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くらう。  作者: 溝口智子
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13


   ***


 翔が目を覚ましてから数時間。死体と同じ部屋にいることにも慣れた。普通の人ならば、この異常な状況に慣れることなどないだろう。だが、翔には自分が普通ではないという自覚がある。


 翔は死への恐怖が希薄だ。常日頃から、暴力や孤独にも大した関心を抱くことは出来なかった。人にも興味を持てず、告白されてあいりと付き合ってみても心が動くことはなかった。

 あいりが浮気しているとわかっても怒りなど湧いてこない。いつもどこか、人と一緒にいることに虚しさを感じるのだ。


 薄く開いた扉は動くことはないが、白々とした朝の光が入ってくる。その光で部屋の中をはっきりと見渡すことができた。


 扉の方から死体の側まで拭かれたかのように一直線に埃がないのは、死体を引きずってきたからだろう。自分の足元の方にも埃のない道筋が描き出されている。


 その二本の線を見ながら、ぼんやりと考える。いったい、誰がどうして、自分をここに連れてきたのだろう。

 翔には攫われるような心当たりはなかった。身代金を要求できるような金持ちでもなく、ストーカーにあうほど魅力的でもない。


 殺人鬼だろうか。死体に目をやる。床に転がっている死体と同じように、骨をあちこち折られて自分も死ぬのだろうか。

 痛いのは嫌だなと思う。痛い思いは子どもの頃に、もう一生分、味わいつくしたと思っていた。大人になれば痛みから逃げられると思っていたのに。


 殺されるということを考えてみても、具体的にどんな感じがするのか、どんな感情になるのか想像することは出来なかった。だが、何か腹立たしさを覚えた。

 なぜ自分がこんな目に遭わねばならないのか。毎日、真面目に規則正しく生活しているし、他人に迷惑をかけることもないよう気をつかっている。今まで刑罰を受けるほど悪いことをしたこともない。


 いや、本当にそうだろうか。

 子どもの頃、お母さんが言っていたじゃないか。あんたは悪い子だって。だから叱ってるの。あんたが悪い大人にならないように叱ってるのよって。自分はまた、子どもの時と同じように縛られている。それは悪い大人になってしまったからじゃないのか?

 自分では気づかないうちに悪いことをしていたのでは?

 それとも生まれつき、真から悪い人間だから、自分がした悪いことに気づかなかったのだろうか。


 お母さん、ごめんなさい。お母さん、もうしません。お母さん、いい子になります。お母さん、お母さん、お母さん。


 母はいつも自分を冷たい目で見下ろしていた。ごめんなさい、お母さん。何度も何度も涙を流して謝っても、縄をほどいてはもらえなかった。

 いつも翔が縛りつけられる階段の手すりの柱には、縄の跡がくっきりと刻み込まれていた。縛られたまま殴られ、蹴られるので、縄が柱にこすれるのだ。

 翔の腕や胸にも縄で擦った傷がいくつもあった。幼い頃から夏でも長袖シャツを着て、水泳の授業をいつも見学する翔は、同級生から奇異な目で見られた。


 それでもいじめられるようなこともなく、学校では痛い思いをすることはなかった。だからといって楽しかったわけではない。一人ぼっちで校庭の隅でうずくまる孤独な毎日を送った。



 カタンと音がして翔は我に返った。そうだ、自分はまた縛られたのだ。

また、一人ぼっちになるのだ。一人ぼっちのまま、死んでいくのだ。

 音がしたのは扉の向こうで、翔には音の正体はわからない。だが、人の足音とは違うのではないかと感じた。

 暗闇で見た正体のわからないものが戻ってきたのだろうか。


 また、カタンと音が鳴る。


カタン……、カタン。カタンカタン。


 不規則な調子で聞き慣れない音は近づいてくる。何かが階段を上ってきているように聞こえる。


カタン。カタン。……カタン。カタタン。


 何回、音は鳴っただろうか。階段は何段あるのだろう。近づいてくるのは何なのだろうか。暗闇で聞いたピチャピチャという水音を思い出す。死体を見やると、皮膚がやぶれて肉が見えている部分がある。だが、傷口から血は流れていない。


 翔は心の中で繰り返した。

 血は流れていない。


 ピチャピチャという音、あれは血を舐めている音だったのではないか。皮膚に牙を立て、肉を食いちぎり、血をすすり飲む何ものかが、いたのではないだろうか。


 カタン……。カタタン。カタン。カタン。


 音はだんだん近づいてきて、壁の向こうで、ふっと止まった。

 翔は扉を見つめる。口の中がカラカラに乾いていた。扉が半分しか開いていないせいで、そこに何がいるのか見ることができない。じっと待っていても何も起こらない。

 もしかしたら音は風に揺られた何かがたてていたのだろうか。生き物がたてた音ではなかったのだろうか。


 扉が、大きく開いた。真っ白い手が伸びて、扉を押さえる。カタン、カタンカタン。音を鳴らして女が入ってきた。泥で汚れた白いワンピースを着ている。前のめりに立っているため、ぼさぼさの長い髪で顔は見えない。

 カタンカタンというのは白いパンプスの足音だった。靴のサイズが合っていないのか足に怪我でもしているのか、ぐらぐらと不安定で、今にも足首を捻ってしまいそうだ。


 よろめいては踏みとどまり、床につっかえながら前に進む。パンプスのヒールが引きずられてカタン、カタンと音をたてる。

 女はぴたりと動きを止めた。まるでマネキンのようにじっとしている。今まで動いていたのが嘘だったのではないか。


 女はゆっくりと顔を上げる。長い髪の間から異様に光る目が現れた。女はその目で翔をじっと見つめると、口を大きく横に開いてにいっと笑った。女の口元からワンピースの胸のあたりにかけて、血液が作ったような赤黒い染みがある。


 飲んだのだ。この女が、あの死体の血をすすり飲んだのだ。


 翔は貧血を起こしかけている時のような眩暈を感じた。人間の血を飲む女が笑っている。女の笑い顔は作り物めいて、まるで能面のようだ。目はこちらを向いているが、焦点が定まっておらず、どこを見ているのかわからない。


 女はまた、カタン、カタンと歩き出した。翔に近づく。扉から一直線に埃が拭われた道を通ってくる。


 この女か。この女が自分を縛り上げたのか。そしてこれから、自分は食い殺されるのか。そんな考えが静かに思い浮かんだ。だがやはり、怖さは感じない。

 女が動きを止めて、また、ニイッと笑う。


「おなか、……すいてるの?」


 キシキシした聞き取りにくい声で、女は尋ねた。


カタン、カタンカタン。


 翔のすぐ側までやって来た女は、翔に向かって人差し指を突き付けた。そのままじっと動かない。


「おなか……、すいてるの?」


 女は人差し指を自分の口に持っていくと、歯をたてて皮膚を食い破った。たらりと流れる血を零さないように翔の口元に近づける。

 血を飲ませようとしているのだと気づき、翔は歯を食いしばった。女は指についた血を翔の唇に擦り付けると、そっと離れた。またカタンカタンと音を立てながら扉から出ていく。


 カタン、……カタン、カタンカタン。


 足音が階段を下りて遠くなっていった。


 大きく息を吐いて、翔は自分が緊張していたことに気づいた。乾燥しきった口内が気持ち悪くて、思わず唇を舐めてしまった。口いっぱいに錆びた鉄のような味が広がる。ぞっと背筋を悪寒が駆け上る。

 だが、すぐに唾が湧きだし口の中は潤って、かすかな甘さを感じた。美味しかった。殴られて口の中が切れた時の血の味とはまったく違う。

 初めて舐めた他人の血は、とても美味しかった。


  ***


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