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くらう。  作者: 溝口智子
9/25

「夜にならないと工場からは出て来ないだろう。ほら、行くぞ」


 慎一が背中を押すと、今度は素直に前だけを向いて歩きだした。


「おじさん、お化けなんかいないんだって言わないの?」


「なんで」


「大人は、だいたいそう言うから。でも本当にいるんだ。見た人が何人もいるんだ」


 少しばかり面倒くさいと思いながらも、黙り込んでいては警戒されてさらに面倒くさいことになるだろうと、慎一は少年に言葉の先を促した。


「見た人って、どんな人なんだ」


「隣の学校の子とか、塾の友達の友達とか」


 よくある怪談のパターンだ。お化けに会うのは、直接知っている知人や友人ではあり得ない。怪談を知っている人たちを遡って調べても、恐い体験をした誰かを特定することは出来ない。お化けに会った、そんな人間は本当はいないからだ。


「それと、塾の神田先生」


 慎一は眉根を寄せた。


「先生? 大人か」


「そうだよ。夜、ここを通ってたらお化けに追いかけられたんだって。それで捕まりそうになっちゃったんだって」


 怪談で子どもを脅して近づけないようにしようという作戦だったのだろうが、そういう話は逆効果だ。子どもたちの好奇心を掻き立てる役にしかたたない。

 そうして噂はさらに信憑性を持ち、流行り病のように街中に広がっていく。


「とにかく塾に行って、その先生に話を聞いてもらえ」


 男の子は憮然とした表情ではあったが、きっちりと頷き、落ち着いた足取りで歩きだした。


 道中で、男の子はぺらぺらと色々なことを勝手に話した。平田帝王と名乗り、自分の名前が嫌いだ、そのせいでいじられるからと忌々し気に呟く。慎一は面倒くさくて適当に相槌をうち続ける。


「名前って本当に大事だと思うんだ、人にとって」


「ふうん」


 興味なさげに返した慎一を見上げて帝王が尋ねる。


「おじさんは、なんていう名前?」


「深田慎一」


「慎一さん、いい名前だね」


 ちらりと帝王を見下ろすと、帝王は楽しそうにニコッと笑った。子どもに下の名前で呼ばれるのは気持ちの良いものではなかったが、呼び方を訂正させるのも大人げない。慎一はまた「ふうん」と呟いた。


 だらだら歩いて帝王が通う塾につくと、事務室の中で一人の女が大声でわめいていた。若い女性事務員が困り顔で対応しているが、女は聞く耳を持たず、がなり続ける。


「帝王を探してください! なにかあったら塾の責任ですよ!」


「お母さん!」


 帝王が事務室に駆け込み、女の腕を引っぱる。


「やめてよ、なにもないよ、僕はここだよ」


「帝王! ああ、どこに行ってたの、心配したのよ」


 べたべたと甘えたような声を出す女が帝王を抱きしめて頬ずりする。帝王は嫌がって身をよじるが女は放そうとしない。

 慎一は女をまじまじと観察した。

 年齢は四十代前半だろう。帝王の母親としては少々年が離れていると思ったが、今はこんなものかと思いなおす。長い髪をカールさせて胸元に垂らし、服はいかにも高級そうな白のフレアススカートと、ピンクのカットソーに白のボレロという、今から授業参観にでも行きそうな暑苦しいものだ。そういえば帝王の服も、いかにも高級子ども服といった感じだった。


「帝王、もう勝手にどこかに行ったらだめよ。お母さん、心配で死んじゃうわ」


 女は帝王をきつく抱きしめて耳元で囁く。慎一には帝王の背中しか見えないが、その背中が強張っているのがよくわかった。


「うん。わかったよ、お母さん」


 帝王は直立したまま母親の顔を見ることなく答えた。


「あの……」


 帝王の母親に責められていた事務員が恐る恐る慎一に近づいてきた。


「もしかして、平田くんのお父さんですか?」


「いや、違います。迷子になっていたので連れて来ただけです」


 そう言って慎一が建物を出ようとすると、帝王の母親が小走りに近づいてきて慎一の行く手をふさいだ。両手を大きく広げて子どものように通せん坊をする。


「あなた、誘拐犯ね。私の帝王が一人でどこかに行くなんておかしいもの。帝王は賢いから迷子になんてならないし、あなたが無理やり連れて歩いたんでしょう!」


「やめてってば、お母さん! 慎一さんは僕を助けてくれたんだ」


 慎一は茶番にうんざりして女の肩を押して脇をすり抜けようとした。


「どうしたんですか?」


 騒ぎを聞きつけたのだろう、すぐ近くの教室からワイシャツ姿の男が出て来た。見覚えのない慎一を見て瞬きを繰り返す。

 慎一は無視して通り過ぎようとしたのだが、事務員が「なんでもないんです、神田先生」と言った声を聞きつけ、足を止めた。


「神田先生? お化けの話をした?」


 一瞬、神田の視線が泳いだ。慎一の目を見ないようにしているのか、廊下の壁の方に顔を向けた。


「お化けって、なんのことでしょうか」


 慎一は神田の視線を少しでも追おうと足を踏みかえ、立ち位置を変える。


「子どもたちの間で流行っている、工業団地の人食いお化けの話ですよ。神田先生は人食いお化けを見たと子どもたちに話してあげたそうですね」


「そ、そんなことするわけないじゃないですか。僕は講師ですよ。子どもたちに危険かもしれないことを唆すようなこと……」


 帝王が目を見開いて大声を出す。


「先生、言ってたじゃないですか! 人食いお化けに追いかけられて、食べられちゃうところだったって! すごく怖いんだぞって言ってたじゃないですか!」


 神田の視線はうろうろと落ち着かない。


「そんなこと言ってないよ」


「先生、なんで嘘つくんですか! 僕たち、本当にお化けが出るって学校で話したのに。先生は本当に人食いお化けを見たんですよね?」


 神田がちらりと帝王を見て、またすぐに目をそらした。


「平田くん、君はどうして、そんなことを言うのかな。僕がお化けの話なんかをしたって嘘をついて、何がしたいのかな」


 帝王は大声で叫んだ。


「僕は嘘なんかついてない!」


「いいや、君は嘘つきだ」


突然、帝王の母親が神田の頬を思いきり平手打ちした。神田はよろめいて壁に倒れかかる。


「帝王が嘘なんかつくわけないでしょう! 帝王は天使なんです! あなた、帝王に勉強を教えているのに、そんなことも分からないの?」


 母親は神田の肩や腕を叩き続ける。神田は腕で顔をかばいながら身を縮めていた。事務員が必死に母親を神田から引きはがそうとしているが、どうにも力では敵わないようだ。

 廊下には他の講師や生徒たちが出てきていたが、皆、帝王の母親の迫力を恐れて近づいてこない。


「お母さん、やめてよ! やめて!」


 帝王が必死になって母親の腕を引っぱるが、母親は帝王の声が聞こえていないかのように神田を痛めつけ続ける。


「慎一さん、助けて!」


 涙目の帝王が慎一を見上げる。事務員も、やじ馬も皆、慎一の動向を気にしている。視線を集めた慎一は溜息を吐いてから、帝王の母親を羽交い絞めにした。


「なにするのよ、放しなさい! 放しなさいよ、この人さらい!」


「神田先生、教室へ戻ってください」


 慎一が指示すると、神田は教室に駆け込んだ。帝王の母親の怒りはすでに神田に向いてはおらず、慎一のことを罵倒し続ける。


「あなたもグルなのね! 帝王のことを嘘つき呼ばわりして、帝王が嫌われるように仕向けてるんだわ。そうでしょ! なんて人でなしなの。人間のクズよ!」


 帝王は母親の前に回ってジャケットを引っぱる。


「慎一さんはそんな人じゃないよ、やめてよ、もうやめてよ」


 帝王の目から涙がこぼれた。それに気づいた母親が、やっと暴れるのをやめた。慎一が手を離して母親を解放してやると、母親は帝王に抱きつき、頬ずりした。


「ああ、帝王、かわいそうに。怖かったのね。大丈夫よ、お母さんは帝王に何があっても味方だからね。嘘つきの大人なんて、やっつけてあげるからね」


 帝王の目からますます涙があふれ、しまいには大声を上げて泣き出した。慎一は帝王に同情を覚えたが、何も言わずにそっとその場を離れた。


 塾の前の車道には子どもを迎えに来たらしい車がずらりと並んでいる。過保護なことだと慎一は独りごちて、ぐるりと周囲を見渡した。そう広くもない片道一車線しかない道路に車が何台も停まっているせいで、ちょっとした渋滞が起きていた。

 いつの間に、世の中はこんなに子どもに手をかけるようになったのだろう。慎一が子どもの頃、三十年ほど前には考えられなかった。いや、もしかしたら慎一の家が特殊だっただけで、よその家はこんなものだったのだろうか。


 慎一は塾に通ったことはない。ものごころついたときには父親の趣味である野球の練習に精を出していた。小学校、中学校、高校と、当たり前のように野球部に入り、勉強に熱を入れることなど考えたこともなかった。それでいいと父親は言い、成績表に見向きもしなかった。


 だが慎一自身は高校生にもなると、来るべき就職のときを思って危機感を抱いた。野球特待で大学に進学することも、ましてや野球で食べていくことなど考えられない腕前でしかない。

 高校二年生の夏休み前に野球から足を洗った。激高する父親に何も言い返さなかったのは、言いたいことがなかったわけではなく、ただ幼少期から叩き込まれた「親に逆らうな」という教えのためでしかなかった。

 それでも野球をやめられたのは、本当は自分はずっと野球が嫌いだったからなのだろうと、今は思う。


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