突きつけられた選択肢
道中馬は恐ろしく速く駆けた。
砂漠馬は砂に足を取られることなく昼夜を駆け抜ける力があるが、それにしても尋常の脚力ではなかった。
水姫と夜従を乗せた馬も疲れも見せず駆け続けた。景色の流れる速度と風の音に反して、馬上は風の抵抗も揺れも最小限だった。馬になど直接乗ったことのない水姫だが、それが普通でないことはわかる。
あの速度で駆けてこられ、なおかつ襲ってきた盗賊すべてが手練だったのなら、商人のかき集めた護衛たちが崩されたのも納得のいく話なのかもしれない。
いずれにしろ、水姫の運命はわずかに軌道を変えて他者から他者へと投げ渡されたのだ。
「どちらにしろ同じなのだわ」
ぽつりと水姫は独白した。握りしめた手を見つめていたために、背後に座り手綱を握っていた夜従が興味深そうに水姫を見つめていたことにこのときの水姫は気づかなかった。
盗賊の根城は砂漠の向こう、恐らく西の地の辺境にあるようだった。目隠しもされず案内されたのはそれだけ水姫が逃げられないと高をくくっているのか、或いは着いた先で長く生かす気がないからだろう。
水姫が連れて来られたのは崖をくり抜いて造られた盗賊たちの居城だった。城の周りには家屋が点在し、その外周を石垣が囲う。一見すると本当にただの村のようだ。ただここにたどり着くまで険しい道程があったから(盗賊たちを乗せた馬はまるで頓着せず揚々と駆け抜けた)、ただの旅人にはたどり着けないだろう。
水姫は、夜従たちが城と呼ぶその無骨な崖城の一室へと通され、しまい込まれた。
「ここが僕の家。そしてこれからはお前の家だ。鍵はかけるけれど動いてはいけないということはないよ。あとで食べ物も運んであげよう。それまでゆっくりと心を整理しておおき」
言ってすぐに扉を閉められた。夜従とそれに付き従っていた数人の男たちの足音が遠ざかっていく。
それで水姫は数時間ぶりに一人になった。
部屋には外から鍵のかけられた扉が一つきり。窓は天井近くに小さな明かり取りが設けられているが、子供が通るにも難しい大きさだった。家具と呼べるのは寝台だけで、そのたった一つを置いただけで部屋は窮屈に埋まっていた。
圧迫感を感じながら水姫は寝台に萎えた腰を下ろす。
ぼんやりと盗賊たちが去っていった扉の方を見つめて水姫はつぶやいた。
「盗賊。夜従。王。……東の領主。輿入れ」
暗く静かな部屋に押し込められて、水姫はぼんやりと己の立場を顧みた。
夜従。あの不思議な男。
彼が盗賊たちの頭目のようだった。王、と呼んだ男の声が耳にこびりつく。
根城に到着後、完全に荷物扱いで夜従に担がれた水姫は屈強な大人の男たちがみな夜従にだけは丁寧な態度を取っていたのを見た。
夜従は水姫とさほど歳が変わらないように見える。一つか二つ相手が上。せいぜいそれくらいの差に思えた。その少年の面差しをどこか残した彼が盗賊たちの王。いかにもそぐわない。
水姫は裕福な商家の生まれだ。まさしく玉を磨くように丁寧に丁寧に育て上げられてきた。
父にとって水姫は傷つけるわけにはいかない手中の玉だった。そして此度ついに玉の買い手が決まった。父がいかにして値を吊り上げて水姫を売り払ったかを知っている。
商隊――あれは花嫁行列などではない。水姫という玉を運ぶ商隊だ――は全滅したと盗賊たちは言っていた。けれど思ったほどに水姫の心は動かない。
単に心が麻痺しているだけかもしれない。けれど水姫にはそれが水姫が生まれてから今までで得たものへの答えであるように思えた。
見慣れない岩肌のむき出した天井を見て水姫はしばらく呆然としていた。
「老人に蝕まれて生きていくのと、盗賊に殺されるのならどちらがましかしら」
「もちろん盗賊の方がましさ。殺しはしないけれど」
はっとして水姫は扉の方を見る。そこにいつの間にか夜従が立っていた。
「食べる物を持ってきた。それに衣も。花嫁衣装はもう必要ないだろう?」
水姫が眉をしかめると夜従は優しく笑う。
「僕の名前は覚えたか?」
「夜従」
警戒しながらも水姫は答えた。
「お前は物怖じしないのがいいな。それでそちらの名は?」
水姫は躊躇った。現状を嘆いて自害するのでないのなら、反抗的な態度は自分のためにはならないだろう。自分の心に問いかけても、水姫はどうしても死にたいとは思えなかった。
「……水姫」
夜従はほう、と感心したような声を出す。
「砂漠で拾ったのが水の姫とは洒落がきいてる。いいな」
機嫌よく夜従は言う。拾ったのでなく攫ったのだと水姫は思ったが口には出さなかった。
「それで? どちらにしろ同じ、とはどういう意味?」
出し抜けに尋ねられて水姫は意味を掴みかねる。ややして馬上で水姫がつぶやいた独白に対して聞かれているのだと気づいた。風の唸り声で夜従には届かないかと思っていたが、しっかりと聞きとっていたのだ。
「意味なんてそのままだわ。東の領主に娶られて朽ちていくのと、ここで囚われるの、どちらか選択できたとしても私に変わりはないということよ」
夜従はなぜだか楽しそうに喉をならす。
「本当にお前は物怖じしない。けれどその発想は半分が間違いさ。お前がそうしようと動くのなら、ここはお前の王国に変わる。虜囚ではなく自由ある民だ」
攫われて自由もあるものか。水姫がたまらず唇を噛み締めたのを夜従はまじまじと見つめる。
「あなたは私を戦利品と呼んだわ」
それこそが答えではないのか。ふつふつと憤りがこみ上げてきて水姫は夜従を睨み上げた。
「あの時点ではそうさ。お前がそう望むならこれ以降もそうだ。お前は僕の持ち物になる。お前になにをするかも、させるかも、僕が決める」
「嫌よ!」
反抗的な態度は取るべきではないと先程考えたばかりだというのに、水姫は強く拒絶していた。
「なぜ嫌だと思う?」
夜従は水姫の態度に頓着せず間髪いれずに問い返してきた。
「なぜ……?」
問い返されると思わず、水姫は言葉に詰まった。
「お前の言葉を借りるなら領主の元でお前は自由なく朽ちていくばかりだ。ここにいれば自由にしていい。けれどそれも拒絶するならお前は僕の『物』でいる他ない。動かぬ置物に生活のしようなどないのだから。僕の物が嫌だというなら、もっと不特定多数の男の物になる。それも嫌なら自害の道も与えてやろう。これはお前だけが選択できる」
夜従は射るように水姫の瞳を見つめてくる。
「けれどお前は僕の言葉に嫌だと言ったね。萎縮せず口をきいてもみせる。つまりお前は生来物言わぬ奴隷ではないということ。そうあろうとする意思を捨てもせず持ち続けてきたということだ。だからお前には選択する権利が残る。凶賊の元で生きるのはおぞましい? けれどお前は、お前から未来を奪った僕を憎んではいない」
ぎくりと身体が震えた。
夜従の言葉は正しい。なぜなら、水姫は父が自分を大切に大切にしてくれていた子供の頃から、もうずっとこの日が来るのが恐ろしかった。どうにかして叩き潰してしまえたらと思っていた。誰かに物のように売り払われる日が来るのをわかっていて、けれどそれに従いたくはなかった。
それがまさかこんなにも暴力的な形で叶えられるとは夢にも思っていなかったけれど。
夜従は水姫にとって毒のように甘い声で囁いた。
「今の世に、ここまで理不尽に子供を他人に売り渡す親はいない。多少は融通されるはず。けれどお前はそれをされない。それは――」
夜従が途切れさせた言葉の後を水姫は心の中で補った。それは――水姫が父にとって人ではなく物だったからだ。母の腹から降って落ちてきた稀なる玉。
商隊を襲った時、夜従は言った。「たいそうな宝が東の領地へ移されるというから襲ってみれば」と。
夜従がどこからその情報を得たのかは知らないが、いつだって答えは水姫の前に隠しきれずにむき出しで示されてきた。お前は人ではなく物だと、父はいつも善人の笑顔を浮かべながら態度で水姫に知らしめた。
夜従はそれを指摘している。優しい口調で容赦なく、水姫という『人間』の帰る場所はないと今の水姫の前にある現実を突きつけてみせているのだ。
水姫は泣いた。
今までわずかに視線をずらして耐えてきたものを突きつけられて、こんな心細い状況ではついに堪えられなかった。顔を覆って夜従の目から隠してみたが、声は押し殺せず哀れな泣き声が部屋に満ちた。
「泣いてもいいよ。けれど返事は早くした方がいい。お前は今、僕の物なんだ。物のままでいるなら、今夜からお前を僕は好きに扱う」
夜従に憐れむそぶりはない。そのくせ優しい声で言って水姫の頭を撫ぜる。その指先が水姫の耳をかすめてうなじをなぞった。堪らえようにも堪えられない涙に苦しいほど溺れていた水姫は、与えられた感触に身体をこわばらせた。
「お前は僕に攫われたんだ。もう商人の娘じゃない。宝玉を庇護する手はここにない。この先のことはお前でお選び」
水姫は泣き続けることも叶わず、けれど止まらない涙を膨らませたまま夜従を見上げた。
水姫に触れた夜従の手がゆっくりと止まる。
「あ、あなたの物になりたくないわ。誰かの物にもなりたくないの」
「それで?」
その先をどう続ければいいのだろう? 父のもとに帰る道は絶たれ、東の領主のもとに嫁ぐ道も途絶えた。夜従にこうして触れられるのも恐ろしかった。――残った選択肢。夜従が示した道は盗賊の中で一人の民として生きること。
沈黙は水姫の身を守らない。己を守りたければ、水姫が立ち向かっていかなければならない。
そして今、水姫を守る力は言葉による選択なのだった。
「……ここで暮らすわ。物でなく、民が良い」
水姫は言った。自分でその道に踏み込むと口にしてしまった。
何かを、それが半ば強制された何かだとしても何かを、自分で決めたのは初めてのことだった。
商隊が襲われた時に感じたものの比でない恐ろしさが身体の中に膨れ上がって、震えが立ち上ってくるのを水姫は感じた。
「では、そのように」
楽しそうに夜従が頷いた。