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くらう。  作者: 溝口智子
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   ***


 何度目の覚醒だろう。翔はまたぼんやりと目を開いた。眠るというより、意識を失っていると言った方が正しいのだろうと思いながら、瞬きをする。


 ぴちゃぴちゃと何かを舐めている音がしていた。この音のせいで目を覚ましたのかもしれない。翔が顔を上げるとぴたりと音がやんだ。


「お腹、すいてるの?」


 闇の中からガラガラと掠れた声が返ってきた。ぐじゅっと湿った音がした。カタンカタンと音が近づいてくる。暗さに目が慣れ、闇の中で動くものの輪郭を見ることが出来た。


 髪の長い女らしい影が、ふらふらとよろけながら近づいてくる。翔のすぐ目の前までやってくると、右手を上げて、掴んでいる何かを翔の口に押し付けた。


 腐臭がする。腐った肉の臭いだ。翔は思わず顔を反らして、それから逃げようとした。その唇を追って、ぬちゃりと粘るものが押しつけられる。言い表せないほどの嫌悪感を催す悪臭を放つもの。

 この部屋の中には、翔と、死体と、この女しかいなかったはずだ。それ以外には何もない。


 では、この腐った肉は。

 翔はゆっくりと考えるふりをしたが、暗闇の中で湿った音がしたのを聞いた時に、もう気づいていた。女が死体の肉を食いちぎったのだ。

 また、腐った肉が唇に押し付けられた。翔は歯を食いしばって頭を振る。


「愛してるから、するんだ」


 翔は今にも食い破られるのではないかと首を深く折って喉を隠した。


「これは愛してるからだ。お前を愛してるから、するんだ」


 ふいに女が離れ、翔の背後に回った。縄が緩められ、翔は床にずるずると崩れ落ちた。手足にまったく力が入らない。感覚もなくなってしまっている。

 血が通ってきた時には凄まじい痛みが襲ってくることを、何度も縛られた経験のある翔は知っていた。

 だが、今はそんなことはどうでもいい。腐った人の肉から逃げなければ。それだけが頭の中でぐるぐると回り続けている。けれど手足を動かせず、疲労と空腹で体に力は入らず、かろうじて動かせるのは首だけだ。


 カタンと音を立てて女が翔に近づき、床に座り込んだ。翔の頭を抱きかかえ、自分の膝に乗せる。

 暗闇でどこまで見えているのか、女は顔を近づけて翔を見つめているらしい。優しく頬を撫でられる。生まれて初めて愛された、そう感じた。

 膝枕、優しい手の感触、自分はこれがずっと欲しかった。


 呟くように女が歌いだした。掠れた声で聞き取りづらいが、子守歌のようだ。どこかで聞いたことがあるような気がする。翔の母は子守歌など歌ってくれたことはない。


 では、どこでだろう。ふいに思い出したのは、子どもの頃、公園で出会った女の子のことだった。

 女は優しく翔を撫で続けながら言った。


「お腹、すいてるの?」


 それは翔が女の子にかけた言葉だった。

 痺れて痛む腕を無理やり伸ばして、女の左目辺りに触れると、そこに深く長い傷痕があった。


   ***


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