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くらう。  作者: 溝口智子
18/25

18

 深夜も超え、早朝と呼べる時刻になった頃、浦本宗吾が角を曲がってきた。今日も水色の作業服を着ている。きょろきょろと辺りをうかがいながら、背を丸めて歩く。まるで、今にも敵に飛び掛かられるのを恐れているかのように見える。


 門の前に立つと、素早く門から中を覗き、振り返って道の端から端まで視線を投げる。

 ようやく安心したのか門の中へ入り、ポケットから鍵を取り出した。ドアノブにカギ穴がついた古臭いドアを押し開ける。

 慎一はゴミの山の上から飛び降りると、浦本に体当たりして家の中に押し込んだ。素早く中に入り、ドアにカギをかける。


「な……! がっ!」


 したたかに床に顔をぶつけたらしく、振り返った浦本は鼻血を垂らしていた。何が起きたかわからずに、横たわったまま慎一を見上げて言葉にならない声をあげ続けている。


「どこにいる?」


 慎一の言葉をとっさに理解できなかったようで、浦本は「な……、な……」と呟く。


「お前が縛っていたやつはどこだ?」


 浦本の動きがピタリと止まる。


「な、なに言ってんだ。あんた、なんだよ、なんなんだよ」


「お前が縛り上げていたやつのことを聞いてるんだ。他のことは喋るな」


「なんのことか、わかんねえよ。あんた、あれか、ゴミを片付けろって言いに来たのか」


 慎一は片手で浦本の胸倉を掴むと反対の拳を握りしめ、構えてみせた。


「やめてくれ! あれは、逃げたんだ!」


「逃げた?」


 浦本は咳き込みながら、慎一に向かって両手をすり合わせて嘆願する。


「緩かったんだよ、結び目が。だからちょっとドアが開いた隙に逃げられちまった。工場のシャッターも閉まらなくなってたから、わざとじゃないんだよお」


 なにか違和感を覚えた。その正体を探るために、慎一は掴んだ浦本を揺すって低い声で問う。


「殺したんだな」


「違う! そんなことしない!」


「どこに埋めた」


 浦本は必死に首を横に振る。


「違う! 殺したりしない! 埋めたりしない! やつを殺せるもんなら、赤ん坊の時にやってるよ」


「赤ん坊?」


 慎一が手を放すと、浦本は荒い息を吐きながら上体を起こして床にへたりこんだ。


「いや、三歳はもう、赤ん坊とは言わないよな。けど、あれはろくに喋らなかったし、立って歩くことも出来なかったし」


 慎一は自分が早とちりしたのだと理解した。浦本が監禁していたのは江崎翔ではなかったのだ。だが、ここで追及の手を止めれば、自分が犯罪者として告発されてしまう。自分はあくまでも糾弾者でなければならない。浦本から情報を引き出して、罪を吐かせようと腹を据えた。


「やつは今では立って歩く。そうだろう、足跡がくっきり残っていたぞ」


 浦本は観念したようで慎一の様子を窺いながら、ゆっくりと体を起こした。


「仕方なかったんだ。役所の人間が来るって言うから隠したんだ。仕方なかったんだ」


「隠さなければいけないのは、なんでだ」


「なんでって……。見つかったら騒ぎになるだろ」


 きょろきょろと視線が動く。なにかを隠そうとしているのが見え見えだ。


「虐待で逮捕されるのが怖かったんだな」


「ちがう、そんなことしない! 大事にしてたさ」


 浦本の視線はぐるぐると逃げ回る。


「逃げ出されて、野放しにしていたのか。三歳の子どもを」


「まさか! そのたびに探しだしたさ。子どもだったんだ、いつも公園か、そこらへんにいたよ。見つけるのなんて簡単だ」


 慎一は鼻で笑う。


「見つけるのは簡単なのに、逃げられるのも簡単なんだな」


「仕方ないんだよ。やつは、とんでもなく体が柔らかいんだ。本当なんだ。骨がないみたいにぬるっと逃げるんだよ。それに馬鹿力ですごいんだ。だから縛っておかないと危ないんだ。世の中のためなんだよ」


 三歳の子どもを縛り上げて虐待していた男。今もそれは続いている。

 子ども時代に父親から殴られた時の記憶が蘇った。薄暗い納戸に押し込まれ、逃げられないようにして何度も何度も殴られ続けた日々。

 父親の顔を鮮明に思い出し、カッと頭に血が上った。慎一は浦本の腹を思いきり蹴りつけた。


「ぐっは!」


「お前が縛っていたやつは、今どこだ」


 浦本はしばらく咳き込み、悶え、唾を撒き散らしながら転がる。


「答えろ。もっと蹴られたいか。やつはどこだ?」


「だから、わからないって!」


 慎一がわずかに足を動かすと、浦本はびくりと震えて両目をきつく瞑り、腹をかばうために丸まった。


「わからないはずがないだろう。お前は何年、やつを見ていたんだ。何年だ」


「じゅ、十二年、いや、十三年?」


「その間、やつは逃げたんだろう、何回も。どこで見つけたんだ」


 浦本は指折り数えながらぶつぶつと何か呟いた。


「最初の時に見つけたのは公園だよ。やつ、飴玉なんか咥えてやがった。人の目に触れたんだ。あの化け物が」


「化け物?」


 浦本は緊張のせいか、ぜえぜえと荒い息を吐きながら喋り続ける。


「やつは生肉しか食わないんだ。三つの赤ん坊が生肉を食うんだ。やつは母親も食い殺したんだ。悪魔なんだ、わかってるよ。なのに、そんなやつを俺が逃がしたから、怒ってるんだろ。謝るよ。この通り、許してください!」


 浦本は両手を擦りあわせて深く頭を下げた。未だ状況が飲み込めない慎一は、念のために直接的に質問をぶつけることにした。


「江崎翔を知っているな」


「え、誰って言った?」


「江崎翔だ」


「いや、いやいやいや。俺は知らない。本当だ、知らないよ」


 必死に懇願する浦本の表情からは、嘘の片鱗も見出せなかった。これは本当に無駄足だ。慎一は落胆を悟られぬように、なんとか罪をかぶらずに立ち去る方法を考えねばならなかった。


「やつが、攫ったんだ。江崎翔を」


 浦本がびくりと身を震わす。


「心当たりがあるんだな」


「俺のせいじゃない! 俺のせいじゃないんだ! だって、やつは俺が知らない間に、サヨ子を食い殺したんだ! 人の味を覚えたのは俺のせいじゃない!」


「人の味? サヨ子というのは?」


 浦本の視線はあちらこちらと、うろついて定まらない。


「俺の女だよ。やつは死んだサヨ子の肉を食って生きてたんだ。俺のせいじゃない。サヨ子が勝手に死ぬから悪いんだ。勝手に出ていくから悪いんだ。勝手に産むから悪いんだ。おれは産むなって言ったんだ」


 縛られ続けた子ども。母親を食い殺し、人肉を食う。


「三歳の子どもが人食いか。ふざけたことを言うな」


「本当なんだよ! サヨ子は頭がゆるかったんだ。子どもを育てるなんて出来ねえんだ、なのに産んじまって。やつはサヨ子の乳首を噛み千切ってやがったんだ。じゅうじゅう吸い付いて血を飲んでたんだ」


 慎一は突拍子のない話に眉を顰めた。だが、浦本は本気で訴えているようにしか見えない。話を合わせて様子を見ることにした。


「やつは、誰かを食ったのか? 母親以外の誰かを」


「食ってないよ、その辺のガキを噛んだだけだ。それなのに、大騒ぎしやがって……」


 ふと、さまよっていた浦本の視線が、しっかりと慎一を捕らえた。


「あんた、なんなんだ。なんでやつのことを知ってるんだ」


 何も知らない。やつなど見たこともない、知るわけがない。だが、それを教えてやる義理はない。慎一は浦本の腹に足を置くと、ゆっくりと体重をかけた。


「や、やめてくれ! なんでもするから!」


「じゃあ、思い出せ。やつが隠れそうな場所だ」


 浦本は慎一を直視できないようで、目を泳がせて震えながら脂汗を垂らしている。


「思い出せ」


 ぐっと体重をかけると、浦本が「ひいっ」と泣き声に近い叫びをあげた。


「た、助けてくれ。本当にわからないんだ。頼む、なんでもするから」


「金だ」


 慎一が言うと、浦本は何度も頷き、ポケットから財布を取り出した。奪い取って中を見ると千円札が数枚入っているだけだ。


「ふざけてるのか? 家の中にあるだろう。ゴミを溜めてるくらいだ。金も溜めてるんだろ?」


 浦本の視線が再び泳ぐ。慎一は浦本の腹を蹴った。浦本は唾と鼻血を撒き散らしながらごろごろと転げまわる。慎一は浦本の作業着の襟首をつかんで家に上がり込んだ。懐中電灯で廊下を照らしながら、浦本を引きずって家の奥へと進む。


 蝿が何匹もうるさく飛んでいる。廊下にも、ごみがうず高く積み上げられていて、浦本はたびたび落ちてくるごみの下敷きになった。そのたび、慎一は足でごみを蹴り散らかして浦本を引きずり続けた。

 家の中は異臭が充満し、今すぐにでも外へ飛び出したかった。部屋の戸はどこも開けっぱなしで、どの部屋の中もごみ袋がいっぱいに詰まっている。

 奥へ行くほど異臭は強くなる。廊下の突き当り、その部屋だけ襖が閉められていた。浦本が叫ぶ。


「やめろ! 開けるな!」


 慎一は襖を引き開けた。わっと大量の蝿が飛び出してくる。臭いとはすでに呼べない、強烈な刺激が鼻に走った。嗅ぎ慣れているとも言える臭い、人の糞尿の臭いだ。懐中電灯を向けて部屋の中を照らす。


 畳敷きのその部屋は惨憺たるありさまだった。ツンと鼻に来るアンモニア臭、硫黄臭。腐敗の進んだ、人間が撒き散らした汚物。じくじくと腐っている畳は今にも底が抜けて穴が開きそうだ。

 それらが片付けられることなく、堆積して層をなしている。とても部屋の中に足を踏み入れる気にはならない。


 この部屋にはゴミ袋は積まれていない。部屋の奥にはこの家には場違いなほど立派な大黒柱と、書院風の違い棚がある。違い棚と大黒柱の接するあたりの壁に雲母型の飾り穴が空いており、そこに黄色と黒のトラロープがかけられていた。

 トラロープは柱にしっかりと結び付けられているが、その先端には何も縛られていない。乱れて丸まっているだけで、結び目があったかどうかさえもわからない。


「厄介払いがしたかったんだな」


 掴んでいる襟越しに、浦本がびくりと震えたのがわかった。


「ロープは、簡単にほどけるように結んでいたんだ。逃げ出してどこかで事故にでも遭えばいいと思ってたんだろう。わざと逃がしたんだ」


「ちがう! あいつは勝手に逃げたんだ。いつもいつも手間かけさせやがって。そうだ、最初に逃げた時もひどかった。飴玉をやつに恵んでやった子どもにひどい目にあわされたんだ。警察に駆け込まれそうに……」


 ぎょろぎょろと彷徨っていた浦本の視線がぴたりと止まった。


「えざきしょう……、えざき……」


 ぶつぶつ言っていたが、急に勢いよく身を起こすと、慎一の手を振り切って和室の中に駆け込み、押入れを引き開ける。

 中にはごみ袋が詰め込まれていたが、その中の一つを浦本は迷うこともなく選び、引っ張り出した。周りにあった他のごみ袋が乾きかけの糞尿の山になだれ落ち、泥状の汚物が跳ねる。


 浦本はごみ袋に爪を立てて破り、中のものをぶちまけた。大量のリングファイルが糞尿まみれになりながら広げられていく。

 浦本が次々にめくっていくファイルの中身は、大部分が事務書類のようだった。工場で使っていたものだろう。その中の一冊には新聞の切り抜きが綴じてある。浦本は汚れていることも気にせずに、親指を舐めながら急いでページをめくる。


「あった、これだ!」


 浦本が指し示した記事は、幼児がなにものかに刺されたと伝えていた。


「……江崎翔くん、七歳」


「そうだ、こいつだろ、あんたが言ってるのは」


 慎一は、また浦本の胸倉を掴む。


「なぜこの記事を取っている。お前が刺したからか?」


「だから、俺はそんなことしないって! 警察が来た時にも何度も言ったのに、誰も信用しないんだ。事件のあった時間に公園の側で俺を見たって言うやつがいて。でも、俺はやつを捕まえに行ってただけなんだ。本当だよ」


「そのついでに刺したんだろう。やつを見られたから口封じのために」


 浦本の視線が揺れた。当たりだ。慎一は浦本の腹にもう一度蹴りをいれた。浦本は腹を両手で押さえて喚きながら、糞尿の上に突っ伏す。


「やつに江崎翔を襲わせて、口封じするつもりだったんだな。そのためにやつを飼っていたんだ」


「ちがう! 愛してるんだ! 愛してるからやったんだ!」


 突然なにを言い出したのかと慎一が戸惑っていると、浦本は起き上がり膝に両手を突いて泣き出した。


「やつはサヨ子に瓜二つなんだよ。どこにもやらない。俺のもんだ。俺のサヨ子だ。たのむ、やつを返してくれ。俺のものなんだよ。なんでもするから。返してくれよお」


 浦本はぶつぶつと呟き続ける。愛してるから閉じ込めた? 愛してるから縛っていた? 慎一は腹の底に氷を詰め込まれたかのような寒気を感じた。もう浦本の声を聞きたくない。踵を返して玄関に向かおうとすると、浦本が縋りついて来た。


「頼むよ、返してくれ、なんでもする」


「金だ」


 慎一は懐中電灯の光を浦本の顔に当て続ける。浦本は、なにを見ているかわからない、ぼんやりした視線を左右に動かす。


「わかったよ、待ってくれ」


 浦本は押入れのゴミ袋をいくつも引っ張り出して、奥から手提げ金庫を取り出した。開いた金庫の中を覗き込むと、かなり分厚い札束が入っている。慎一は金庫の中から札をすべて掴みだした。そのまま浦本を放置して玄関に向かおうとすると、浦本がおもねるような声をかけた。


「なあ、誰にも言わないでくれよ。やつを取られちまう。なあ、誰にも……」


 慎一は無視して玄関を出た。

 日が昇り、清々しい青空が広がっていた。懐中電灯を消し、空を仰ぐ。今日も暑くなりそうだ。人に見られる前に札束をポケットに押し込む。

 体中にゴミと糞尿の臭いが染み込んでいる。だがそんなことを気にしている余裕はない。とにかく、食い物だ。慎一はコンビニを探して足早に歩きだした。


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