あ、あらかん?!
苦節三年、妻の小説は順調に連載を続けていたーーというのは真っ赤な嘘であるが、妻の糖尿病は、食事療法と良いお薬のおかげで、一日一回の服薬と、一日一回寝る前のインスリン注射だけで良くなったーー!ーーのは、本当だ!
「あのころはホンっト〜に辛かったわん!もう二度とあのころのようにはならないわん!」
いつもの和室で座卓をはさんで向かい側に座った妻は、そう言うとマグカップに注いだブラックコーヒーをガブリと飲み干した。
「あひひ、あちち!」
まだドリップしたばかりで、適温になっていなかったらしい。
我が家は紅茶党だが、糖尿病にはコーヒーがよいらしいと聞いて、数年前から妻はコーヒーをよく飲むようになった。
「気をつけなさい。今日は牛乳は入れないのかい?」
と、わたしが尋ねれば、
「最近はブラックで飲むのも美味しいな、って思い始めたの。もちろん、ラテもオレも好きだけど、今日はブラックな気分なのよん」
なんとなく誇らしげに妻は応えた。そして、
「実際のところ、紅茶って砂糖もミルクも入れないと、少し渋味があるじゃない? でもコーヒーってちゃんと淹れるとほろ苦くはあるけど、渋味はないから、結構イケるのよ。歯への着色も、コーヒーのほうが心なしか少ない気もするし……」
「そういうものかねぇ。わたしは紅茶に慣れ親しんでいるから、渋味も気にはならないが……」
「だってあなたは、砂糖もミルクも入れ放題じゃない!」
「いやいや、砂糖は入れてないよ、おまえが糖尿になってからは、わたしもミルクしか入れてないじゃないか」
「そうだけどぉ……」
と、妻が何かまだ不満気なので、わたしは話題を少し逸そうと、
「おまえが小説を書かなくなって、もう三年か……」
遠い目をして、つぶやいた。
「げへがはごほ」
お約束のように、妻はむせるのであった。
「アラフィフということで売り出し……もとい、書き出したおまえも、早、50代後半……いやはや、わたしもおまえも歳を取ったもんだなぁ……」
「ふふふ……あなたも言うようになったわねぇ……」
「知ってるかい?私たちの世代を、いまではアラカンというらしいよ」
「アラカン?」
「アラカンのカンは、還暦のカンだ。還暦近い年頃という意味らしいーー」
「ノォ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
妻は座卓をバンッとばかりに両手で叩き、凄い勢いで立ち上がった。
「あなたは私より二歳上だから、確かに還暦も間近かもしれないけど、私は違〜う!」
ふんっふんっと鼻息を荒げて、妻は叫ぶのだった。
「四十五十は、まだヒヨコとか言ってなかったかい?おまえは。良かったじゃないか、名人の域に近づいたじゃないか」
「それは落語家の世界の話でしょうが、私が目指しているのは小説家の世界、その頂点よ!!!」
でっかく出たものである。
「とは言え、おまえはもう三年も連載を滞らせているじゃないか……」
「シャラップ、イコール、おだまりなさい!」
妻は仁王立ちのまま、腕を組んでわたしをにらみつけ、
「リフレッシュ休暇よ、ほんのちょっとリフレッシュ休暇をもらっていただけよ!書きたいものは、いつだって頭の中にあったわ!ただ、筆を起こすきっかけを見失っていただけなのだわ、私は!」
「おおおー!」
と、わたしは感嘆してみせた。
「では、また連載再々再開するんだなっ?!」
「応よっ!!」
妻は歌舞伎役者のように睨みを利かせ、
「やってやろうじゃ、あ!あ〜りませんか!!」
と、大見栄を切ったのであった。
どことなくお笑い芸人くさくなったのはご愛嬌である。
「よっ!待ってました!」
わたしは、パチパチパチと拍手を鳴らした。
ここまでノセると、引き下がれないのが私の妻である。
「ふふん♪」
目をつぶり、にっと笑っている妻の口角が、少しヒクついているように見えるのなどは、もちろんわたしの気のせいである。
さあ、はたしてーー妻は有言実行するのか否か、その答えが出るまで、しばしの猶予をいただきたい。
妻が小説を書く前に気合を入れて叫ぶ、
「えっしゃおらー!」
が、聞こえてくることを、わたしも願ってやまないのだ。




