精霊
「もう十分だ」
夜従に声をかけられて水姫ははっとした。夜従を意識から追い出そうと奮闘するうち、いつの間にか洗濯物と向き合うことに本気で熱中していたようだ。
「たいした集中力だね、水姫。手を濡らすのは心地良い?」
意地の悪い問いに水姫は眉をしかめる。
水姫が物言いたげに睨んでみせても夜従は何食わぬそぶりで言葉を続ける。
「明日からは自分の衣もここに洗いにおいで。時間をずらせば女達とかち合うこともないから」
「そうするわ。……ありがとう」
夜従が首を傾げる。
「なぜ礼を?」
洗い上げた洗濯物に一度目を落とし、少し考えてから水姫は顔を上げた。
「あなたがここまで付き合う義理はないのじゃない? 誰かに任せるなり、道具だけ渡して勝手にさせるなりしてもいいと思うわ。だってここでは私はただの民なのだもの。それを自分で選んだのよ。なのにどうして付き合ってくれるの?」
水姫には不思議だった。夜従は盗賊たちの王だけあって決して優しいだけの人ではないはずだ。
先程のように水姫を困らせるような少し意地の悪い物言いはする。けれど物慣れない水姫の面倒を見て、彼が自らする必要のない生活の営みを手ずから教えてくれてもいる。水姫が細々と問いかけ続けても会話に応じる。面倒そうなそぶりも見せない。
正直を言うと民と扱うと約束されたものの水姫の扱いは奴隷に近いものになってもおかしくないのではないかと警戒していた。
ところが数日が経過してみれば一人の民としての暮らしどころか、夜従との距離感はともかくとして子が親に物を教わるような日々を過ごしている。
攫われてきた状況を思えば水姫の現状はかなり甘やかされていると言っても過言ではないと思えるのだ。
「お前を下に置くと決めたのは僕なのだから、馴染めるよう仕事を与えてやる義務もある」
「本当にそれだけ?」
「それだけ、とは?」
水姫が見つめると夜従もじっと水姫を見た。
夜従は本当は水姫の力について知っているということはないだろうか?
知っているから誰かに水姫を任せず、そばに置いていると言うことは?
その考えはどこかしっくりこない気がしたが、構われる理由としては妥当なような気もした。
けれど先程のように真面目に水姫に物を教える夜従を見ているとその考えはかすれてしまう。
そうでなければいいという願いもあるのかもしれなかった。
水姫を見つめていた夜従はふっと笑う。気配が切り変わってどこかからかうそぶりが見えた。水姫はとっさに警戒する。
「ああ、そう。水姫。お前、僕がお前に惚れているのではと勘ぐっているの?」
「え?」
思いがけないことを言われて水姫は目を見開く。
「確かに甘やかしすぎたか? けれどお前はなにをするにも必死で、見ていてこれほどおもしろいものはない。義務にかこつけて多少遊んでも悪くはないだろう?」
蜜を溶かすように甘い口調で夜従が言う。これみよがしに伸びてきた手に顎を掴まれて水姫は驚き手を振り払った。
「あなたったら、どうしてそんな言い方をするの。私、本当に感謝をしてるのよ」
「そう? それは光栄。攫った相手に感謝されるのじゃ、僕も教えた甲斐がある」
笑って身体を起こす夜従に水姫はあしらわれた心地がした。
「あなたって本当に……雨?」
頭を振って立ち上がった水姫の額にぽつりと大粒の水滴がたれた。
雨粒は続けざま、ばたばたと降り落ちてきた。またたく間に勢いを増して辺りは土砂降りの雨に包まれる。
「どうして?」
見上げた空は晴れ渡っている。なのにどこからか雨は滝のように降り落ちてくるのだ。
「水渡りだ」
隣で同じように雨に打たれる夜従がつぶやいた。
「水渡り?」
「水の精の群れが空を渡っているんだ。長くは降らないだろうけれど」
洗濯物を取り上げて夜従は水姫の肩を掴まえ、小屋の軒下へと連れて行く。
「水の精の群れ? 何も見えないわ」
「目に見えるものではないよ。あれらは自然現象に近いものだから」
水姫は夜従を見つめる。冗談を言っている風ではない。
「本当に精霊っているの?」
世界には人以外にも数多の生き物が存在するという。身近なところでは犬や猫。鳥。精霊や魔女や魔法使いや、人間では想像もできないような力を宿した存在があるということも聞いたことはある。けれど出会ったことのないそれらはおとぎ話の登場人物じみていて、今まさに頭上に存在していると言われてもうまく想像できない。目に見えない者ならなおさらだった。
「いる。間接的に水姫は出会っているよ。覚えがない?」
「記憶にないわ」
そもそも姿かたちを知らないし、水の精のように目に見えるものではないなら気づきようもない。どこで出会ったと言うのだろう? 記憶をたどっても思い当たるものがない。
父は精霊についてよく調べているようだった。けれど水姫に語り聞かせてくれたことはない。父のもとを離れた今になって別の誰かからそれを聞くのは奇妙な感覚がした。
感慨深いような不思議な気持ちで水姫は空を仰いだ。雨は滝のように叩き落ちてくる。けれど相変わらず空は陽射し眩しく晴れ渡ったままだ。
「不思議。見えないけれど本当にそこにいるのね」
「これだけの雨量なら相当の数の群れだな。お前が引き寄せた?」
ぎょっとして水姫は身を引いた。
「なぜそうなるの?」
「水の姫だろう、お前は? 水の精たちが姫に挨拶をしに来たんじゃない?」
水姫が不思議な心地に浸っているというのに夜従は感慨もなくからかうつもりらしい。
「もう、そんなはずないわ。そうやってからかうのはやめて」
睨めつけて抗議すると夜従は気分良さそうに笑い声をあげる。
「いいね、その顔。もっとさせてみたくなる」
「絶対、お断りなのだから。あなたって時々とっても意地が悪いと思うわ」
「この程度で? お前はかわいいね、意地の悪いやつはもっと悪質な嫌がらせをするよ」
「あなたよりも?」
意地の悪さを返すつもりで水姫は言ったのに、夜従は初めて見せる笑みを浮かべた。
皮肉っぽく口元を上げて影を落とすように水姫の方へ身を寄せる。
水姫は身を引きそうになり、すんでのところで思いとどまった。笑顔でも真顔でもない、どこか感情を乗せた夜従の表情に吸い寄せられるように見入ってしまう。夜従は内緒話をするように水姫に寄り添い囁きかける。
「お前に見せる僕なんてかわいいもの。加減を持たない冷徹者はもっと容赦などしてくれない」
額が触れあいそうな距離に緊張しながらも水姫は夜従から瞳を離さなかった。
「初めて会った時のあなたはなかなか容赦がなかったと思うわ」
「お前は僕に対してだけははっきりと物を言うね。まぁ、そういうところがいいのだけれど。――そう、けれどあれは十分優しい方さ。容赦のないやつはね、その者が本当に喉から手が出るほど取り返したいと思うものを奪い取る。そうして愚か者が足掻き、身を掻き毟る様を見て笑うことができるんだよ」
例え話にしては夜従の口ぶりは真に迫って聞こえた。水姫は戸惑って問いかける。
「それは……何の、誰のことを言ってるの?」
「さあ、誰だろうね。この世にいくらでもいるうちのひとりかな?」
普段どおりの笑顔を浮かべて夜従は話を締めくくった。掴みどころのない口調にこれ以上訊ねても意味がないことを知る。
「水姫、雨がやんだ。おいで」
差し出された手を水姫は取った。土砂降りの雨は空に一滴の雫すら残さずやんで、相変わらずの晴れ渡った空とぬかるんだ地面だけが残された。目に見えない水の精たちはどこかに飛び去ってしまったようだ。
どこか白昼夢を見た心地で水姫は陽射しの中へと歩み出た。
晴れた陽射しの下へ出ると雨で張り付いた衣服に今更ながら気持ち悪さを覚えて身震いする。
「寒い?」
「いいえ、平気よ。少し気持ち悪いだけ」
水姫が首を振ると夜従は少し考えるしぐさをした。わずかな間の後、なにかを思いついた顔でこちらに手を差し出してくる。
「おいで、乾かしてやろう」
「乾かすって」
どうやって? 聞こうとした水姫の腕を夜従が引っ張り自分のそばへと引きつける。
寄り添った水姫と夜従の足下から、ふいに風が吹き上った。
夜従と水姫を巻き抱くようにして風はとどまり、吹き続ける。はためく衣服に慌てて裾を抑え、水姫はうろたえた。
「夜従、風が足下から吹いてるわ」
「だろう」
いたずらが成功した子どものように夜従が笑う。
「お気に召した?」
「どういうこと? あなたがなにかしているの?」
「僕はなにも。ただ、精霊が動いてるだけさ」
「精霊!?」
水姫は目を見開いて視線を動かした。暖気をまとって吹く風は、水姫と夜従を包み込み衣服をはためかせている。目を凝らしてもなにも見えない。ただ風が吹いているだけだ。それが意図的に体にまとわりついているのが不思議なのだった。
「これが精霊の力? 本当に? からかっているのではなく?」
なにか仕掛けがあるのではないかと思えてしまう。魔術師が操るような魔法だと言われたほうがまだ信じられた。
「随分念を押すな。もちろん、本当に。今働いているのは風の精霊だよ。もうひとつ、夜に属する精霊もそばにいる。いずれも僕に付いて加護を与えている。いわば、一心同体の仲というわけ」
水姫の反応を楽しむように夜従はさらりと別の精霊もそばにいると明かしてみせた。それこそ影も形も見えないのだから、水姫は戸惑うしかない。
「あなたに、付いてる? そのふたり……の精霊が?」
半信半疑で水姫は問いかけた。
「そう。加護を与えられた人間は精霊の力を自ら使えもする。どう、驚いた?」
「……とても、驚いてるわ」
驚いているし、信じられない心地でもいる。物語に見るような幻想が実在しうると先程知ったばかりなのに、幻のような存在が目の前の男のそばにいて、力を貸し与えているのだという。
「いつから? 村の人達は知っているの?」
「当然、知っている。だから、僕を王と崇めているのさ。この力はいろいろと役に立つから。僕の庇護下にいれば略奪は容易だと彼らは知っている」
そこではたと思い出した。……砂漠馬だ。尋常ではない駆ける速度。どんな難所もやすやすと飛び越える、疲れ知らずの脚力。
「もしかして砂漠馬の駆ける速度が速かったのも精霊の力?」
「いいね、よく覚えてる。そうだよ、僕を通して加護を貸し与えていた」
「精霊って物語の中のものなのだって思ってた。いると言われているけれど、きっと実際には幻の存在なのだって。ごめんなさい、まだ信じきれない。起きたまま夢を見ているみたいだわ」
吹き上がる風に手をかざすと、水姫の手を避けて風は動く。からかうように砂を巻き上げ水姫の視界を煙に巻いて、夜従の漆黒の髪をかき乱した。夜従が面倒そうに頭の周りを手で払うしぐさをすると、彼の手の周りで風が渦巻いた。まるで飼い主に猫がじゃれついているようだ。
「生きてるみたい、本当に」
「もちろん。僕に付いてる精霊たちは無形だけれど、意志はある。だから僕に好意を抱いてそばにいるのさ」
「女の子? それとも男の子? いいえ、精霊にも性別があるのかしら?」
「風が女、夜が男。まぁ、感覚だけれど。無形だし、あってないような性だよ」
そういうものなのだろうか。水姫は呆然とするしかない。
「先程の水の精も彼らと同じ?」
「無形で性がないようなものという意味ではそうだね。ただ、格で言えばここにいる二精が断然上だ。意思があり、力を意図的に扱えるから精霊と呼ばれる。意思なきは精、持ちたるが精霊」
「呼び方も違うものなの? なんだか不思議。今まで見えなかったものが突然見えだしたみたいだわ」
今も衣服をはためかせて吹き踊る風に水姫は魅了される。自然物なのに意思がある不思議。そして水姫の心を釘付けにする精霊をも魅了しているのが夜従だという事実がまた不思議な心地にさせる。
「いつから一緒にいるの?」
「幼い頃から。もう随分長い付き合いになる」
「あなたは精霊に好かれる人なのね」
盗賊という一般的には人から恐れられる生業の夜従が一方で精霊には好かれているというのは奇妙な感覚がした。
彼に付いているという精霊たちは何を持って彼を気に入ったのだろう?
幼い頃からと夜従は言ったが精霊と共に生きる暮らしとはどういったものなのか、今彼らを知ったばかりの水姫には想像もつかない。
心底奇妙な心地の水姫だったが、夜従は軽く首を横に振った。
「いや」
夜従の気を引くように彼の肩横で渦巻く風を見つめながら夜従は水姫の言葉を否定する。
「好く者がいれば、当然嫌う者もいる。世の道理だろう?」
当たり前の口調で夜従は言った。けれど凪いだ表情は心なしか暗く凍えて見えて、水姫の心に引っかかりを残した。
引っかかったなにかを掴もうとなかば無意識に口を開きかけたところで、足下から吹き上がってくる風が水姫の髪を乱暴に巻き上げた。
「きゃっ」
「ははっ、水姫。どうやら服が乾いたようだよ」
夜従がおかしそうに笑って水姫に手をかざした。乱れた髪を軽く梳き通すとしつこく髪に絡んだ風は、従順に夜従の手に移っていった。足下から吹き上がる風も夜従の手へと吹き寄せられていく。それは徐々に弱まって、やがて名残もなく消えてしまった。
「洗った物も乾いたな。城へ戻ろうか、水姫?」
乾いた洗濯物を差し出して夜従は踵を返す。後ろ姿を見つめながら、水姫はまだ気持ちが追いつけずにその場に縫い止められていた。
半日にも満たない時間の間になにかいろいろな物に触れた気がした。
どこか夢を見たような心地で立ち竦む水姫を夜従が振り返る。
「水姫?」
呼びかけられて水姫は慌てて駆け出した。
からりと晴れ渡り続ける空とぬかるんだ地面。乾いた洗濯物。今や見慣れてしまった笑みを浮かべた夜従。目には映らない精霊たち。
わずかに残った興奮と消化しきれぬ思いを胸に残したまま、水姫は夜従と帰途についた。