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初仕事と羞恥心

 翌朝、早くに寝、早くに起きた水姫はどうすればいいのかと悩んでいた。

 夜従の身仕度を手伝うと約束はしたが、肝心の夜従の寝部屋を聞いていない。そもそもどれくらいの時間に向かえばいいのだろう? 当たり前の事実に今朝になって気づいて水姫は頭を抱えた。

 とにかく自分の身仕度を済ませ、所在なくしていると扉が大きな音をたてて乱暴に叩かれた。


「はい」


 水姫が慌てて扉に向かうと図体の大きい巌のような男がぬっと扉の向こうに現れた。


「王が起きられる時間だ。とっとと着いてこい」


 大男はそれだけ言った。

 どうやら夜従と約束した件は男に話が通っているようだった。水姫はちらりと男を窺う。声に聞き覚えがある。攫われた日、輿の外から夜従に声をかけていた男の声だ。

 大男は水姫が恐る恐る見上げるのを睥睨して踵を返し歩き始めた。素直に大男の後ろをついて歩くと、曲がった岩肌の廊下を上へと進み、一つの扉の前にたどり着いた。

 その扉は他の部屋よりも明らかに大きかった。二枚扉のうちの一枚を押し開けると、大男は部屋の奥へと入っていく。どうやらここは応接室のような部屋らしかった。むき出しの岩肌はそのままだが広さは水姫に与えられた一室とは段違いだ。

 奥に扉がもう一つあり、これは一枚扉。その前で止まると大男は水姫を振り返った。


「この先は俺は入れん。くれぐれも粗相のないようにしろ」


 言って大男は踵を返す。水姫は慌てた。


「あの、この奥に夜従が……?」


 不安になって考えれば当たり前のことを口に出すと、大男はその体躯で威圧するように水姫を見下ろした。


「王。王と呼べ。下っ端が気安く名を呼ぶな」


 恫喝するように大男は唸った。


「すみません」


 押しつぶされる心地がして水姫は身体をちぢこめ扉にすがった。

 ふんと鼻を鳴らすと、今度こそ大男は水姫を置き去りに部屋を出ていった。

 水姫は息を整えて、思い切って扉を叩く。

 中から返事はない。繰り返したが変わらないので、これも思い切って扉を開いてみた。

 室内は窓が設けられていないのか暗かった。


「よしょ……王? 身仕度を手伝いに来たわ。いるの……?」


 部屋の奥で衣擦れの音がする。


「王?」


 眠たげな笑い声が静かに部屋に響いた。


「聞こえてる。窓布を開けてくれ」


 夜従の声だ。真っ暗な部屋にはどうやら窓があるらしい。


「わかったわ」


 壁伝いに歩くと厚く柔らかな布が手に触れた。水姫がそれを引き開けると、柔らかな風を乗せて朝の陽射しが部屋に差し込んでくる。窓には木製の扉がついていたが、これは開け放たれたままになっていた。


「まだあるよ」


 夜従に促されるまま残りの窓布も開けていく。宵色の布が開かれると、それですっかり部屋の中が陽の光に洗われた。

 水姫は息を飲む。窓がある側とは反対の壁一面に、ありとあらゆる玉や石がびっしりと無造作に飾られてある。そのどれもが陽の光を浴びて凛然と輝いていた。

 水姫の家にも宝石の類はもちろんあるが、こんなにもの数を無防備に置いてはいない。


「呆けてる?」


 背後から耳にかかるほどの近さで声をかけられ、水姫は飛び上がった。


「よ、王!」


 夜従はあくびをすると気怠げに笑い声をあげて水姫を見下ろした。


「僕はお前の王になったの? それをお前は許しているのか、水姫?」

「そう呼ぶように、って」


 本当は昨日食事を運んできた女にも言われていたのだ。昨日はまだ呼ばなかった。けれど夜従の使用人を務めるのなら、わきまえることは必要に思えた。


「夜従で良い。僕を王だと思っていない人間にそう呼ばれても答えようがない」

「でも」

「僕が許してる。他の誰がお前に文句を言えるんだ? お呼びじゃないよ」

「……わかったわ」


 果たしてそれでいいのかと思いつつも、夜従が面倒そうな口調で締めくくったので水姫は頷いた。


「その、着替えを」


 水姫が気まずく声をかけると夜従は部屋の一角を指差した。


「あそこに服が入ってる。適当に持っておいで」


 水姫はあたふたと言われた通り動き、木製の箪笥から濃紺の上下を取り出した。箪笥の中に無造作に入れられた衣服はどれも黒か黒に近い色ばかりで、彼が昼の光の似合う人間ではないと表しているようだった。細々と必要な物を物色して水姫は夜従のそばへ戻る。

 部屋の奥の寝台に腰掛けた夜従は横に立った水姫にあっさりと言った。


「どうぞ、脱がせて」

「わ、私が!?」

「お前がここへ来たのはなぜ? 仕事だよ。だろう?」


 水姫は戸惑う。夜従の瞳が一瞬吟味するような色を浮かべた。それにどきりとして水姫は唇を引き結ぶ。

 ――仕事だ。ここで躊躇ったら水姫に今開示できる別の能力などない。


「わかったわ」


 夜従の前に屈んだ水姫は身体中に緊張をみなぎらせながら夜従の寝衣に手をかけた。屋敷で用意されいていたような釦式の服なら良かったのに。頭から被って着る単純なその衣服は、けれど水姫には難攻不落の代物に思われた。


「う、腕を上げてもらえない?」

「必要になったら、そうする」


 今までにかいたことがないくらい汗が浮かんできた。水姫はできる限り夜従の身体に触れないように衣服を捲くる。視界に夜従のむき出しの腹が映って頭が真っ白になった。

 思い切って持ち上げると夜従が腕を上げてくれたので、できるだけ丁寧に頭を通して衣服を取り払った。

 水姫は急いで目を逸らす。触れないように気をつけはしたが、それでも夜従の身体を何度か手が掠めてしまい、恥ずかしさで気を失いそうだった。

 震えてうまく動かない指で用意した服を取り上げる。これはまず腕を通して前を合わせ最後に帯で縛って整える服だったので、水姫は夜従の背に回ってまず袖を通させた。夜従を立たせて前を合わせ、帯を腰に回す。それをするのにやんわりと抱きつくような形になって、水姫はまた顔から火を吹きそうになった。そもそも、男性の生肌を視界に入れるこの状況が水姫には信じられない。

 一見華奢そうに見えた夜従の上半身は背も胸も腹も硬く、骨ばっていて水姫のものとはまるで違った。更に緊張を覚えて伏し目がちにして済ませようとするからよけいに時間がかかってしまう。言葉はないが夜従が水姫をじっと見つめているのを感じた。顔を上げた先、夜従は笑みを浮かべているだろうか、それとも。帯を結び最後の調整を終えると水姫はほっとため息をこぼした。


「下を先に着替えた方が良かったな」


 黙って水姫に着替えさせられていた夜従が言った。


「え? ……あ」


 水姫は気づく。寝衣のズボンの上で上衣の帯をしっかりと結んでしまったため、下を履き替えるには解いて上を結び直さねばならない。

 しまったと唇を噛み締めた水姫だが、それで更に恐ろしい事実に気づいた。まだ、下の着替えが残っているのだ。


「あの、下は。その」


 今日はもうずっとしどろもどろに言葉を絞り出している。水姫は弱り果てて夜従を伺い見た。


「仕事を減らしてほしい?」


 肯定するのはまずそうな口調で夜従が言った。一見優しそうに聞こえるが、その実水姫を試している声だ。水姫がなせる仕事は目の前のこれだけなのに、それさえ全うできないのでは昨日の約束を水姫が放棄していると取られてもおかしくはない。

 僕がその喉の風通しをよくしてやる、と言った夜従の声が甦り水姫は辟易して進退窮まった。

 何度も唾を飲み、深呼吸を繰り返して水姫は定まらなくなってきた視界で夜従を見つめる。


「あなたは本当に平気なの?」

「別に。お好きにどうぞ」


 こだわりなく答えられる。水姫は心を決めた。一度瞼をきつく閉じて息を吐き、瞳を開くや上衣を引き上げて夜従の腰に手をかける。

 仕事。これは水姫が初めてこなす仕事なのだ。なんとしてもやりとげなければならない。そう何度も心の中で繰り返しながら。

 

 

 

 

 着替えを済ませた夜従はその場でぐるりと回って身体を見下ろす。


「まぁ、いいとしよう」


 水姫は床に座り込みぐったりと身体を寝台に寄りかからせる。なんだか信じられないくらいに疲れた。

 水姫の様子をおもしろげに眺めていた夜従は、思い出した様子でくすくすと笑った。


「下着まで一緒に下ろされそうになった時にはどうしようかと思った」


 水姫は顔を真っ赤にする。

 勢い余ってズボンと一緒に下着にまで手をかけてしまっていたのだ。

 腰骨が剥き出しになるかなり際どいところまで下げたところで夜従が手を掴んでくれなかったら、水姫は今度こそ限界を超えて気を失ってしまっていたと思う。


「一仕事終えた心地はどう、水姫?」


 夜従はしれっと尋ねかけてくる。水姫は首を振った。夜従がくっくと楽しげに笑う。


「明日もおいで」


 言って水姫に手を差し出した。躊躇ったが、降ろされない手をやむなく掴んで水姫は立ち上がる。


「本当にこれを続けるの?」

「僕は許してる。明日も来るか決めるのは水姫だ」


 水姫は黙った。夜従は水姫のすることを微笑んで興味深そうに見守っているが、今日の仕事の中でふいにその目が温度を消し去って自分を観察する瞬間があることに水姫は気づいた。

 水姫が努力を放棄したら夜従は容赦なく水姫を『物』に戻して、夜従自身かあるいは誰かに自由の権利を放り渡すだろう。

 それがわかったから水姫は音をあげることが決してできない。できる立場にない。

 取った夜従の指先をそっと握り返して水姫は夜従を見つめた。


「明日も来るわね」


 言うと夜従は満足げに微笑んだ。


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