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くらう。  作者: 溝口智子
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「ただいま」


 玄関から奥へ、父親の部屋に向かって声をかける。明るいうちに帰ってきたので廊下の電気をつける必要もない。


 廊下を奥に進むごとに室温が下がり、外の熱気をまとっている慎一の肌を冷やす。父親の部屋の前に来た頃には、暑さとはまったく無縁の状態になっていた。ここだけ冬になったかと思うほどに寒い。


 襖を開けて、もう一度「ただいま」と声をかける。部屋の大部分を介護用ベッドが占めている。その側に置いている折り畳みイスに腰を据えて慎一は話しだした。


「ようやくひと仕事終わったよ。思ってたより時間がかかったし、動き回って大変だった。けど、塩谷からは十分な謝礼をもらったから、トントンかな」


 ほんの少しの時間で慎一の汗は引き、寒さで肌が泡立つようになっている。


「結局、俺は何をしたんだろうな。俺が見つけなければ、今ごろ江崎翔は腹いっぱい、女の肉を食えていたかもしれないのに」


 慎一は膝に両手をついてベッドを覗きこんだ。


「父さんも腹が減っただろう」


 冷房がゴウゴウと強い風をベッドに直射している。ベッドの金属製の手すりは、触ると痛いほどに冷えている。


「俺もそろそろ腹が減ったよ。何か食おうか。ああ、そうだ。父さんはもう食事はいらないんだったな」


 慎一はわざとわかりきったことを口にしてみた。なぜか今日はもう一度、しっかり確認しておきたくなったのだ。


「父さんは、死んだんだもんな」


 ベッドの上の父親の死体に向かって慎一は微笑みかける。


「何も食べられずに死ぬってどんな気持ちだった? 動けなくなって、腹が減って、喉が渇いて、どう感じた? ねえ、父さん」


 慎一の笑顔がスッと消えた。


「お腹、すいてるの?」


 そう最後に聞いたのは、もう三年も前のことだ。父は涙を流しながら何度も頷いた。慎一はその涙を冷ややかに見つめて、だまって襖を閉めた。

 三年の時間をかけてミイラのようになった父の遺体をそのまま寝かせている理由が、慎一本人にもわからない。

 父のわずかな年金だけではまともに食べていけないのに、働きに出ない理由もなぜなのかわからない。

 父を憎んでいたのか、愛していたのか、許せないのか、忘れられないのか。

 なにもわからないまま、今、ここにいる。         


               了


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