逆転夫婦③
「気づかなかった…知らなかった…おまえが…まさかおまえが…なんで内緒にしていたんだ?!」
わたしたちは不倫の話をしているのではない。結婚三十年、一つ屋根の下仲良く暮らしてきた熟年夫婦なのだ。
「私のほうは、あなたのイラストに大注目していたけど、あなたってば、いまでもそうだけど、買ってきたマンガとか、自分の見たいとこだけ見て、あとは放りっぱなし…あのころも、読者投稿のショートショートなんて、まるで興味がなかったんでしょ?」
「それにしたって、おまえ…部活のみんなにも、よくバレなかったな…」
「あの、いまでは超大御所の作家さんがあのころ毎月連載してて、
いまでは海外も認めるアーティストになったイラストレーターさんが毎号カラー表紙を描いていた小説誌だけど、
あのころはなかなか置いてあるところもなくて…
三十五年前ですものね。私の地元の本屋に、毎月一冊だけ入ってるのを私が買ってる感じだったわ。
うちらの高校、田舎だったから、そもそも◯◯◯という小説誌の存在さえ知らなかったんじゃないかしら…みんな」
長々と、説明的なセリフありがとう、妻よ。
「それにしても、おまえ、よくあのころ言いふらさなかったな…。おまえが雑誌に載ったことがあるって、言い出したの、わたしと結婚してからじゃないか…」
「脳ある鷹は爪を隠すーーってね」
妻は、フッと、すこし寂しげに笑みをもらした。
「ていうか、誰か気づいてくれたら、否定はしなかったのに!自分から言い出すなんて自慢たらたらっぽいから、遠慮してたのに!なのになのになのに!なーぜみんなもだけど、あなたも気づかなかったのよ!」
「いや…わたしはもうあのころから、小説よりもマンガやイラストを描くのに夢中になってて…」
「私への愛が、足りない!」
妻はズバンと、座卓を叩いた。
「だってだって、あのころはまだ付き合ってさえいなかったじゃないか…!」
怯えつつも、訴える、わたし。
「それでも!あのころの私を!ちょっとは!可愛いと思ってたんでしょう?!」
また座卓をズバンズバン叩きながら、妻は言うのであった。
わたしは小さく縮み上がった。
「…はい…それは、少しは…思ってました…」
「少しなのっ?!愛が足りない!!」
「いや、いっぱいです!!いっぱいいっぱい、可愛いと思ってましたぁあ!!」
妻はは、フーーーッと長いため息を吐いたあと、
「よろしい、ならば今回のことは、不問に付します。かわりに、小説への挿し絵、頼んだわよ」
「はは〜!」
と、土下座して御沙汰を受けてから、わたしは正気に戻った。
「ーーいや、だからね、無茶だって。わたしはおまえと結婚してしがない会社員の道へ進んだとき、マンガ家への道をあきらめ、筆を折ったんだ。さびついたこの腕で、いまらさイラストなんか描けるわけがない…」
わたしがせつせつと訴えると、妻は座卓に片肘ついて、黙って聞いていたが、ポツリと言った。
「…あなたが、タブレット端末が欲しいって言ったから、買うのを許したあのタブレット…あれ、タブレットはタブレットでも、液晶タブレットってやつでしょう…イラストの描けるやつ…」
「げほっ!!」
わたしのHPに1万ダメージ
「わざわざそんなの選んで買ってきたくせに、なんで使わないのかなぁ……って、ギモンに思ってたの、なんでかなぁ…………?」
わたしは冷汗たらたら。もしかしたら、毒状態なのかもしれない。RPG的に言うなら。
「さすがに無断で中覗くわけにはいかないでしょ?でも、あなたの部屋の机の下に、こんなの落ちてるの見つけちゃって……」
妻がピラッと取り出してみせたのは、グローブ…手袋だった。液晶タブレットに使う、専用の。
「これなにかなぁ〜?なんで親指と人差し指と中指を入れるところが無いのかなぁ〜?ねぇ、あ・な・た、詳しく教えて〜〜〜」
わたしの心の中は、ムンクの叫び状態だった「ひぃい!」って、心が悲鳴を上げていた。
「それは…それは…」
「いいのよ、あなた、わかってるの。あなた、いまでも描いてるんでしょ?」
うつむいて目をそらしていたわたしは、ハッと顔を上げた。
妻が、ふたたび慈母のような、やさしい優しい笑みを浮かべていた、
「私が五十を過ぎても小説家への道をあきらめきれないように、あなたもマンガ家への夢を断ち切れないでいる、のよね?」
リンゴーンと、わたしの頭の中で、教会の鐘が鳴った。
おお、聖母マリアよ!
わたしの目から、涙がこぼれ落ちた。
ウンウンソーナノボクマダマンガカニナリタインダヨー!
声にこそ出さなかったが、わたしの心が叫んでいた。
「あなた」
妻がやさしくわたしの手を取った。さっきまでズバンズバン座卓を叩いていたせいで、すこし赤くなっている。
「やりましょう、あなた。私は小説家を目指す、あなたは私の小説に挿し絵をつけて、まずマンガ家への第一歩を踏み出す。ーーいいじゃない!五十歳だからって、誰はばかることもないわ!私たちは、私たちの夢を叶えましょう!!」
マンガなら、妻の顔の周りにキラキラのエフェクトが貼られているところだろう。
実際、妻は、わたしの目に、輝いて見えた。
「私が『ひさしじろう』で、あなたが『岬町子』。ふふっ。私たち、性別が逆転しちゃったわね!」
優しく微笑みながら、妻は言った。
一抹の不安はあったが、心の中のわたしが、
イインダヨガンバロー!
と叫んでいたので、わたしはそれに従うことにした。
こうして、二人三脚、妻とわたしの小説家になろう、ついでにマンガ家も目指しちゃおう、計画は、始動したのであった。