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くらう。  作者: 溝口智子
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「ただいま」


 玄関口から家の奥、父の部屋に向かって声をかけた。真っ暗な廊下の電気をつけることはせず、台所に入る。慎一が冷蔵庫を開けると細く明かりが広がって、台所の様子がぼんやりと見えた。


 母が亡くなり、父が寝たきりになってから使わなくなったテーブル、埃を払いもしないトースター、天井の蛍光灯は電気代が上がらないようにと、めったにつけることがない。なにもかもが汚れ、すすけていた。

 冷蔵庫の中は、ほぼからっぽだ。かろうじて入っているのは海苔の佃煮の瓶とウスターソースだけ。父の年金が入るまで、まだ日がある。慎一は空腹に顔を顰めながら、扉を閉めた。


 自室に入って荷物を下ろす。一日抱えて回った江崎翔の資料をまとめた紙が数枚と、使わなかった名刺、工業団地の地図を写した古いデジタルカメラ。重量的にはカメラが一番重いのだが、気分的にはたった数枚しかない紙束がずっしりと重かった。


 今日、歩き回ってわかったことは、工業団地で消えたと思われる人間が翔以外にもいるらしいということだけ。明日も工業団地へ行き、なにか手がかりを得なければならない。あいりには一週間を目途に連絡することになっている。その日までに何か情報を得ておきたい。別に成功報酬なわけではないのだから、江崎翔が見つからなくても金は入る。


 だが、成果を出しておけば、また何か仕事を回してもらえるかもしれない。

 それに、なけなしの自尊心が頭をもたげるのだ。歩き回っただけで何も見つからないと子どもの遣いのような結果を残して、己の無能さをさらけだすことを嫌っている。

 仕事を辞めて父親の年金にすがって生きていることに慣れてしまっても、他人から無能と思われることを厭う。くだらないプライドがまだ生き残っていることをバカらしく、忌々しく思う。いっそなにもかも放り出して逃げ出せたら楽だろうに。


 だが、自分に圧し掛かる重石が大きすぎて、もう新しいどこかへ向かって歩きだす気力もなかった。

 それでも、明日も江崎翔を探しに行く。


   ***


 暑い時間を避けて朝早くに出かけたため、通勤ラッシュの時間にあたった。幸い、町中から住宅街へ向けての移動だったので、慎一が乗った車両はそれほど混むこともない。

 行きあう上り電車の窓には学校や会社に向かう普通の人々がぎっしり詰め込まれている姿が見える。昔は慎一もあの人たちと同じ電車に乗っていた。今は真逆に向かっているのだと改めて確認してしまい、窓から目をそらした。


 茅島駅で電車を降りる。思わず溜め息が出た。昨日とは違い、曇天のおかげで少しだけ気温は低いようだったが、かわりに湿度が高くて蒸し暑い。

 天気予報は見ていないが、雨になるのかもしれない。べたつく汗でポロシャツが肌に張り付く。この不快な空気の中、工業団地を歩き回らなければならないとは、考えただけでうんざりした。


 慎一は水筒にいれてきた水道水で口を湿らせた。やる気は出ないが、歩き出すだけの気合いはなんとか入る。駅へ向かう人たちの間を抜けて、工業団地に向かう広い道路に足を踏み出す。住宅街を背に工業団地の方を見ると、行く手には人っ子一人いない。それどころか野良猫の一匹もいない。


 町中に野良犬がいなくなってから数十年経つが、今は野良猫さえ駆除されているのだろうか。町に住めるのは、人間に支配されることに慣れきって、犬らしくも、猫らしくもすることを諦めた動物だけだ。


 駅側から工業団地に入って一棟目の工場は『中村発条製作株式会社』という看板を掲げていた。「発条」をなんと読むのかわからない。昔はわからないことはメモして調べたものだが、最近は知識欲というものが全く失せている。ちらりと横目で見ただけで、なんの感慨もなく通り過ぎた。


 中央道を歩きながら左右に首を動かす。なんとか工業、なんとか株式会社、なんとか機械。そういった名前が掲示された工場が立ち並んでいて、どこもしっかりと門を閉めている。


 神田がプレゼントしたというリカのGPS装置の位置はすぐに判明した。ライターケースが、どぎつい紫と銀色の金属製だったのが幸いして、車道の真ん中でピカピカと輝いていたのだ。

 ジッポタイプのライターケースを拾い上げて調べてみると、蓋が異様に分厚く重い。ここにGPSを仕込んでいるのだろうとあたりをつけて、本体から蓋をへし折って外した。

 蓋を地面に放り投げて、靴のかかとで何度も蹴りつけると、脆い作りの蓋はすぐに壊れて中から装置が顔を出した。

 GPSはそのまま放置して、ライターケースの本体をポケットにしまい、辺りを見回す。


 広い車道は、慎一が昨日も歩いていた中央道だ。帝王に会わず歩き続けていたら、このライターケースを見つけていただろう。もし何も知らずに拾って持って歩いていたら、GPSで位置を特定した神田につけまわされて、人殺し扱いされたかもしれない。帝王に会えたのは幸運だったとホッとした。


 辺りを調べてみると、女性のパンプスの足跡が見つかった。歩道の乾いた泥にくっきりと残っている。そこから中央道に出てきたのだと泥の跡が教えてくれた。

 その足跡は道の中央付近で消えている。足跡の上を何かが引っかき回し、大きく乱れ、そこから大きなものを引きずった跡が少し残り、徐々にアスファルトの中に吸い込まれていったかのように泥がなくなっていた。

 雨上がりにぬかるみが出来たのは歩道だけで、アスファルトの車道は乾燥していたのだろうか。


 もっと手がかりはないかと、引きずられた跡が向かった先に歩いてみたが、それ以上はなにも見つけることが出来ない。もっと移動しなければと思うと溜め息が出た。

 ゆっくりと歩きながら、道に落ちているものはないか、工場に入ったような形跡はないかと視線を動かす。アスファルトから、むっとした蒸気が立ちのぼり、集中力を削られる。


 工業団地の中央にたどり着いたころには、すっかり疲れ切っていた。どこか風通しのいい場所で休憩を取ろうと辺りを見渡していると、道の先に人影を見つけた。慎一は疲労を忘れて走り出した。


「すみません! ちょっと待ってください、すみません!」


 大声で呼びかけると、その人物が振り返った。小柄な男だ。水色の作業着の上下を着ている。駆け寄る慎一にぎょっとした様子で、男も駆け出した。

 くたびれた雰囲気のわりに、恐ろしく足が速い。貧乏暮らしでろくに食べもせず、運動もしていない慎一の体は筋肉が落ちて力も出ない。すぐに振り切られてしまった。


 膝に手をついて、荒い息を整える。広い交差点の真ん中で、せっかく掴みかけた手がかりに逃げられた屈辱を噛みしめ、男が逃げていった東の方角をしばらく睨みつけていた。


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