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くらう。  作者: 溝口智子
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   ***


 ぴくりと瞼が痙攣した。

 朦朧とした意識のまま、うっすらと目を開く。どうやら眠っていたらしい。

 体中があちこち痛い。


 翔は痛む腕を動かそうとしたが、体の横に垂らされた腕は胴体にきつく押し付けられていた。裸足の足を伸ばして座った状態で、上半身をぐるぐる巻きに縛られているようだった。体を動かそうとしてもビクともしない。


 ああ、またお母さんに縛られたのか。またこれから殴られるのか。

ぼんやりそう考えていたが、頭がはっきりしてくるに従って自分がもう子どもではないことを思い出した。


 首をめぐらせてあたりを見まわしたが、暗くて何も見えない。ただ、かなり広い部屋であることは空気の感じでわかった。


 ここはいったいどこだろう、誰が自分を縛ったんだろう。


 考えてみても体中が痛んでろくに頭が回らない。助けを呼ぼうか、それとも声を出したら危険だろうか。どちらとも判断がつかなかった。


 とにかくなにか情報を得なければと耳を澄ますと、部屋の隅の方から何かを舐めているようなぺちゃぺちゃという音が聞こえた。

 犬が水を飲んでいる音に似ている。ぺちゃぺちゃ、ぺちゃぺちゃと響く音。


 ぞわっと背筋に寒気を感じた。


 犬じゃない。


 何かもっと大きな生き物だ、そんな気配がする。


 翔は目をすがめて、暗闇の先を見つめた。真の闇ではない。暗い中に黒くわだかまったものがあるようだ。何かが床に寝そべっているように見える。

 その上に、別のなにかが屈みこんでいる。大型犬より大きいようだ。


 水音がやんだ。屈みこんでいたものが、むくりと身を起こす。間違いなく生き物だ。

 こちらを見ている。


 翔の鼓動は強く早く打ち続ける。呼吸が荒くなる。こっちへ来るな、どこかへ消えてくれ。

 頭の中で繰り返し祈る。

 ぐらぐらとめまいがする。

 側頭部が強く痛む。

 暗闇の向こうの影はじっとして動かない。


 ずきずきとした痛みは次第に強くなっているような気がする。なんの音も聞こえなくなった空間に、自分の鼓動だけが大きく聞こえる。鼓動に合わせて頭が痛む。吐き気がする。


 影がどう動くか予測がつかず、目をつぶることができない。

呼吸が荒く、ぜえぜえと嫌な音を立てだした。

 鼓動も呼吸の音も、暗闇に潜んでいるなにかに丸聞こえなのではないだろうか。この音を聞きつけて襲ってきはしないか。


 落ち着け、落ち着け、落ち着け。


 言い聞かせても恐怖はおさまらず、叫びだしそうになった時、その影はそっと動きだした。部屋の奥へと向かっていく。


 ギイ、と、肌が粟立つような不快な金属音がして光が差しこんだ。眩しさに、両目をきつくつぶる。なにが起きたかわからない。


 しばらくして、そっと目を開けると、周囲の様子を見ることができるくらいの仄かな明かりが、部屋の隅の方から差してきていることがわかった。先ほどの金属音は扉が開いた時の軋みだったようだ。


 見渡すと、どうやらここは鉄骨組みの建物で、工場かなにかの一室のようだった。空中を舞う埃が明かりに照らされて、きらきらと光っている。窓はない。

 明かりは扉の隙間から入って来るばかりだ。室内は一面に薄い灰色のリノリウムの床材が敷き詰められていたが、埃が積もり薄汚れて、建物の老化がすすんでいることがわかる。


 自分が縛られているのは室内に立っている鉄柱のうちの一本のようだ。黄色と黒のトラロープでぐるぐる巻きにされている。鉄柱はもとは大きな機械を支えていた脚だったのではないかと思われた。


 ハッとして首をめぐらせ、闇の中で動いていたなにものかを探す。扉が開いたということは、あれは扉から出ていったのだろうか。なにかが入ってきた感じはしない。


 闇の中で生き物が動いていたあたりに、寝そべっていると思った、なにか黒ずんだものが落ちているのが見えた。湿った新聞紙やぼろ布のような雰囲気がある。なんなのかわからないのに、それを見ているとなぜか緊張した。

 鼓動が再び、どくどくと激しくなる。


 新聞紙? ぼろ布? そんなものではない。

 人だ。

 人が倒れているのだ。

 ぐにゃりとして力が全く入っていない白い背中と、長めの髪の毛が見える。女性のようだ。それはすでに事切れた人間にしかありえない姿勢をとっていた。


 翔に見えているのは、どうやら女性のものらしい後頭部と背中。服は着ていない、まったくの裸だ。首は九十度以上に曲がり、骨が折れていることがはっきりとわかる。

 身体の下敷きになっている腕はおかしな方向に曲がっている。


 翔は母親に蹴られて骨が折れた時の痛みを思い出した。

 するとなぜか胸の底から懐かしさが湧いてきた。目の前には死体。自分は理由もわからず縛られている。

 暗闇にひそんでいた、なんなのかもわからない生き物。怖くて叫びだしそうだ。歯の根があわずカチカチと音を立てている。

 それなのに、ここは自分の居場所の一部なのだと思った。慣れ親しんだ暴力と放置と空虚に満たされた場所だと、はっきりと感じた。

 幼い頃の思い出に彩られた、自分が属する世界なのだった。


   ***



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