【死児の道行き】
──救急車は、警察は、まだ来ない。
駅のベンチに女が腰掛けていた。彼女は子どもを大事に抱え、あやしている。かわいいこちゃん、ほらわらって──。
その隣には困った笑顔の駅員が座り、彼女に対応していた。
「わたし、駅って子どもの頃から好きだったの」
「…電車が好きという方は多いですが、駅ですかぁ」
「駅員さんは電車が好きなの?そうね、電車も良いわ。何処かに連れて行ってくれる。──駅はそういう場所だもの。素敵な何処かに、行けるの」
だからね、と彼女は自身の子どもを覗き込んで微笑み、続けた。
「この子にも、見せてあげたくって」
「…そうですか」
若い駅員は、そう答えるしかなかった。上手い言葉など出て来ない。
何しろ、女の下半身は血で染まり、抱いた臍の緒が付いたままの赤子は明らかに変色して、息がない。
──腐臭が、漂い始めていた。
夏は、死した者に蝿を集らせる。
ぶぶぶぶぶぶぶぶ…
女は蝿など見向きもしない。ただ青黒い肌の赤子に微笑みかけ、揺らしている。
若い駅員がそっと風を送るふうに仰いで蝿を避けさせた。
周囲では女と赤子の様子に悲鳴を上げる者、スマホを取り出し撮影しようとする者、様々だ。不躾な輩に駅長が吠え、散らしている。
女の顔色は酷く悪い。
恐らく駅のトイレで出産して間もない、明らかに休息が必要な身体だ。じりじりと蝉が鳴き、太陽が照りつける酷暑の中にいて障りがないはずがない。彼女の長い髪は頬に貼りつき、血塗れの姿と相まって幽鬼のようだった。
ぐらり、と隣の駅員に一瞬倒れ込みかけた。
彼女は眉を下げて、彼に、あらごめんなさい、と場違いなまでに人の好い声で謝った。
「熱中症かしら…駄目ね、くらくらして」
蝿が唸る。
熱が籠る。
汗が滲む。
そして駅員は、決断した。
「おかあさん、貴女、随分疲れているようです。僕に赤ちゃんを抱っこさせてくれませんか?おかあさんは少し、休みましょう」
女は逡巡し、そっと、その腕の愛しい子を、愛を注ぎ育てたかった子を、彼に差し出した。彼は慣れない手つきで赤子を受け取り、そして彼女がやったように揺らしてあやす。
「男の子、ですねぇ…でんしゃが、すきに、なったかもしれな、」
駅員は耐えられなかった。
涙が抑えられなかった。
この子は、生きることを望まれて、そして、でも、
ぐずぐずと泣いた。嗚咽を堪えられなかった。
母になるはずの彼女はそんな彼の様子に目を見開き、そして、
「貴方が泣かないで、そんな、泣かれたら、私、」
夢から醒めたように女もまた泣き出した。
そして救急車が漸く到着し、女は眠るように意識を失い、駅員は救急隊員にそっと、赤子を差し出した。
僕はコインロッカーベイビーだった。
一昔前の都市伝説での子どもの捨て場を真に受けた母は明らかに頭が悪い。
僕は要らない子で、駅で生まれて捨てられて、それからも駅の呪縛に繋がれるまま、駅員になった。
──死した子を抱き続けた彼女。
彼女に抱かれた赤子が、眩しかった。羨ましかった。悲しかった。痛いほどに。おかあさん、と誰かを呼んでみたかった。
彼女に抱き締められる夢を見たかった。望まれた命に、愛されることに焦がれた。
しかしあの赤子を抱き締めた感情は、言い表せない。
さようならを言って、きっとあの子は良いところに行けるのだろう。電車に揺られるような、ゆったりとした旅であれば良い。きっとお母さんは、いつか大好きな駅から、彼の元に向かうから。
【了】