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くらう。  作者: 溝口智子
8/25

 慎一が茅島駅に着いたのは午後三時を回ろうかという頃だった。一日でもっとも気温が上がる時間帯だ。

 駅の東口から外へ出る。街路樹もなく、影のない駅前のロータリーに太陽の直射から身を隠せる逃げ場はない。汗が服に滴る。


 駅前には何年も前に廃業したらしい食堂や飲み屋が目立つ。工業団地の従業員を当て込んでいた店が、客をなくして潰れたのだろう。その駅前からまっすぐ伸びる大通りを行くと国道をまたいで港へ出る。

 駅前を左に折れると、大型トラックが二台ゆうゆうと行きあえる幅の広い道路が、北へ伸びている。その先に工業団地がある。

 翻って南へ向かうと急に道幅が狭い。ごみごみと家が密集している。もともと工業団地の社宅が多かったあたりだ。

 工業団地が傾いてからは空き家が増えていた。だが最近は、ベッドタウンとして再開発が進んでいて、新築の住居がちらほらと見える。そんな中の一つ、真新しい小じゃれたアパートの一室が江崎翔の住まいだった。


 部屋の中を見ることができれば良かったのだが、あいりは時間が取れないという。慎一はカフェで見た、あいりの怒ったような表情を思い出した。本当は江崎翔に会いたくないのではないかと思うほど、顔を顰めていた。

 本命は別の男で、翔の方が浮気だったのかもしれない。考えても仕方のないことだと慎一は思考を放り出す。刑事ではない自分には、あいりが翔をどうにかしていようがいまいが、関係ない。慎一の仕事は江崎翔を見つけるよう尽力すること。

 金の出どころは、あいりではなく塩谷なのだ。


 江崎翔のアパートは、新築だけあってドアノブにも窓の桟にもくすみひとつない。クリームイエローの外壁はまだ周囲の景色になじんでいないように見える。それぞれの部屋のドアもどれも傷ひとつなく無個性に並んでいる。

 集合ポストを覗いてみたが江崎翔の部屋番号のボックスは空だった。チラシの一枚も入っていないのは、あいりが回収したからかもしれない。


 駅からこのアパートまで、まっすぐ歩けば十分もかからない。途中には街灯もあり人通りもある。ベッドタウンなのだから、深夜でもなければ辺り一帯が無人ということはないだろう。特段の危険がある道筋のようには見えない。やはり問題は、工業団地にあるのだろうか。


 アパートに背を向けて工業団地に向かって歩く。

 江崎翔が工業団地の中を遠回りして帰ったとしたら通るであろうと思われる道順を逆にたどるのだ。手がかりが見つからなければ駅とアパートを何往復かすることになる。


 住宅街を北東に向かって抜けていく。海に向かうにつれ住宅の数は増えていく。新しいが安そうな狭小住宅に、整然と引かれた道路。いかにも人工的な臭いを感じさせる町だ。街路樹もなく家の壁と塀の隙間もひどく狭い。プラスチックのおもちゃのブロックで作り上げたかのように現実感がない。


 真夏の昼下がり、誰も道など歩かないのだろう、動くものはどこにも見えない。どこかでセミが鳴いている声だけが聞こえる。街路樹もないのにどこに潜んでいるのだろうか。あてもなく飛んできて仲間もいない人工の町に迷い込み、いつから愛を歌い続けているのだろうか。いつまでたった一匹で、永遠にも似た孤独を生きていくのだろうか。

 慎一は空腹と暑さで朦朧としながら、セミの声に悪酔いしたような嫌な気分で歩を進めた。


 工業団地の中央入り口には大きな地図が立てられている。全工場の名前と、各倉庫の持ち主会社の名前が、手書きのゴシック体の文字でペンキ書きされている。印刷ではなく手書きだというところが工業団地の歴史の古さを感じさせた。

 慎一はぼんやりと地図を見上げる。貨物運輸のトラック運転手のための地図なのだろう。高い位置に取り付けられていて、見上げなければ文字が読めない。


 工業団地の中央を東西へ片側三車線の太い道路が通っている。その道は、南にある駅の方から来た一本道がカーブしたもので、東の港へ向かう。

 駅から歩いてきて真っ直ぐこの廃墟を通り抜けるなら、この中央道を通るのが普通だろう。慎一は駅に近づくように西へ向かって歩道を歩きだした。


 二十年程前にはきれいだったのであろうアスファルトの歩道も、今では雑草が茂り、打ち捨てられた寂寥感が漂う。あちらこちらアスファルトが隆起している。雨が降ったら水たまりだらけになるだろう。


 考えてみれば、工場に沿って通っている、でこぼこした歩道を転びそうになりながら歩く必要もない。広すぎるほど広い、車が来ることがない道があるのだ。まともな人間なら歩きやすい車道を通るだろう。


 ガードレールを乗り越えて車道の真ん中に出てみる。建物の影が届かない車道はかなり暑く感じられた。歩きにくくとも歩道に戻ろうかと思ったが、江崎翔がここを通ったときには日が暮れていたはずだ。影もなにも関係ない。

 太陽にあぶられているようだと思いながらも、我慢して歩き続けた。

 あいりと会った時にアイスコーヒーを飲んで以降は、水分もとっていない。熱中症という言葉が思い浮かんだ。ここで倒れるならそれはそれでいいかもしれない。誰にも発見されず静かに死んでいけるかもしれない。


 そんなことをぼんやり考えていると、陽炎がゆらめく道の先から小さな人影が走ってくるのが見えた。小学生くらいの子どもだ。

 時折振り返りながらも全力で走ってくるその子が慎一に気づき、一瞬、ぎくりと足を止めた。だがすぐに慎一に向かって駆け寄って来る。


「助けて!」


 尋常ではない様子に慎一は道の向こうを睨みつけた。しかし、そこには陽炎が静かに立ち上っているだけで、なんの脅威もあるようには思えない。

 男の子が慎一にタックルするように抱きついてきた。結構な衝撃が腹に来る。


「助けて! お化けが出た!」


「お化け?」


 男の子を見下ろすと、涙目で青ざめている。おそらく肝試しに来て、一人勝手に何かの影をお化けと思い込み怖がっているのだ。少しでも気を張ったのが馬鹿らしくなり、慎一は眉間にしわを寄せた。


「なにもいないが」


「工場にいたんだ! 人食いお化けだよ!」


「人食いねえ……」


 人食いお化けとは、子どもが好きそうな怪談ネタだ。慎一は大きな溜め息をついた。よく見ると男の子は震えていた。よっぽどの恐怖にあったかのように見える。だが、この日照りの下では怪談に迫力は出ない。


「本当だよ、いたんだ! 嘘じゃないんだって! 学校でもみんな知ってる!」


「その人食いお化けっていうのはどこに出たんだ?」


「工場だよ! お化け工場! おじさん、すぐ逃げなきゃ、お化けがついてくるよ!」


 男の子は慎一にしがみついたまま右手でどんどんと慎一の腹を叩いた。子どもの力にしては強いこぶしに、慎一は少年が抱いている恐怖の強さを感じた。このまま放っておくわけにもいかないようだ。


「わかった、わかった。とにかく人がいるところまで行こう」


 男の子の肩に手をかけて、来た道を戻る。男の子は駆け出しそうな様子も見せたが、大人の慎一と一緒にいる安心感のためか、徐々に落ち着いて、歩き方もしっかりしてきた。それでも何度も後ろを振り返って見ている。


 ポロシャツにハーフパンツという小奇麗な格好だ。年齢は十歳前後だろうか。背中に塾の名前が書かれた黄色いバッグを背負っている。塾をさぼって肝試しに来たのだろう。だが、廃工場に入った程度でこんなに脅えるような子どもが、一人で進んでやってきたとも思えない。


「友達に命令されたのか?」


「え?」


「肝試しをして来いって」


 立ち止まった少年の顔が引きつった。


「……なんでわかったの?」


 すっかり慎一のことを怪しんでしまった。お化けの仲間とでも思ったのだろうか。叫ばれても迷惑だ、慎一は優し気な口調で話すことにした。


「おじさんは探偵なんだ」


「探偵?」


「そう。だから推理は得意なんだ」



 少年はポカンと口を開いた。



「探偵って生きてるんだ……」


「生きてる?」


「本の中にしかいないんだと思ってた。明智小五郎みたいに」


 慎一は、探偵の例として少年があげた名前が、アニメや漫画の主人公ではなく古い小説の中の人物だったことに、好感をもった。


「ねえ、本物の探偵ならお化けもやっつけられるよね」


「お化けをやっつけるのは霊能者の仕事じゃないのか」


「探偵なんだから銃でやっつけられるでしょ」


「警察官じゃないんだ。探偵が銃なんか持っていたら、逮捕される」


 少年はまた勢いよく背後を振り返る。


「やばいよ、じゃあ逃げなきゃ。人食いお化けは大人でも負けちゃうくらい力が強いんだ。走るのも早いし、すぐに追いつかれちゃうよ」


「お化けなら明るいうちは出ないんじゃないか」


「でも、さっき工場で……」


「お化け工場はどこにあるんだ?」


 少年は振り返って、来た道を指さす。


「この先、大きい道とぶつかるんだ。その角だよ。浦本工業って看板が出てるんだ」


 少年は背後の道と慎一の顔を見比べる。明るすぎる日差しの下、やっと恐怖心がやわらいできたようだ。視線が真っ直ぐに定まった。


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