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くらう。  作者: 溝口智子
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 慎一は時枝三号公園という名前の児童公園で休憩を取ることにした。

 トイレの洗面台で水を飲み、木陰のベンチでほっと息を吐く。雲が去り、急に気温が上がった。炎天下の公園には子どもの姿もない。慎一がぼんやりしていても変質者と間違われることもないだろう。

 風はなく蒸し暑かったが、日にさらされながら歩いてきた身には、日影があるだけでもありがたい。いつまでもこのまま腰を落ち着けていたかった。


 だが、どこからか生臭い臭いがベンチまで漂ってきて、心穏やかに過ごせる場所ではないことがすぐにわかった。立ち上がり臭いの元を探して首を回す。

 この公園のトイレは驚くほどきれいだ。毎日、近隣の住民が掃除をしているのか、臭いもほとんどしない。


 公園内にはブランコや滑り台などの遊具があるくらいで、臭いそうなものは見当たらない。公園を出てその街区をぐるりと周ってみると、公園の真裏の家が原因だとわかった。

 築四十年ぐらいだろうか、古ぼけた一軒家だ。薄汚れた灰色の壁は、建てた頃には白かったのだろうと思われる。開いたままの門も、おそらく白いのだろう。ただ、今はゴミ袋の山に覆われて柱頭しか見えていないので、実際のところはわからない。


 見事なゴミ屋敷だ。庭一面にゴミ袋が積み上げられ、見上げると、二階の窓の中もびっしりとゴミ袋で埋め尽くされている。

 門から玄関まで、体を横にすればかろうじて大人が通れるくらいの道幅は確保してあった。いったい、何をこんなに集めているのだろうか。中身を見てみたい気もしたが、袋は市が指定する透明のゴミ袋ではない。真っ黒で厚手の大型ビニール袋だった。


「あなた、役所の方?」


 突然、声をかけられ驚き振り返ると、小柄な高齢の女性が立っていた。手にバインダーを持ち、昭和の臭いがするツッカケと呼ばれるサンダルを履いているところを見ると、近所に回覧板でも持っていくところなのだろう。


「いえ、違いますが」


 女性はあからさまにがっかりした表情になると、大きな溜め息を吐いた。


「ですよねえ。先週来たばっかりなのに、また来てくれるわけないか」


 ぶつぶつ言ってから、女性はバインダーを慎一に差し出した。見ると、回覧板ではなく署名用紙だった。


「署名、お願いできません? ゴミ屋敷撤廃の署名運動なんですけど」


「はあ」


 バインダーを受けとって、用紙と一緒に挟んであるボールペンで名前を書きこむ。バインダーを返すと女性は「ありがとうございます」と言ったが、その場から動く気配はない。どうやらゴミ屋敷について噂話をしたくて仕方ないらしい。慎一は水を向けてやることにした。


「先週、役所の人間が見に来たんですか?」


「そうなんですよ。事前に連絡もして、家に入る許可も取っていたのに、留守だったんですって。それで、なにも出来ずに帰っちゃったの」


「行政が動いてゴミ屋敷からゴミをすべて持ち出したっていうのをテレビで見たことがありますが、強制的にやってはくれないんですかね」


 女性は眉を顰めて大きな溜め息を吐く。


「テレビなんかでやってるゴミ屋敷って、他人が捨てたゴミを集めてくるんですって。でも、ここのは全部自分のところのゴミだから所有権があるとかで」


 慎一はゴミ屋敷を振りあおいだ。これだけの量のゴミを溜めようと思ったら、いったい何年かかることだろう。女性はその疑問を汲み取ったかのように言葉を続ける。


「家庭ゴミじゃなくて、ほとんどが何かの部品らしくて。ゴミなんかじゃない、財産だ。また工場を復活するんだとか言ってるんですよ、浦本さん」


「浦本?」


 慎一は聞き覚えのある名前に眉根を寄せる。


「そう、浦本さん。経営不振で工場はたたんだけど土地が売れなくて、機械もそのままになってるんですって」


「工業団地の浦本工業の社長ですか?」


「そう。もしかして、浦本さんの知り合いの方?」


 女性は警戒したようで表情が硬くなった。


「いえ、違います。浦本工業の工場を知っているだけで。浦本って珍しい苗字だから、そうかなと」


 慎一が愛想笑いをしてみせると、女性も硬いながらも笑顔を浮かべた。


「そうですね。この辺りでは、ちょっと聞かない名前ですよね。じゃあ、署名ありがとうございました」


 そそくさと切り上げようとする女性を、慎一は呼び止めた。


「浦本弥助さんが、ゴミを集めてるんですか?」


 女性の表情が、さらに怪訝なものに変わる。慎一は浦本を知らないと言ったのに失言だったと舌打ちしたくなるのをこらえた。愛想笑いはそのままに、バッグから名刺を取り出す。


「失礼しました。私、フリーライターをしております、深田慎一と申します。取材のために浦本弥助さんを探していまして」


 受け取った名刺と慎一の顔を見比べても、女性の不審げな表情は変わらない。


「なんの取材なんですか?」


「実は浦本工業で発明された旋盤の技術が、最近見直されているんですよ。その開発者にインタビューをしたくてですね」


 女性は浦本家をチラリと見て、何かを納得したようだった。


「おじいちゃんは凄い社長さんだったらしいですもんね。でも、もう亡くなってるんですよ」


「え、そうなんですか」


「ええ。それで、息子が跡を継いで、すぐに工場を潰しちゃったんですって」


 慎一も浦本家にチラリと視線をやる。二階のゴミ袋の間には、生活用品らしき色合いのものも剥き出しのまま混ざって埋もれている。その中に水色の服が見える。工業団地で見た、逃げ去った男の作業着の色と似ていた。


「では、息子さんにお話を伺ってみようと思います」


 そう言って門柱に近づこうとする慎一を、今度は女性が呼び止めた。


「やめた方がいいですよ。家に近づくと、恐ろしい勢いで怒鳴り散らすんですから」


「何を怒鳴るんですか?」


「ちゃんとは聞き取れないけど、たぶん、出ていけとか、ゴミじゃないとか言ってるみたい」


 女性は慎一のためを思って呼び止めたわけではなく、怒鳴り声を聞くのが嫌なだけだろうとは思ったが、制止を振り切って浦本家に強行突破するわけにもいかない。一旦は引き下がることにした。


「それじゃあ、話は聞けそうにないですね。他の人をあたってみます」


「それがいいと思いますよ」


 女性は小さく会釈して浦本家のむかいの家に入っていった。この近さでこの臭さ、その上に怒鳴り声まで聞かされるのでは、たまったものではないだろう。効果があるかどうかもわからない地道な署名活動だけで憤りは納まるのだろうか。ほんの少しだけ不憫に思ったが、その怒鳴り声を聞かせることになるだろうと確信しつつ浦本家の玄関に向かった。


 ゴミとゴミの間に挟まれると、異臭はますます強まった。臭いというより、鼻を直接、何かで刺されているような痛みまで感じる。

 それでもなんとか玄関にたどり着いてドアをノックした。初めは控えめに指の関節で叩いていたが、反応がまったくないため、拳をドンドンと音高く叩きつける。ドアに耳をつけてみたが、人がいる気配はない。諦めて、またゴミの隙間に入った。


 黒いゴミ袋の中に混じって、透明な市指定の袋もいくつかある。たびたび立ち止まって中身を覗いてみた。コンビニ弁当の空き容器が一番多い。他には正体がわからない汚れた布や、黄色と黒の綱を縒ったトラロープが大量に入っている袋もある。工場で使っていたものなのかもしれない。

 他にめぼしいものも見つからず門を出ると、むかいの家の窓から、先ほどの女性が慎一を睨んでいた。軽く会釈して、慎一は元々の目的地、江崎翔の生家に足を向けた。



 元・江崎家は、浦本家から五分も離れていなかった。今は空き家になっていて、売家の看板が立っている。建物はそれほど傷んでいる様子でもないが、飛びつきたくなるほど立地条件が良いわけでもない。まだしばらくは売れずに、このままの姿で残っているのかもしれない。

 慎一は辺りの様子を窺って人目がないことを確かめると、腰の高さほどの門扉を跨ぎ越した。二階建ての、これといって特徴のない家だ。強いて言えば、空き家なわりに庭に雑草がないということくらいしか目に付く所がない。そこに、なにか妙なものを感じた。

 人が住んでいれば、自ずとその住人の臭いのようなものが建物にも染み込んでいくものだ。情が移って、引っ越しをする時に泣く人もいる。だが、この家には、人が住んでいたような温かみがまったく感じられない。これならばモデルルームの方が、まだ生活感があるだろう。


 玄関ドアの脇のガラス窓から中を覗く。白いタイル張りの床と、オーク色の上がり框、そこから真っ直ぐ伸びる廊下と、二階へ続く階段が見えた。

 ふと、違和感を覚えた。家の中は新築同然に整っているのに、階段だけが薄汚れているようだ。ドアの外から眺めるだけでは、どこがどうとは言えない。だが、直視したらいけないものを覗き見しているような後ろ暗さを感じた。

 また、門を跨いで道へ戻る。十五時を過ぎ、日差しの勢いは幾分やわらいでいた。日陰に移動してバッグから資料を取り出す。


 江崎翔が年賀状を送った中で、あいりも名前を知っているほど親しい友人の家がすぐ近くだ。電話番号がわからなかったので事前連絡は取れていない。平日のことだし、会えない可能性が高いとは思ったが、もう他に手がかりはない。慎一は徒労を覚悟して俯きがちに歩き出した。


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