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くらう。  作者: 溝口智子
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 ガランという低いドアベルの音を鳴らして店に入る。塩谷はまだ来ていない。ドアが見える場所に座ってメニューの中で一番安いアイスコーヒーを頼む。

 慎一は抱えてきた江崎翔に関する資料をテーブルに出し、改めて目を通す。何度も見飽きるぐらい見続けて、ほとんどの内容が頭に入っている。だが、それでも何度も読み返してしまう。


 最初はただの家出だと思っていた。どこかで死んでいたとしても、こんな結果が出てくるとは思いもしなかった。翔は五日間、死体と共に暮らしたのだ。食うものは人の肉しかない極限の状態で。

 発見した時、翔には縛られた痕だけは残っていたが、縛っていたトラロープからは、すでに解放されていた。逃げようと思えばどこへでも行けた。

 だが、そうしなかったのはなぜなのだろう。人の肉を食ったことで精神の均衡を崩したからなのか、それとも、死体と共にいる空間を心地よいと感じていたのか、それとも……。


「おう。待たせてすまん」


 塩谷が落ち着いた声で言いながら、慎一の向かいに座った。


「別にいいよ。時間だけは売るほどあるんだからな」


 慎一にとっては何気なく言った言葉だったが、塩谷は深く頭を下げた。


「面倒なことに巻き込んじまってすまない!」


 慎一は塩谷の顔を覗き込むように姿勢を低くして手を振ってみせる。


「いや、気にしないでくれ。かえって俺が引き受けて良かったよ。探偵事務所なんかに頼んでたら、一人の探偵の将来を潰してたかもしれない。死体なんか、普通の人間は見ない方が幸せなんだ」


 塩谷はそっと顔を上げた。


「死体の状態はかなり酷かったんだってな」


 ウエイトレスが注文を取りに来て、会話は一時とぎれた。アイスコーヒーの注文を書き留めたウエイトレスが行ってしまってから、塩谷が思い出したように尋ねた。


「飯は食ったのか?」


「ああ、家で済ませてきた」


「そうか」


 慎一の雰囲気から栄養状態が少しはよくなったと判断したのか、塩谷は安心したように少し笑った。


「死体を見ても飯が食えるっていうのは、いいことなんだろうが、なんだか皮肉なもんだよな」


「昔取った杵柄が重すぎるのかもしれない。初動の刑事に冷静すぎると言われたよ。そのせいで怪しまれた」


「本当に申し訳ない」


 また頭を下げる塩谷に、慎一はまとめてきた資料を差しだした。


「江崎翔の捜索のあらましだ。それと、こっちは借りていた資料。あいりさんに返しておいてくれ」


 捜査資料として渡されていた江崎翔の個人情報も一緒に渡す。塩谷はやって来たアイスコーヒーを一口すすってから、慎一のレポートをぱらぱらとめくった。


「捜索してたのは三日だけじゃなかったのか?」


「三日だけだ。その後のは興味本位で聞いてまわったことだよ。おまけに書いておいた」


 塩谷がまた頭を下げそうになったのを慎一は手で制す。


「とりあえず読んでくれ」


 塩谷は頷いて、じっくりとレポートを読み込んでいく。



 江崎翔を発見した慎一は駅前まで走り、公衆電話から通報した。携帯電話もスマートフォンも持っていない慎一を、駆け付けた警察官はまず怪しんだ。

 身辺のことを聴取されながら、世間と関わらずに生きている人間というのは、世間から監視されることになる人間でもあるのだなと慎一はぼんやりと考えていた。


 警察署に連行されて事情を話している間に、塩谷に連絡をとってもらい、身分は証明出来た。それでも数日は、女性二人の殺害と江崎翔監禁の犯人として疑われていた。

 何度も警察署に呼び出され、長い時間、同じ話を繰り返し続けた。事情聴取というものは、話を聞く側としては慣れていたが、聞かれるのは初めての経験だ。正直なところ、かなり疲れた。冤罪であるにもかかわらず自白してしまう人がいるのもわかる気がした。


 話を聞かれる数日のうちに、わかったこともいくつかある。江崎翔の両親が一度も翔の話をしないこと、伊藤理香の死体には目玉がなかったこと、身元不明の女は監禁されていただけでなく性的暴行を受けた痕もあったということ。

 慎一は浦本の家の糞尿まみれの部屋のことを思い出し、吐き気をもよおした。


 警察での事情聴取中に情報を仕入れられたのは、慎一が元警察官だったという事実が大きく働いていたようだ。会話をしていても警察官の隠語がすんなりと通じる。少しばかりの身内感覚が湧いたとしても担当刑事を責められないのかもしれない。


 警察からのしつこい聞き取りが止んでから、慎一は江崎翔と浦本の娘のことを調べ始めた。浦本の家と江崎翔の生家はごく近い。どこかに浦本の娘と江崎翔の接点があったのではないか。はっきりさせたくて、過去を知るものを探してみたのだ。

 江崎翔の友人や元担任などに当たってみたが、交友関係や近所付き合いがどうだったかなどを覚えている者はいなかった。


 浦本の家の方は近所の人間が、誰も彼も話してくれた。先祖代々住んでいた古い家を改築したのは浦本宗吾の父、浦本弥助で、その当時はもちろんきれいな家だったらしい。

 浦本宗吾が結婚したこと、身重の嫁が逃げ出して帰ってこなかったことを近所の古い住人は皆知っていた。その後、弥助が亡くなり、工場が潰れ、浦本宗吾はゴミを積み上げ始めた。


 もともと人嫌いな質だった浦本は、徹底的に家に人が近づくことを避けるようになった。ゴミで家を固めているのも、バリケードなのかもしれなかった。

 人には言えないことを隠すためのバリケードの中に籠城している浦本宗吾は、化け物と呼びながらも生肉を与え続けた娘を亡くしてほっとしているだろうか

 。それともストレスと性欲を発散するために暴力をふるう対象がなくなってイライラしているだろうか。

 どちらにしても虫唾が走る話だと、慎一は浦本宗吾のことを考えるのをやめた。


 その代わり、浦本宗吾が三歳だった娘に逃げられ捕まえたと言った公園に足を運んだ。江崎翔が刺されて倒れていた公園。

 ここで翔は一人の女の子と出会い、飴玉を与えた。女の子はそのことを忘れなかったのではないだろうか。自分に優しくしてくれた翔のことを大人になるまで覚えていたのではないだろうか。


 暴力から逃げ出し、工業団地に潜み、食べるために伊藤理香を襲い、そして江崎翔を見つけた。懐かしい優しい男の子を思い出した女は、男の子に何をしたかったのだろうか。


 女は母からその血と肉を分け与えられて、母が死んでしまった孤独な時を生き延びたのだ。

 女にとって人の肉とはなんだったのだろう。それはただの生命維持のための栄養摂取だったのだろうか。



 レポートを読み終えた塩谷が目頭を押さえて深い溜め息を吐いた。


 「深田。なんでここまで、身元も知れない死んだ女のことにこだわるんだ」


 塩谷にとっては浦本の娘はまったくの謎の人物でしかない。慎一も娘がなにものか教えるつもりはない。

 だが、出来ることなら一人の孤独な女が何を思っていたのか、共に考えて欲しかった。塩谷は慎一の沈黙を、もう話したくないというサインと捉えたようだ。

 レポートをビジネスバッグにしまってアイスコーヒーを飲み干した。慎一はもう少し引き留めようと話を振る。


「江崎翔はどうしてるんだ」


「相変わらず、食いも眠りも話しもしないらしい。いや、そうだ」


 塩谷は言葉を切ると、腕組みして難しい顔で何か考え始めた。慎一はその思考を邪魔しないように黙って待った。


「お腹、すいてるの?」


「え?」


「聞いてみたんだよ、江崎翔に。そうしたら、やつは首を横に振ったんだ。何も食べてなくてガリガリに痩せてるっていうのに」


 そうだ。あの時、なぜ江崎翔は慎一にそんなことを尋ねたのだろうか。もし慎一が空腹だと答えたら、どうしたのだろう。伊藤理香の肉を食わせただろうか。浦本の娘の肉を食わせただろうか。それとも、翔自身の肉を食えと身を差しだしただろうか。伊藤理香を女が食い、女を江崎翔が食い、江崎翔を自分が食う。その食物連鎖の行きつく先はどこだろう。


 ふっと笑って、馬鹿な考えを首を振って払いのける。どこに自分の肉を他人に食わせたがる人間がいるものか。

 それではまるで仏を救うために火に身を投じたウサギの説話だ。人間は、ウサギじゃない。この世には神も仏も存在しない。


 だが、何も食べなくなった翔は、この世にいるはずのない仏に近づいているのかもしれない。慎一はなぜか無性に悲しくなった。


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