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ぼんやりと昔のことを思い出しながら、塾のお迎えの保護者たちから少し離れたところに立って十五分、帝王と母親が出てきて慎一に気づくことなく去っていった。
母親は帝王の手を引き、嬉しそうに帝王に微笑みかけていた。帝王は顔を伏せて母親と目を合わせないようにしている。親と手を繋いで歩くのが楽しいという年齢ではないだろう。帝王の苦労を思って、慎一はそっと溜め息をつく。
それからさらに一時間待った。空は夜に向かう群青に染まり、駐車の列はずいぶんと少なくなった。渋滞も解消しだし、建物から出てくる塾生も減った。
そこへ、先ほど顔を合わせた講師の神田が大きめのバッグを肩にかけて出て来た。駅の方面へ向かって歩き出す。
「神田先生」
呼びかけると神田は足を止めてひょいと振り返ったが、慎一の顔を認めると、びくりと肩を揺らしてきょろきょろと辺りを見回した。帝王の母親がいないか探しているのだろう。
ひとしきり確認して安心したのか、慎一に真っ直ぐ向き直ると、小さく頭を下げた。
「さっきは、ありがとうございました」
「いえ。怪我はありませんでしたか」
「少しほっぺたが腫れました。おばさんは怖いですね」
遠慮なく生徒の保護者をおばさん呼ばわりするのは、浅慮なのか、それとも恨みがこもっているからなのか慎一にはわからない。
「世の中年女性が皆、あんな風ではないですから。そう怖がらなくてもいいと思いますよ」
神田は小さく首を横に振った。
「モンスターペアレントなんか、いっぱいいるんですよ。あのおばさんが特別なんじゃない。毎日、クレームの電話がたくさん来るんです。やってられないよ」
本心から辟易としているようで、今にも舌打ちでもしそうだ。このまま話し続ければ繰り言もやまないだろう。慎一はさっさと話を変えることにした。
「教えていただきたいことがあるのですが」
神田は突然の質問に首をかしげた。怒っていた時とは違い、間抜けな野良犬のような印象になる。
「本当に人食いお化けの話はしていないんですか?」
神田の目がきょろきょろと泳いだ。無意識に、足はじりじりと慎一とは逆の方向へ進もうと動いている。
「工業団地には行ったんですか?」
「な、なんですか。なんなんですか。行ったらいけないんですか」
視線は泳いだままなのに、語調は少し荒くなった。
「工業団地について、生徒には、どんな話をしてるんですか」
「き、危険だから近づいたら行けないと言ってますよ」
「人食いお化けが出るからですか」
神田は声を荒らげた。
「そんなこと言うはずないでしょう! 工業団地にはお化けなんかより、もっと怖い……、そう、変質者がでるんです」
「そうですか」
自己顕示欲を満たすために子どもを怖がらせて楽しんでいるのだろう。そう判断した慎一がすんなり引き下がると、神田はほっとした表情になった。
「もう一つ、聞きたいことがあるのですが」
神田はまた体を硬くした。なにかきっかけがあれば、走って逃げ出しそうだ。
「先生は江崎翔という男性を知りませんか」
意外な質問だったのだろう、神田は動きを止めた。肩から力が抜けて、いぶかしげな視線を慎一に向ける。
「江崎翔さんですか? いえ、知りませんが」
「では、北原あいりという名前は?」
「いえ、知りません」
どうにも挙動が不審な神田だが、どうやら自分の探し人とはまったく関係ないらしいことはわかった。だが、他に手がかりになりそうなことは見つかっていない。できるだけのことは聞いておくべきだろうと、慎一は会話を続けた。
「では、工業団地で行方不明になった人の噂はご存じないですか」
神田の表情が引き攣る。
「先生は工業団地には、随分とお詳しいようですね。都市伝説的な情報でもかまいません。なにかご存じなら教えていただけませんか」
「知りません」
警戒心を剥き出しにして早口で答える神田に、慎一は朗らかに見えるよう、口角を上げて笑ってみせる。
「人を探しているだけなんですよ。工業団地のことについて、何か情報を持っている人は貴重なんです」
慎一の言葉を聞いているのかいないのか、神田は肩にかけていたバッグを胸に抱いてきょろきょろと目を泳がせてじっとしている。
「探しているのは知人なんですが、行方不明なんです。どうやら工業団地を通ったらしいということまではわかったのですが、そこで何があったのか。手がかりがまったくなくて、もう神田先生の情報だけが頼りなんです」
下手に出た慎一の言葉に、いくらか気分を良くしたらしい神田は、上目遣い気味に視線を上げた。
「お知り合いが行方不明だなんて心配ですね。いや、僕自身は工業団地に行ったことなんてないんですよ。僕の知り合いの女性が、やはり工業団地で行方不明になってるんですよ。いや、知り合いというか、人伝てに聞いただけなんですけどね」
工業団地で本当に人が消えたという意外な答えに、慎一は眉根を寄せる。
「その女性というのは?」
「リカっていう子なんです。あ、いや、そんな名前だそうです。キャバ嬢ですごく可愛いんです」
黙って頷いてみせて、慎一は先を促した。神田は自分が知っていることをひけらかして優越感に浸っているようで、にやついた笑いを浮かべている。
「なぜか仕事帰りに、いつもは通らない工業団地を通ってたんです。そこでぷつりと姿を消してしまって」
神田は嘘をつくのが下手すぎると慎一は呆れた。人伝てに聞いたと言ったわりには伝聞系で話すことすら出来ていない。何かを隠しているのだということをはっきりと伝えてしまっている。神田がリカについてどこまで知っているのか、慎一は鎌をかけてみることにした。
「工業団地を抜けて、どこか知り合いの男のところにでも遊びに行ったのかもしれませんね」
「リカにそんな男はいない! いるわけがない!」
神田は急に大声をあげた。
「僕がいるのにリカが浮気なんてするはずない、いや、出来るはずがないんだ。いつでも僕はリカの隣にいるんだから」
肩にかけていたバッグをぎゅっと抱きしめた神田の視線が、また泳いでいる。見せたくないものがバッグの中に入っていると態度で示してしまっている。
「盗聴器ですか、それともGPS?」
神田はハッとして慎一を見つめた。慎一はいかにもしおらしく見えるよう肩を縮める。
「ねえ、先生。お願いします。私が探している男は、もう二日も行方不明なんですよ。急がないと死んでしまうかもしれない。まさに今、命が消えようとしているかもしれないんです。リカさんという方がどこでいなくなったのか、正確な位置がわかっているのなら教えてください。お願いします」
慎一が深々と頭を下げると、神田はにやけた笑いを浮かべた。
「仕方ないなあ、そこまで言うなら。本当は僕とリカだけの秘密なんだけど」
そう言いながらバッグからスマホを取り出した。何やら操作して、表示させた画面を慎一に見せる。
「ほら、この地点からリカは動かないんですよ。工業団地の中でしょう。きっと落としちゃったんだと思うんだけど」
「落としたって、何を?」
神田はますます嬉しそうな、子どもが自慢のおもちゃをひけらかしている時のような表情になる。
「ライターケースですよ。僕が作ってプレゼントしたんです。リカはすごく喜んでくれたんですよ」
慎一はできるだけ嫌味に聞こえないように言う。
「GPS入りのケースをですか」
「そうです。リカはいつも僕と一緒にいたいんですから、プレゼントはなんでも喜んでくれます」
「その大事なプレゼントを落として、気づかないものでしょうか」
神田はむっとした様子で眉根を寄せた。
「リカは落としたことに気づいたから、探してるんですよ」
慎一は首をかしげた。
「落とした位置がわかっているのに、神田先生は拾いにいかないんですか?」
神田はスマホをバッグにしまって慎一を睨む。
「せっかく教えてあげたのに、なんでそんなことを言うんですか」
「拾いに行かないのは、お化けが怖いからですか。いや、もしかしたら、あんたがリカを攫ったんじゃないかね、ストーカーさん」
「僕はストーカーなんかじゃない! リカは僕の恋人だ! 僕は犯罪者なんかじゃないんだ!」
慎一はわざと厳しい表情を作って、神田を追い詰めようと睨みつける。
「恋人ならGPSなんてつける必要はない」
「リカは浮気症なんだ。いつも見張っていないと、他の男にすぐについていってしまうんだ」
「だが、さっきはリカに男などいないと言っていたじゃないか」
神田はまなじりを吊り上げて叫びだした。
「いないよ! 僕はずっとリカを見つめてるんだ。リカのことなら何でも知ってる」
「今、どこにいるのかも知ってるんだな?」
「ああ、知ってるよ。そうだ、知ってるんだよ。リカは必死に探してるんだ。今もずっと、落としたライターケースを。だから家に帰ってこないんだ。リカは工業団地にいるんだよ。僕のために、ずっといるんだよ」
神田はうつろな目で宙を見つめて、うっとりとした表情をしている。
「リカがGPSを落としたのはいつだ」
妄想を邪魔されたことにムッとした様子で、神田は慎一を睨んだが、慎一が睨み返すと、おどおどと視線を遠くにやった。
「四日前だよ。その日はアフターもなかったから真っ直ぐ家に帰ってたはずなんだ」
「はず? GPSを持っていたのに、なぜ正確な位置を把握していないんだ」
「うるさいな! どうでもいいだろう、そんなこと」
「どうでもよくないから聞いている。なぜだ」
強い口調で言うと、神田はまた自信なさげに小声になった。
「塾に忘れたんだよ、スマホを。けど、いつもリカが降りる駅は知ってるし、そこから家までの道も知ってる。だって、僕はリカの彼氏だからね」
誘拐犯か殺人犯と考えるには、神田は稚拙すぎる。リカの失踪にも、ましてや江崎翔の失踪にもまったく関係なさそうだ。慎一が鼻で笑って踵を返し駅に向かおうとすると、神田が後ろから縋りついてきた。
「どこへ行くんだよ。あんた、まだ僕がリカのストーカーだって思ってるんだろ。違うって言ってるじゃないか」
「リカに直接、聞いてみるよ。あんたの恋人は誰だってね」
「僕がリカの恋人だ! 僕以上にリカを愛する人間なんていない!」
慎一は冷ややかに神田を見やる。
「じゃあ、迎えに行ってやれよ。工業団地の人食いお化けが怖くないならな」
神田の手を強く振り払った。神田はよろけて歩道に倒れ込む。そのまま「僕はストーカーじゃない」とわめき続ける神田を無視して慎一は歩み去った。




