幸い
「あなた、本当の幸せって、なんなのかしら……?」
和室の座卓に向かい合ってすわっている妻が、妙に神妙な顔つきで、そう呟いた。
「なんだい、宮沢賢治かい?銀河鉄道の夜は、良かったなぁ…」
と、わたしは学生時代に読み耽った作品の数々を思い出し、懐かしくも、せつない思いにしばし、目を閉じた。
「あなたにとっての、幸せって、なぁに?」
「それは、おまえーー平凡な毎日がつつがなく続くことじゃないか?」
「そうね、いったんこれ有事の際には、身に染みて、日常の平々凡々な毎日のありがたみを知るわね……」
と、最近、身内に緊急手術、という大事のあった妻は、賛同してくれた。と、思いきやーー
「でもね、私は、一歩踏み出した幸せのことを、聞いてるの。穏やかな日常は、確かに幸せよ。でも、一歩下がれば、そこには不幸せの落とし穴がある……と思うの。だったら、一歩進んだ先には、幸せに増した幸せがあると思うの……つまりーー」
と、妻はかしこまって、言ったのだった。
「向上心を持つこと。持ち続けることが、人間にとって、人間としての幸せだと、思うの…」
「今度は、夏目漱石かい?たしか『こころ』の中に、向上心のない奴はバカだ、というくだりがあったと思うが……」
「向上心のない人間を蔑む意見には賛同しかねるけど……人間は、向上心、常に上を目指す心があってこそ、幸せな状態なのじゃないかしら……」
「……今日は、やたらと人間哲学を語るねぇ」
「私がいつも感情ーーノリだけで、生きていると思ったら、大間違いよ!」
妻は、ふんっ、と鼻息も荒い。
「えっ?!違ったのかい?!」
ーーなんて、心の声は、わたしはもちろん口に出さず、
「……おまえのいう、向上心って、つまりはなんだい?」
「ズバリ!小説を、書いて、衆目が私の小説に集まって、要はバズることよ〜〜〜!!!」
妻は雄叫びを上げた。
「正確には、バズるべく、努力すること、面白い小説を書くことが、私の目標にして、手段なのよ!わかる?!書くことが私の使命!私の幸福!私が幸福になる手段なのよ〜〜〜!!!」
わたしは、ウンウンうなずいて、
「つまり、おまえは、もっと小説が書きたい、さらに言うなら。もっと面白い小説が、書きたいと言うんだね?」
「……あなた、その言い方だと、私の過去の作品が、まるで、面白くなかったみたいに聞こえる……」
妻が、ジト目でわたしを睨む。
「いやいやいや、より、より、より一層、面白い作品を書きたいと、そう願っているんだねっ?!」
わたしは、アセアセという擬音を撒き散らしながら、言い直した。
「ふぅん、まぁいいわ……。少々あなたにケチをつけられたところで、私の書いた小説が絶対的に面白かったのは、確定事項だし!」
その自信の根拠はどこから出てくるのかわからないが、とにかく妻の自信は揺らがないのであった。
「不幸にして?と言ったら語弊があるわねぇ…不遇にして、あまり多くの読者の目に止まらず、バズりもしなかったけど、いずれ正しく評価される日が来るはずよっっ!!」
「……そうだね、わたしもそう思うよ」
「声が小さぁあぃい!!!」
「はひっ!わたしも、絶対、絶対、絶対、そう思うよ!!!」
「じゃあ、聞くけど、いま、私は、幸せだと思う?不幸せだと感じていると思う?」
「それは……やっぱり、幸せなんじゃないか?目標に向かってがんばっている最中なのだから」
「そうね。正解。じゃあ、もうひとつ、あなたに聞くわ。あなた、いま、幸せ?」
「おまえの幸せが、すなわちわたしの幸せだよ」
と、答えようと思ったが、気障すぎると、思って、
「おまえという伴侶を得て、わたしは果報者だよ」
と、言い換えた。
妻は、照れたように、
「いやね、あなたったら!」
ちょっと微笑ったのだった。




