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「じゃあ、がんばって来いよな、帝王様」
琥太郎に背中を強く押されて帝王はよろけた。塾のバッグを背負っているから痛くはなかったが、危うくこけるところだった。
振り返って琥太郎たちを睨むようにしても、三人ともニヤニヤするばかりで心配してくれる子はいない。帝王を置いてさっさと歩きだす。帝王は慌てて二、三歩後を追った。
「どこに行くんだよ」
帝王が尋ねると、振り返って後ろ向きに歩きながら琥太郎が言う。
「どこって、塾だよ。もう行かないと遅刻だもん」
「僕も行くよ」
「ばーか、罰ゲームなんだからな。お前は塾じゃなくて、お化け工場に行け」
「でも、塾を休んだら怒られるよ」
鼻声で泣きそうになっている帝王を見るために海斗も遼も振り返った。遼がまたニヤニヤと人の悪い笑いを浮かべる。
「怒られない方法を教えてやろうか」
「なに?」
「走ってお化け工場に行って名札を取って、走って塾に行くんだよ。簡単だろ」
三人がまるで合唱でもしているかのように声を合わせて笑う。帝王もさすがに腹が立って、お化け工場に向かって走り出した。
工業団地跡には子どもたちの間で有名なお化け工場がある。小学校や塾の教師からは絶対に近づくなと言われているが、子どもたちは聞きはしない。恰好の肝試しのスポットになっている。
教師の言うことを聞かないのは、大抵、小学校高学年の男子児童達だ。まだ三年生の帝王達のクラスメイトは、お化けの噂を聞いて尻込みする子どもも多いのだが、琥太郎には容赦などない。不公平なルールのカードゲームで帝王を負かした。
最初から帝王をお化け工場に行かせたかったのだとわかってはいたが、体が大きな琥太郎に面と向かってずるだと言い切ることは出来なかった。
お化け工場は工業団地の中心部分、東西南北に延びる広い道が交わる角に建っている。
日本中が不景気になって工業団地から撤退する会社がぞろぞろと続いたのだが、最初に見捨てられたのがお化け工場だった。工業団地の工場の中では珍しく、立派な広い庭を設けてあった。
稼働していた時には従業員が庭でキャッチボールなどしている姿もあった。桜の木も何本も植えられて花見シーズンには賑わっていた。
だが、そんなことは帝王が産まれるよりもずっと前のことで、帝王が物心ついたころにはこの場所はすでにお化け屋敷のような様相だった。
刈り整えられることがなくなった庭には丈高い雑草が一面に生えている。アルミ素材の防音材で覆われた工場の壁は崩れることはないものの、あちらこちらに歪みが出て、黒ずんでいる。
琥太郎たちに言われた通り、帝王は走ってお化け工場にやって来た。息が整わないまま工場の門の正面に立つ。鉄柵の門は固く閉じられて太いチェーンでぐるぐる巻きにされている。帝王は鉄柵に手をかけて前後に揺すってみたが、チェーンがガチャガチャと重々しい音を立てるだけだ。
仕方なく、工場の周りをぐるりと囲んでいる、背の高いメッシュ型の緑色のフェンスをよじ上る。
自分の身長の二倍近くあるフェンスの支柱はしっかりと固定してあるが、菱形に組まれた網の部分は緩くなっていて、たわんで上りにくい。手足を動かすたびにゆらゆらと不安定に揺れる。
落ちたらどうしようと怖くなった帝王は血の気が引くように感じた。それでもなんとか、上る手は止めない。
やっと最上部まで上り、フェンスをまたいで一息ついた。だが下を見ると地面がずいぶん遠く感じられて高さに怯んで手が震えた。もうどうやっても動けそうにない。
このまま干からびて死ぬんじゃないかと思う。こんな誰も通らないところで誰にも見つからず夏の日にさらされてミイラになってしまうのだ。涙が溢れてきた。鼻水も垂れてきて息が苦しい。だが声をあげることだけは堪えた。お化けに見つかってしまうかもしれない。
はっとした。いつまでもここにいて、お化けに捕まったらどうしよう。今すぐ逃げなくては。だが工場内にある工員の名札を取っていかないと琥太郎たちから酷い目にあわされる。しかし、勇気は尽きた。手足がフェンスに張り付いてしまったかのように動かない。
ふと、数メートル先に桜の大木が枝を伸ばしていることに気がついた。フェンスに覆いかぶさっている枝もしっかりと太い。帝王が乗っても折れたりはしないだろう。
あの桜の木ならば、なんとか下りられるような気がした。木登りはキャンプの時に父に教わった、出来るはずだ。
帝王はフェンスの上部をずるずると這うようにして桜の木に近づき、太い枝に抱きついた。帝王がよじ登っても枝はビクともしない。
安定した足場を得て帝王の気持ちが多少だが上向いた。枝の上を這いずって移動し、幹にとりつく。あとは足が届く範囲にある枝をたどって下りればいい。
この桜は枝ぶりがちょうど良く、足場に不自由しない。楽々と二本の枝を下りて残り半分というところで、目の前に毛虫を見つけた。息を飲んで枝から身を離す。よく見ると足をかけている枝の股には毛虫がうじゃうじゃと蠢いている。
「ひっ」
小さな叫びをあげ、思わず手を離してしまった。木の下に落ちたが、生い茂った雑草のおかげで怪我はなく、すぐに立ち上がることが出来た。服をはたいて毛虫がついていないか探す。見ると、地面にも毛虫が何匹も落ちていた。
落ちた時にぶつけた尻と左肩が痛むような気もしたが、それどころではなかった。毛虫から逃げることだけしか考えられず、胸近くまである雑草をかき分けてコンクリートが敷いてある所まで走る。
それでも気持ちが悪くて桜の並木から離れようと工場の壁に沿って歩き出した。
壁には赤いスプレーで、読み方のわからない、へたくそな文字らしきものが落書きしてある。お化けだけじゃなくて素行の悪い人達もいるのかもしれないと帝王は新たな脅威を感じた。だがもう、こちら側に来てしまったのだ。早く名札を取って帰ろう。
工場の入り口まで来ると、シャッターが下から一メートルほど開いていた。しゃがみこんで中を覗いてみる。真っ暗な中にシャッターの隙間から入る明かりが一筋に床を照らして、うっすらと様子が見えた。しゃがんだまま、そっとシャッターをくぐる。
天井は体育館ほどもあり、広さはその二倍はありそうだ。ずっと陽に当たっていないせいか、工場の中の空気はひんやりとしていた。大きな機械がいくつも並んでいる。
奥に行くにしたがって暗くなり、機械がいくつあるのかはわからない。置いてけぼりにされた無数の機械達が今にも動き出して、帝王を圧し潰しに来るのではないかと思ってしまう。
目をそらして逆側を見るとプレハブの倉庫のようなものが立っていた。工場の屋根の下に、さらに屋根のついた建物がある不思議さに帝王は好奇心を掻きたてられて奥に向かって歩き出した。
中を覗くと、プレハブの壁に「安全第一」と大きく書かれたプラスチックの板が打ち付けてあるのが、わずかな明かりで見える。その隣に工員の白い名札がずらりと並んでいる。
帝王が一枚の札を握った時、機械が並んでいる暗闇の奥で、湿った何かを引きずるような物音がした。
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