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どうして、いないの?

 康幸は玄関でチャイムを押した。

「ん?」

 綾美が出迎えてくれないので、料理で手が離せないのかと、自分のカギを使って玄関を開けた。チェーンが掛かっていない。不用心だぞ、綾美……。

 康幸の部屋は、一定の暗さになると、自動的に照明が付くように設定してある。だから、部屋の中は明るいのだが……。人がいる気配がなかった。

「綾美、ただいま」

 そう声を掛けながらリビングに入ったが、やはり誰もいない……。具合でも悪くして寝ているのかと寝室を覗く。やはり、綾美の姿はない。どうした……?


 リビングの真ん中まで来て、改めて見渡す。いつもの自分の部屋なのだが、こんなに広かっただろうか。ちゃんと、照明は必要な場所で点灯しているのに、天井の埋め込み照明のライトが切れてしまったかのように、暗い。LEDに変えたはずだから、10年は持つはずだが……。なんだろう、寒々としている。カバンを持ったまま、リビングに立ち尽くしていることに気が付いて、やっと荷物を下ろした。


 当直明けの連続勤務で、疲労が急に襲ってくる。時計を見れば21時で、綾美が帰ってしまうには、時間が早すぎた。康幸はスマホを取り出した。

「……」

 充電が切れている。これは、まずい。何かあっても、連絡が受け取れなかったはずだと、急に心臓が早くなった。慌てて充電を始めたが、完全に放電しきってしまったスマホの電源が入るまでには5分程掛かる。その時間が、妙に長く感じた。

 電源が入ったところで、電源コードを繋いだまま、慌てて綾美に電話を入れた。

「もしもし、ヤスさん?」

 綾美のいつもの声を聞いて、やっと少し落ち着いた。

「綾美ちゃん、どうしたの?」

「どうしたのって……、今帰ってきたの?」

「そう。どうして、いないの? 何かあった?」

「……、えーっと、ちょっと待ってね。今、場所変えるから」

 そういえば、綾美の後ろが結構騒がしかった。どこか、お店の中にいるような騒音だったが、静かになって綾美の声が戻ってきた。

「お帰りなさい。お食事は?」

「綾美と食べようと思って、帰ってきたところだったけど……」

「ごめんね……。そのまま、冷蔵庫の前までいける?」

「携帯充電切れてて、電源コード繋いでないと、また切れる」

「それで……」

 何だか納得したかのような声で、綾美が続けた。

「冷蔵庫に、お食事用意してあるから、温めて食べて」

「いいよ。綾美が帰ってきたらで。どこにいる? どうした?」

 電話の向こうで、くっくっ笑っている声がして、返事が返ってこない。

「綾美……」

「あのね、私、今、福岡にいるの。今日は、行けないよ」

「何で……、福岡……」

「会社の慰安旅行。何度も、ヤスさんに話したけど、寝物語だったかな? 今日LINEで写真も何枚か送ったよ」

「えっ……!」

 記憶にない。あぁ、そういえば、「もつ鍋」とか「めんたいこ」とか、そんな話ベッドの中で聞いたような……。LINEは電源切れてたし……。

「もぉ、ヤスさんといると、ほんと飽きないなぁ」

「ごめん……。全然、覚えてない」

「ヤスさん、いつも寝る時は、あっと言う間だから」

「ごめん……」

「いいよぉ、謝らなくて。ヤスさんのそういうとこ、好きだし……」

「……福岡か」

 溜息と共に、言葉が止まっていた。綾美は、いつものようにゆっくり話し掛ける。

「今日はどうだった、お仕事」

「……あぁ、当直明けで、さすがに堪えた。……でもね、こないだ搬送されてきた人が、きょう無事手術が終わって、安定したんだ。どっちに転ぶか分からなかったから、よかったよ」

「そう、よかったね〜。……この間、ヤスさんが原因見つけた頭痛の患者さんは?」

「ん……、あっちは、まだ治療中だから、あと少しの間は大変かな」

「そう……。今日も患者さん、多かったの?」

 そんな話を、10分程しただろうか。やっと康幸も自分の空腹に気持ちが向いて来た。

「お腹空いたな……」

「携帯、もう電源外せる? 外せるなら、冷蔵庫まで行ってくれる」

 言われたとおり、中を確認すれば、ちゃんと3食分程の食事が用意してあった。明日の休みの分もあるのだろう。片手鍋も入っていたので覗けばカレーだった。

「色々温めるの面倒だったら、カレーだけでも食べて。ヤスさんの好きな、キーマにしてあるから」

「分かった……。綾美は、食事は?」

「今、宴会の真っ最中なんだけど、やっぱり福岡って屋台が有名だから、あんまり食べずにこれからみんなで繰り出そうってことになってるの。ふふっ、楽しみ」

「そうか。気をつけて……」

 と言いながら、今、繰り出すって言ったか? と気づく。

「繰り出すって、男も一緒?」

「そうよ。逆に、女の子の方が少ない職場だから……」

「綾美、よく聞いて。君は酔うと、色々面倒だから、飲むなよ!」

「何、色々面倒って、失礼ね! そんなに迷惑かける飲み方しませんよ」

「いやいや、迷惑は掛けないが、面倒が増える……。説明は省くけど、とにかく飲んじゃダメだよ!」

「ヤスさんって、いじわる? 分かりました〜。1杯にします」

「1杯飲むんだ……。心配だなぁ……」

「もぉ、たまには好きなことして、のんびりしてください。ヤスさんの休み、いつもお邪魔してたから、申し訳ないなって思ってたの。ゆっくりしてね」

「……。いつ帰る?」

「明日、観光を半日してから、午後の飛行機で帰るから。今度のヤスさんの休みの日に、またお邪魔します」

「いいよ。明日、ここで待ってるよ。病院に呼び出されていなくても、待っててよ。ごはん、一緒に食べよう」

「ふふっ。了解です。じゃ、お土産楽しみにしててね。お休みなさい」

「お休み……」

 休みの日、お邪魔って思ったことないけどな……。しかし、やはり心配だ。綾美は酔うと、相手の心に響く言葉を、いつも以上に簡単に口にしてしまう。誰にでも……だ。つまり

「迷惑かけるんじゃなんて、いろんな男に惚れられるから面倒なんだ。大丈夫か、まったく。んーっ、早く帰ってこい!」

 悪態をつきながら、カレーを食べて風呂に入った。1人でTVを確認程度に見て、ベッドに入る。仕事の日はいつもこうなのに、いると思っていた日にいないと、こんなに落ち着かないのか……。初めて自覚して、康幸は寝ながら思いを巡らした。やっばり、ずっとそばに置いておきたいな……。次の瞬間には、眠りに落ちていた。


 次の日、いつも通り早く起きた康幸は、学会発表のための書類を2時間程整理し、その後出掛けた。

 トランペットの練習は、とにかく練習場所の確保が難しい。孝子と結婚していた時は、休みの度に振り回されていたので、結局トランペットを触る時間が削られていった。だが、これからトランペットの時間が確保できるようなら、防音室をレンタルしようかと考えている。防音室は1帖からあり、月単位で借りることができるが、部屋が1つ手狭になるので、決断が難しい。取り敢えず今は、音楽練習室やカラオケを使うことが多い。今日は運良く当日キャンセルをネットで見つけたので、練習室で音を出した。先日の綾美との練習で分かったことや不安定な箇所を、練習して埋めていった。

 帰り道、いい香りに誘われて練習室の近くにあるパン屋に入った。ここのパンは綾美も気に入っていて、特にクロワッサンは絶品である。明日の朝一緒に食べようと買う。お昼は少し遅くなったが、綾美がせっかく作っておいてくれたので、帰って食べよう。そんなことを考えながら、車で移動していた。

 ふと、歩道を歩く人々に目が行く。今日は休日なので、家族連れも多い。この近くにショッピングモールがあるので、小さな子を連れた夫婦も多くいる。その光景に、康幸は自分を重ねてみる。孝子といるときは、2人でいるのが精一杯だったので、想像すらしなかった。

 でも今、綾美とならこれが叶うのだと、何の抵抗もなく答えが出る。やはり、これからの自分の人生には綾美は不可欠なのだと、気持ちがどんどん固まっていく。綾美はどう思っているのだろう……。1度、きちんと話をしておきたい……。これからのことを。

 

 夕方19時過ぎに綾美はやって来た。大きなボストンバッグに、お土産の袋が何個かあり、いかにも重そうにそれらをぶら下げて玄関に入ってきた。

「おかえり」

「ただいま」

 さすがに少し疲れた顔で、それでも康幸の顔を見ればニッコリ笑って

「はぁ〜、疲れた〜」

 とおどけて見せる。

「お風呂にする。それとも、僕?」

 一瞬驚いて、声を出さずに笑い出し、後から声がついて来て笑いが止まらないらしい。

「ちゃんとお休み取れたみたいね。元気そうでよかった」

 そんな綾美の腰を抱いて、キスをする。最初はまだ笑っていたから、唇だけを何度もふれるだけ……。でも、ゆっくり続ければ、笑いは吐息に変わる。

「ヤスさんは、どうしてそんなにキスが上手いの……」

「なんでだと思う」

「すごくモテたから?」

「……、綾美のことが大好きだから」

「……、ウソも上手……」

「嘘じゃないよ」

 そう言うと、また綾美の頬に手を添えて、優しいキスをした。

「へんな男に言い寄られなかった?」

「職場の人よ。ないない。それより、美味しい明太子買って来たの。食べよ〜」

 綾美はこういうとこ、危なっかしいからなぁ。新田君も加藤君も、いい犠牲者だ……。僕の知らないところで、もっと一杯犠牲者がいそうだ……。そう思いながら、綾美に引っ張られて、リビングに向かった。

「お疲れのところ悪いけど、お昼少し遅かったから、まだお腹減ってない……。だから、綾美を先に頂きます」

 と言って、ソファに押し倒す。

「ちょっ、待って……。こら、ヤスさん……」

「ダメ。待てません」

 そう言いながら、もう手の中に綾美の胸は収まっている。

「ねっ、お風呂入ってから。ヤ……ス……さん」

「すべすべだよ。さすが、温泉の効果抜群。早速、味合わせていただく……」

「う……んっ……」


 結局、ベッドに移動して、康幸の思うがまま綾美は何度も達することになった。疲れていると、無性に感覚が敏感になる。そんなことを、綾美は初めて知った。

「少し寝て、綾美ちゃん。後で、話があるから」

 そんな声を耳元で聞きながら、綾美はゆっくり目をつむった。


 目が覚めたのは、1時間程後だ。シャワーを浴びて、ボストンバッグから部屋着を取り出し、着替える。キッチンで、康幸が何か作っている音がしていた。

「目が覚めた?」

「ごめんね。寝ちゃったんだ……」

「綾美、さっきすごく可愛かった。疲れてたんだね。いつもと違う顔……」

「もう、ヤスさん、言葉にしないで……恥ずかしい」

 ははっと笑って何かを口に入れて味見をしている。

「なに作ってるの?」

「明太子パスタ」

「へぇ。ヤスさん、お料理もできるんだ……」

「これ、料理っていうのかなぁ。これくらいなら、一応独り暮らしなのでね」

 そういうと、テーブルにパスタの皿を置く。既に何品か盛り付けされて、並べてあった。

「綾美ちゃんが作っておいてくれたの、まだ残ってるから一緒に食べよう」

「うん。すごいご馳走。ふふっ、なんだか特別な日みたい」

 そう、特別な日にするんだよ。今から……。

 シャンパンを抜いた。これも昼間、出掛けたついでに購入してきた。綾美はあんまりお酒が強くないから、これぐらいのアルコール度が低いものの方が飲みやすいだろう。乾杯をすれば、もう綾美はパーティーモードだ。

「シャンパンなんて、何か月振りだろっ」

 と、はしゃいでいる。康幸はチーズをつまみに、旅行の話を聞く。ほとんどが食べ物の話で、「美味しかった」ばかりなので、どんだけ食べたんだと、大笑いした。また、「光の道」で有名になった宮地獄(みやじだけ)神社は、さすがに壮観だったとスマホを見せてくれた。ちなみに、ちゃんと康幸にもLINEで送られて来ていた。パスタも美味しいと何度も繰り返す。綾美との食事は、どうしてこうも安心でゆったりしているのだろう……。

「今日昼間ね、小さな子供連れた夫婦、一杯見てね……」

「お出掛け? トロンボーンの練習?」

「あぁ、うん。いつものクロワッサン買って来たよ。明日の朝、食べよう」

「わい。ラッキー」

「……綾美ちゃん」

 綾美は「ん?」という顔をして、「なになに?」と顔で聞いていた。康幸は手に持ったシャンパングラスを置いた。

「僕と結婚して欲しい」

「……」

 綾美は、固まってしまった。喜んでくれるかと思っていたが、そうではない反応に、康幸も少したじろぐ……。暫く待っても状況が変わらないので、思わず声が出た。

「綾美ちゃ……」

 もう一度呼びかけている途中で、やっと綾美が応えてくれた。

「びっくりした……」

「綾美ちゃん、全く考えてなかったの……?」

「うん……、まさかヤスさんがそんな風に考えてくれてるなんて、思いもよらなかった……」

「……。綾美ちゃんの人生設計はどうなってるの。教えて欲しい……」

 しばらくじっと顔を見られ、康幸は見返すことしかできない。綾美がそっとテーブルの上に片手を出した。その手に、康幸は自分の手を載せた。

「ヤスさん、すごく嬉しい。ヤスさんが大好きだし、ヤスさんとずっといられるなら、本当に幸せだと思う。子供ができたら、きっと2人で音楽教えて……。考えてもみなかったけど、ほんとにそうなったら、どんなに楽しいか」

 ほんとにそうなったらって、ならないみたいな言い方……。康幸は、少し眉根を寄せた。

「ヤスさん。とても大切な話だから、ちゃんとご両親にも相談して」

「何言ってるの。僕らのことなんだから、僕らで決めればいい」

「……うん」

「それに、報告するにしても、綾美ちゃんの気持ちがまず知りたかった」

「……大好きだよ、ヤスさん。会えてよかった。だから……」

 そのまま綾美が席を立った。康幸の前まで来て康幸の膝にそっと腰を下ろす。少し見上げる康幸の頬を包み込みこんで

「本当に、大好きだよ」

 とキスをして抱きしめてくれた。だが、どこか喜び以外のものが含まれていて、それが康幸を不安な気持ちにさせていく。

「綾美……」

 綾美の顔を見つめるが、微笑んでいるだけで、それ以上の言葉をくれない……。

「ちゃんと、ご両親にお話してね……。さっ、片付けちゃおう」

 そう言うと、さっと立ってテーブルを片付け始めた。

「お風呂入って、温まってきて」

 もうこの話は終わり。とでも言うように、綾美は康幸を見なかった。


「また、音楽か!」

 さっきまで大した反応を見せていなかった剛が、いきなり吐き捨てた。

「あなた。ちょっと話を聞いてあげても……」

「お前が甘やかすからだ。何度同じ事を繰り返したら、こいつは懲りるんだ!」

 康幸は、実家のリビングで両親を前に、席を立った父親の顔をじっと見ていた。

「父さん、母さんを攻めるのは止めてくれよ。母さんに責任はないよ」

「前の結婚だって、私は反対したんだ。それで、あの結果だ。仮にもお前は、国分家の長男だぞ。それらしい相手は幾らだって用意できるんだ。それをわざわざ、音楽ばかりにこだわって! 仕返しのつもりか」

「……、別にそんなつもりはない。ただ、心を惹かれた女性が、たまたま音楽をやってたってだけだ」

「今回は、絶対許さん。この話は、これで終わりだ」

 そういって、部屋を出て行ってしまった。思わず、康幸は溜息をついた。

「仕返しって……、いつまでもこだわってるのは、父さんの方だ……」

「康幸、あれでもお父さんは少し後ろめたいのよ。だから、あんな言葉が出るの。あたながどれほど悔しい思いをしたか、少しは分かってると思うわ」

「母さん……」

 今日康幸は、綾美のことを両親に報告に来ていた。あれから、綾美はひとことも結婚のことに触れない。康幸が何か先の相談をしようとすると、途端に「ご両親にお話した?」と切り返され、それ以上話させてくれないのだ。訝しく思っていたが、埒が明かないので仕事帰りに実家に寄った。

「で、今度はどんなお嬢さん?」

「優しい子だよ。母さんなら、気に入ってくれると思うけど……」

「そう。じゃ、母さん1度会ってみようかな……。今度、康幸のマンションに遊びに行くわ」

「助かるよ。父さんを僕1人じゃ、とても説得できそうにない。僕は、ここを継ぐわけじゃないから、もう少し気楽に考えてくれないかな……」

「そうもいかないと思うわ。お父さんにはお父さんの、立場があるから……」

「息子の嫁に、立場が関係するの?」

「そうねぇ……、色々とね……。とにかく、会えるようにしてくれる」

「分かったよ。連絡する」

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