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くらう。  作者: 溝口智子
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20


   ***


 家にいると母親に叩かれるので、翔は小学校から帰ってくると、出来るだけ長い時間を外で過ごした。


 その日も真夏の陽光にさらされながら、公園に向かった。公園には誰もいなかった。ギラつく太陽に焼かれながら遊ぶような子どもは翔以外に一人もいない。翔も遊ぶつもりなどなく、遊具に背を向けて木の陰に入ってうずくまった。

 汗が止めどなく、たらたらと流れる。すぐに喉が渇いて、水を飲もうとトイレの手洗い場に向かった。


 日陰になったトイレの裏で、何かが動いていた。猫かと思って覗いてみると、裸の女の子がしゃがみこんでいる。


 驚いて動きが止まってしまい、しばらく女の子と見つめあった。女の子はガリガリに痩せていて、髪はざんばらで伸び放題だった。じっと翔を見つめる目元には大きな傷があった。


 左のこめかみから目の際まで、ざっくりと切られた跡のようだった。母親に包丁で切られた自分の腹にある傷跡と似ている。翔は裸の女の子に親しみを覚えた。


「何してるの?」


 聞いてみたが、女の子は不思議そうに翔を見つめるだけだ。翔は女の子に近づいて、すぐ目の前にしゃがみ込んだ。


「なんで裸なの?」


 これにも答えはない。女の子はなんだか臭かった。お漏らしをしたのかもしれない。それで罰として裸にされて、家から追い出されたのかもしれない。

 女の子は翔の方に手を伸ばした。何をするのかと見ていると、翔の耳を握って思いきり引っぱった。


「ぎゃあ!」


 翔は叫んで女の子を突き飛ばした。耳が千切れるかと思うほどの痛みに涙が出てきた。女の子は地面に倒れ伏したまま動かない。


「あんたが悪いんだよ。悪いことしたから、こうされるんだ」


 いつも母から言われている言葉を口にしたが、なにか違和感があった。女の子はぽかんと口を開けて翔を見つめている。きっと、自分が何をしたか、何をされたか理解していないのだ。

 まだ小さな女の子だ。何も知らないに違いない。


 そう思うと自分が悪いことをしたという気持ちが、ふつふつと湧いてきた。翔はいつも自分が言っている、使い慣れた言葉を女の子にかけた。


「ごめんなさい。僕は悪い子です」


 女の子はゆっくりと体を起こすと、また、じっと翔を見つめた。


「ごめんなさい、僕は悪い子です。ごめんなさい、僕は悪い子です。ごめんなさい、僕は悪い子です。ごめんなさい、僕は悪い子です……」


 何度も同じことを繰り返しながら、翔は背筋が寒くなるのを感じた。本当に自分は悪いことをしてしまった。またお母さんに殴られる。小さな女の子を突き飛ばしたなんて知られたら、どうなってしまうだろう。


 ガクガクと足が震えた。痛いのは怖い。そう思いながら女の子に目をやって、怪我をさせたかもしれないとハッとした。


「どうしよう、どこか怪我した? 痛くない?」


 女の子は、やはり反応することなく、ぼんやりしている。翔はどうしたらいいかわからなくなって、ズボンのポケットから飴玉を取り出した。

 棒付きのその飴玉は、時折、気が向いた時に母親が買ってくれるもので、翔の宝物だった。


 その大事な宝物を、翔は女の子に差し出した。女の子は受け取ることもしない。女の子はとても幼い。きっと飴玉を食べたことがないのだ。

 翔は飴玉の包装フィルムを剥いて女の子の唇に押し付けてみた。女の子は口を開いて飴玉にしゃぶりついた。

 目が大きく見開かれて、女の子は棒ごと飲みこんでしまいそうな勢いで飴をガリガリ噛んでしまった。


「お腹、すいてるの?」


 翔が尋ねても返事はなかったが、女の子が棒を齧りながら物欲しそうに見つめるので、そうなのだということがわかった。

 翔はもう一つ、最後の一個の宝物を取り出した。フィルムを剥く手が度々止まる。

 あまりにも、惜しかった。女の子が早くくれと伸ばした手から飴玉を遠ざけ、日にかざした。真っ赤な飴玉は、宝石のようにきらめいた。


「きれいだね」


 女の子が耳を澄ましているような気がした。


「きれいだね」


 女の子の目を見て、もう一度言う。女の子の目もきらきらと輝いていた。骨と皮ばかりに見える細い体で、目だけがぎょろりと大きい。きっと、とてもお腹が空いているはずだ。

 この子が飢え死にしないように助けてあげるんだ。とても良いことをしているんだ。そう自分に何度も言い聞かせて、やっと飴玉を女の子に差し出すことが出来た。


 女の子は飴玉を受けとると、またあっという間に噛み砕き、飲み込んでしまった。手にした棒をいつまでも噛み続ける。


「まだ、お腹すいてるの?」


 女の子は不思議そうに翔を見上げて掠れた声で、翔の言葉をそのまま真似た。


「まだ、お腹すいてるの」


 かわいそうだと思ったが、もう食べ物は持っていない。夕方になれば翔は夕飯がもらえる。だが、それを女の子のために持ち出すなどということを、母親が許してくれるはずがなかった。


 かわいそうな女の子。まるで絵本で読んだ捨てられた子犬のようだ。メロという名のその子犬は、とうとう家に帰ることは出来なかった。絵本を読んだ時には恐怖にも似た同情が湧いて震えが止まらなかった。


「ねえ、メロ。おうちはどこ? 僕、一緒に行ってあげるよ。謝ったらお母さんも許してくれるよ」


 翔が絵本の中の子犬の名前で呼ぶと、女の子はまた不思議そうに翔を見上げた。翔の言葉をまったく理解していないようだ。


 昔、幼稚園の先生がしてくれたように頭を撫でてやる。メロは、うっとりと目を細めて口を横に大きく広げて、にいっと笑った。

 それに応えて翔が笑いかけてやったことが嬉しかったのか、ぶつぶつと歌いだした。どうやら子守歌のようだが翔の知らない歌だった。発音がしっかりしていないせいで、メロの口から出てきた言葉は聞き取れない。


 だが、旋律はしっかりしていて、初めて聞くのにいつかどこかで聞いたことがあるような気にさせられた。

 自分は母親に子守歌を歌ってもらったことがない。だが、メロは歌ってもらったことがあるのだ。ガリガリに痩せていても、顔に傷をつけられても、子守歌を歌ってもらえるなら、その方がいいと思う。

 翔は出来ることならメロに成り代わりたいとさえ思った。


 だが、メロが咥えて離さない飴玉の棒を見ると、やはり自分の母親のことが恋しくもなった。きっと、メロも同じだろう。


「メロ、おまわりさんのところに行こう。迷子になったら、おまわりさんのところに行くんだって幼稚園で習ったんだ」


 そっと手を伸ばして、メロの手を握る。立たせようとしても、メロは動かない。

 どうしようかと思っていると乱暴な足音が聞こえて、知らないおじさんが翔とメロがいる物陰を覗きこんだ。


「こんなところに隠れてやがったか!」


 おじさんは叫ぶとメロの腕を引っぱって、思い切り頬をぶった。翔は恐ろしさに飛び上がり、じりじりと後ずさる。

 おじさんはメロが咥えている飴玉の棒を見て、翔を見た。翔はおじさんのきつい視線に脅えながらも、震える声で話しかけた。


「誰ですか? 僕たち、おまわりさんのところに行くんです。迷子だから、おまわりさんに……」


 翔が喋っていると、おじさんはポケットからナイフを取り出した。何も言わずに翔の腹にナイフを突き刺し引き抜く。

 脱いだ上着で血に塗れたナイフと一緒にメロをぐるぐる巻きにして、裸なのが見えないように隠して去って行く。


 翔はなにが起きたのかわからないまま、力が抜けて地面に倒れ込んだ。少し先の地面にメロが咥えていた飴玉の棒が落ちているのを見たところで、意識が途切れた。


 気づいたのは病院のベッドの上だった。警察官から事情を聞かれたのだが、翔はその時のことを何も覚えていなかった。

 メロのことも、おじさんのことも、飴玉のことも、何もかも。

 事件は未解決のまま、翔は大人になった。


   ***


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