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くらう。  作者: 溝口智子
2/25

 同期の塩谷から連絡があった。最後に顔を見てから半年くらいになるだろうか。

 深田慎一はカレンダーを見てみたが、それは先月のページのまま、めくることすら忘れさっていた。まして、数カ月前のことなど記憶のかなたに消えている。仕事をしなくなってから曜日感覚もわからなくなっていた。


 いつもは夜中に起きて昼過ぎに眠る生活だが、今日は久々に午前中にベッドから抜け出した。玄関先から廊下奥の父の部屋に「行ってくるよ」と声をかけて家を出る。

 クーラーをきつく利かせている家から一歩出ると、むわっと熱気が襲いかかってきた。ポロシャツから出た腕に一気に汗が吹き出る。

 通勤しなくなってから日ごとに色素が抜けて生白くなった皮膚が、あまりにも強い日差しにあぶられ一瞬で焦げそうだ。


 数日ぶりの外出に足元がふらつく。四十代にもなると肉体の衰えはあっという間だ。こんな毎日を送り続け、歩くことさえしないでいては、すぐに寝たきりになるのではないだろうか。


 ふと、高校二年の夏休みを思い出す。野球をやめて家に閉じこもっていた数十日。野球好きの父から、なぜ部活をやめたのかと詰問され、嫌というほど殴られた。

 食事もまともにとらせてもらえなかった。その時は、筋肉を収斂させることもなく過ごしたが、ふらつくことなどありはしなかった。年を重ねるとはこういうことかと、溜め息を吐く。


 塩谷から指定されたのは駅前の喫茶店だった。もう五十年はここにあるのではなかったか。慎一が物心ついたころ、四十年前にはすでにあった。

 ガランという低いドアベルの音を鳴らして店に入る。見渡してみたが、塩谷はまだ来ていなかった。

 ドアが見える場所に座って一番安いブレンドコーヒーを頼む。すきっ腹にコーヒーが沁みた。


「おう、待たせたな。すまん」


 ドアベルを鳴らしてやってきた塩谷が真向かいに座る。相変わらずよく日焼けして、柔道家のような体格も変わっていない。

 一般企業にでも勤めているかのようなビジネスバッグを抱えているため、見た目には警察官だと思われにくいだろう。


 そのバッグを隣の椅子に置いた塩谷は、慎一と同じくブレンドコーヒーを頼んだ。店員が去ると、塩谷は慎一の方に目を向け、その青白さをまじまじと観察した。


「深田、なんか食うか」


「いや、俺は……」


 塩谷はメニューをちらりと見て、店員に向かって再度、片手をあげた。


「朝飯食ってないんだ。付き合ってくれ」


 そう言って塩谷はミックスサンドイッチを二つ頼んだ。金欠で、ろくに食べることができていなかった慎一は、メニューの写真を見てごくりと唾を飲む。

 しばらく二人はてんでに好きな方を向いて黙っていた。慎一は窓から外を見る。スモークガラス越しの空はセピア色に見えて、古巣に帰ったように安心できた。


 この喫茶店は慎一も塩谷も学生時代から通った思い出の場所だ。と言っても学校帰りにいつまでもダラダラと過ごしていただけのこと。勉強も部活動も恋愛も何もかもから遠く離れた輩がたむろする、曇り空のような場所だった。ピカピカした青春の思い出などとは程遠い。


 やって来た卵とハムが挟まれたサンドイッチに塩谷が手を伸ばし、慎一の方を見もせずに食べ始めた。慎一は、見ないようにしてくれた気遣いがありがたく、勢いよくサンドイッチにかぶりついた。もう丸二日なにも食べていない。

 腹が減ったというよりも身体の中に真っ黒な穴があいたような虚無感を感じていた。そこに食物が入っていき、少しずつ人らしさを取り戻していく気がする。


 無言でがつがつと食物に食らいつく慎一を見ないようにするためか、塩谷は窓の外を見たまま煙草に火をつけた。


「親父さんの調子はどうだ」


 問われても慎一は、しばらく返事をしなかった。食物をすべて飲みこんで、冷めたコーヒーを一気に飲み干してから口を開く。


「どうにも、いつも通りだよ」


「悪くなってないなら良かったじゃねえか」


「まあ……。徘徊しなくなっただけでもありがたい」


 塩谷は残り少なくなった煙草を灰皿に押し付けて、慎一の方に顔を向けた。


「悪いな、退職しなけりゃならんほど介護で忙しいのに」


「忙しくなんかないよ。毎日あくびして過ごしてる」


 慎一は冗談のつもりだったのだが、塩谷は遠慮だと取ったらしい。無言で頭を下げる。

 気を取り直すためか、大きく一つ息を吐いて本題に入った。


「人を探してほしい」


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