りきりの静寂な空間の中、自分の心のざわめきに向き合っていた。
夜従が楽しげな声で荷を襲うと言った瞬間、水姫はどうしてあんなに動揺してしまったのだろう。夜従が上げ連ねた水姫の感情は正しく事実を突いている。それなのに、あの時水姫はたぶん少し安堵した。わざとか気づかなかったのかはわからないが、夜従は水姫の心の揺れについて指摘しなかった。自分自身はっきりとは認識していなかったそこを突かれていれば、きっと水姫は崩れて引いてしまっていたに違いない。
水姫は夜従に盗賊行為をしてほしくない。
盗賊という生業に抵抗感があるのはどうしようもないことだ。罪のない者が襲われて死ぬ。村の者が生きるためだと言われても、残虐な現実を肯定することはどうしたって難しい。けれど眉をひそめて夜従の行為を否定する心がある一方で、真逆の不安が胸を掠めてしまった。
商隊の側ではなく、夜従自身が怪我を負う事態になる可能性だってあるのでは? 風と夜の二体の精霊の加護を受けた盗賊たちは強いかもしれないが、だからといって全く危険ではないと言い切れるのか?
一度脳裏を過ぎった不安はひどく心を狼狽えさせた。もしも夜従が負傷、或いは死ぬような事態が起きたら――
心に寒々として穴が空いた心地になる。本当に心配すべきは荷を襲われる無辜の民たちであるべきなのに。夜従と向き合って話していたあの時、どこか心の奥で夜従の身を案じている自分が確かにいたのだ。
「私、どうしてこんなに不安なのかしら? 心配すべきは荷を襲われる人たちであるべきなのに、どうして気づけば夜従の身を案じているの? どこかおかしくなってしまったのかしら……」
胸が痛い。痛む理由がわからない。わからないことに理由をつけようとして出てきたのは言い訳めいた言葉だった。
「夜従とは何度も顔を合わせて会話をしているのだもの。心配するのはおかしなことではないわよね? ここ数日、毎日のように会っていた人になにかあったら、もしも彼が死んでしまったら、つらい……わよね。彼が良い人でなくても、私を攫った人であっても、そう感じるのはおかしなことじゃ……」
口に出した言葉がなんだか滑稽で水姫は尻すぼみに口を閉ざした。自分を攫った盗賊の心配をするなんて莫迦みたいだ。夜従だって水姫の言葉を聞けば笑って言うだろう。
「それでも、思ってしまうのだもの。無事に帰って来てくれれば。怪我などなければ良いって」
或いは商隊の人たちが予定を変えて荷を移すのをやめてくれれば。夜従が気を変えて荷に興味をなくしてくれれば――夜従が、盗賊家業をやめてくれれば。どれも莫迦な考えだ。
「それでも、すべて叶わなくても命さえあれば……怪我なら、私が助けられる」
寝台に臥せって水姫は独りごちた。
投げ出した手のひらが視界に映る。
なんの変哲もない真っ白な手。ここ数日で少し荒れてしまったが、未だ瑞々しくまろい娘の手。水姫のこの手を宝石に触れるように包み込んでは、父は感嘆して言ったものだ。
「水姫、お前の手は奇跡の具現だ。この世の中でもまたとない宝だ。この手が我が家から奪われることのないよう、私がおまえの周りのものは全て管理してあげるからね。安心してお前は贅沢をしていればいいんだよ。他になにもする必要はない。難しいことなどなにも考えず、この父に全て任せておきなさい。それでお前の人生全てうまくいくのだから。わかったね、水姫」
父の言葉に戸惑いながら、水姫は頷くしかなかった。異を唱えてみたこともあったけれど、そうすると父は水姫に失望の眼差しを向ける。そして更に水姫の周りに置くものを厳選して、幸せだろうと言いながら自由を引き絞っていくのだ。
父の言葉に頷く度になにか大切な物が身体の中からこぼれ落ち、消えていく気がしていた。
父の声は優しいけれど、いつだってどこか遠かった。それが寂しく、寄る辺がない。まるで自分が人ではなく、物言わぬ石粒に変わっていくような心地で歳月が経過していった。
独りきりの部屋で水姫は自身の手を胸元へと引き寄せる。
この手は今、水姫だけの手だ。父の物でも誰の物でもない。水姫がなにを思い、なにをするかも、水姫が決める。今、水姫は動かせる意志を持っている。
「だから、動きたいと思ったら動くの。それが莫迦みたいでも」
自分自身に確認するように水姫はぎゅっと手を握りあわせた。
何事もなければそれでいい。
たぶん、水姫が悩みすぎているだけで、実際夜従は今回も易々と仕事をやり遂げて帰ってくるのだろう。夜従に加護を与えているという精霊たちを従えて。――水姫の花嫁衣装を汚して、浚ってきた時のように。
思い出した光景に後ろめたい気持ちになる。
夜従を案じる自分は、もうあの時の自分では無くなってしまったのだろうか。
できることが少しだけ増えた今の自分は以前の自分よりも好きな気がする。それなのに、記憶の中の純白の衣をまとった自分と目が会うと、責められている心地になった。
その理由はわかっている。
「ここに身を寄せている私は、それを受け入れている私は、口でどう言ったって砂漠の中に沈んだ人たちを裏切っているのだわ……」
ある意味で水姫も他者を踏み台にして望んでいた物を手に入れたのだった。水姫が欲しかった、自分で考えるという自由を。
「莫迦ね、私。こんな身で夜従がしていることのなにを責められるというのかしら」
寝台に伏せったまま水姫は自分の中の矛盾に心を重くした。
そうして自己嫌悪に陥りながら、外に動きがあるまでまんじりともせず待っていた。
高く上っていた日はやがて傾き、明かり取りの窓も用を足さなくなった夜、ついに動きがあった。
にわかに扉の向こうが騒がしくなり、興奮した男たちの荒々しい声が行き交った。
「魔術師」
「王が」
「戦利品を縛りなおせ」
「傷口が塞がらない!」
取り乱した怒鳴り声が途切れ途切れに聞こえ、水姫はたまらず扉の外へと飛び出した。
城は帰還した盗賊たちと一部の村人の男たちとで喧々囂々の有り様だった。
盗賊たちは手傷を負っている者が多い。それに相対する留守役の男たちの、気遣うより興奮が先立っている様子から尋常の事態でないことが起きているのは明白だった。
水姫が出た部屋から見える範囲には夜従の姿はない。
男たちの統率の取れていない様子と、聞こえてくる言葉の端々から、嫌な考えを浮かべずにはいられなかった。