讃美歌320番
「夕飯、今日はいいや……」
「病院で少しでも、食べた?」
「食べたよ。大丈夫。お風呂先入るよ」
「はい」
綾美は疲れ切った康幸の後姿に、溜息が出る。時刻は23時。今日はいつもにも増して忙しかったのだろう。本当は、こんな日はひとりでゆっくり過ごしたいのではないかと思うのだが、言葉にすれば必ず「家で待ってて」と言われるので、不毛なやり取りはもうしないことにした。
相変わらず康幸の勤務はひどい状態だ。患者のためとはいえ、こんな生活を続けていて体に無理が掛からないわけがない。少しでも体が楽になるように、綾美も何くれとなく工夫をしていた。
「凝ってるねぇ……」
「う〜ん、気持ちいい……」
お風呂から上がった康幸の体をマッサージしていた。ベッドでは柔らかすぎるので、リビングの固めのソファで横になってもらい、肩からほぐしていく。
「あんまりこういうの、慣れてない?」
「うん……。行く時間がないからなぁ……」
「じゃ、もみ返しあるといけないから、緩めにしとくね。素人だから、変に痛かったら言ってよ」
「んっ……、綾美ちゃん上手……」
「お父さんがね、肩凝りで。小さいときから仕込まれました。私も肩凝りだし」
「なるほど……」
マッサージはする方も体力を使う。20分もすれば、汗だくになる。それでも、気持ちよさそうにしてくれれば、それも気にならない。
「ヤスさん……起きて。ベッドで寝て」
ひと通り終え、小さい声で寝ていた康幸を起こし、ベッドに移動させる。
「ん……、ごめん」
そういって倒れこむように寝てしまった。手を離してくれないので、康幸がしっかり寝るまで横で添い寝をする。康幸は寝るとき、綾美の体に触れたがった。それで安心できるというのだ。何だか小さい子供みたいだと思ったが、すっかり母性本能をくすぐられ、好きなようにさせている。熟睡し始めた康幸の手をそっと離し、綾美もシャワーを浴びた。明日の休日、ヤスさんまた学会の準備で忙しいかな……と考えながら、綾美も眠りについた。
音が、した……? 夜中に目が覚めた。隣を見ると、康幸の姿がなかった。トイレかと思い暫く待ったが、戻ってくる気配がない。心配になり、寝室を出た。随分暖かくなってきたので、パジャマだけで移動する。
真っ暗なリビングのカーテンが1箇所だけ開いていた。そこから、街の街灯の光が淡く部屋に入り込んでいる。康幸はその光を眺めているかのように、そこに座っていた。
声を掛けようかどうしようか迷い、それでも、このまま寝てしまっては一緒にいる意味がないと考え直し、ソファの後ろから康幸にそっと声を掛け抱きついた。
「ヤスさん、何か心配事?」
康幸が少し驚いて綾美を確認する。そっと笑ったかと思ったら、回された綾美の左手の上に右手を重ね、ポンポンとした。
「起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫……。マッサージしたところ、だるくない?」
「大丈夫そうだよ。また、お願いしたいな……」
「うん。よかった。いつでも、言って」
「……、もう少し寝られるから、綾美ちゃんゆっくり寝て」
1人になりたいのだと思った。
「ちょっと待ってて」
綾美は寝室から毛布を一枚、もって来た。
「ヤスさんも、寝られるようなら寝てね。風邪引くから、ここで寝ちゃうならこれ掛けてね」
「ん……、おやすみ」
「おやすみ……」
朝、目が覚めたら、康幸はもういなかった。書き置きがあった。
「病院に行きます。今日、遅くなりそうなので、待たないで帰っていいからね」
綾美はまた1つ、溜息をついた。ヤスさんは今、酷く疲れてもいるが、それよりも、何かに苦しんでいるのだと分かったから……。
「私、何にもしてあげられないな……」
昨晩の夕食の残りを1人で食べて、部屋を後にした。
先日の当直の日、救急で慢性腎不全の患者が運ばれてきた。意識レベルは低く、発話が緩慢で、焦点が定まっていない。息が甘ったるい臭いをしていた。この患者はC型肝炎を併発しており、肝性脳症の典型的な病状と思われた。
「月岡さん……」
一目見ただけでは、康幸も気がつかなかった。だが、救命士が呼びかける名前を聞いて、記憶の中にある、あの月岡と一致した。2回り程小さくなっていて、その腕には透析用のシャントが作られていた。
――透析何ざぁ、クソ喰らえだ!
月岡の声が、まざまざと甦る。どんな想いで決断したのだろう……。
「月岡さん、僕のこと分かりますか?」
翌朝、病室に様子を見に行った康幸は、随分意識がハッキリしている月岡に向けて確認をした。
「……」
もう10年以上前だ。覚えていなくて当然だ。
「透析を始める直前に、びっくりされましたね……」
「もう、ダメかと思った……」
体ばかりではなく、声の勢いも随分小さくなった。
「大丈夫。月岡さんは、まだまだ死にませんよ」
その言葉を聞いて、月岡の目が一瞬泳ぐ。ゆっくりと思考を巡らし、次の言葉が出てきた。
「……。音大出た、先生か?」
「思い出してくれましたか。うれしいなぁ」
「おうよ。立派な先生になったか?」
「まだまだ、立派ではありません。毎日、勉強です」
「そうか……。いやぁ、立派になったなぁ」
ベッドの中からつくづくと眺められ、小さくなった顔に突然涙が溢れた。
「先生よぉ、透析することになっちまった……」
「楽になりますよ。お腹もへっこみますし、だるさもなくなってくると思うから、食欲も出てきますし」
「皆んなしてそう言うんだが、おらぁ、ちっとも信じられねぇ」
「……。不安ですよね」
「そうだよ……。透析何ざぁ、人間のザマじゃねぇ。やりたかねぇ」
康幸はそっと月岡の体を、布団の上から擦った。
「……。もう少し、時間はあります。今日は、ゆっくり休んでください」
月岡はまだシャント手術を受けたばかりで、透析を始めていなかった。今ならば、まだ止める事ができる……。
透析は、まだまだ不完全な医療方法だ。病気により弱ってしまった腎臓が本来果たすべき血液のろ過機能を、機械で代わりに行うという療法。1回4時間、2日に1回ずつ自分の血液を機械に通し、不純物をろ過して体内に戻す。きっと開発された当初は、夢のような療法だと思われたことだろう。
しかし、80歳を越えて行うには、あまりにも苦痛が大きすぎる治療なのだ。
康幸は、腎臓内科ではない。しかし、透析患者の様子は病院でずっと見ている。
まず、老廃物の溜まった血液を取り出し(脱血)、綺麗になった血液を体に戻す(返血)のだが、そのままの血管の状態では短時間で大量の脱血ができないため、静脈と動脈を繋げ、静脈の血流を多くし、そこから脱血しなければならない。
そのためにシャントと呼ばれる動脈と静脈を繋ぐ場所を、手首の近くに施術する。これはメスを入れるので、当然痛みを伴う。
そして、実際に透析が始まれば、その度に太い針を2本も刺さねばならず、この痛さは普通の血液検査の比ではない。貼るタイプの麻酔で緩和するが、無痛というには程遠い。それが、2日に1回。
ベッドで横になっているだけだから、楽かと思っていたら大間違いで、その間、血圧が下がったり上がったり、そうすれば当然気分も悪くなるし、極力動かないように指示されるため針が刺さっている腕は、ほとんど動かせない。
途中、トイレにも行けないので、その始末が大変だったり、基礎体力のある40代や50代の人ならまだ耐えられるかもしれないが、高齢になればなるほど、その必要性に疑念を抱かざるを得ないと、康幸は常々思っていた。
しかも透析を始めて程なくすると、血管が細くなってきて、上手く血液が流れなくなってくる。その時、血管を広げる処置が、更に激痛を伴う。なぜなら、血管に麻酔は効かないからだ。
血管に入れたチューブに空気を入れ膨らまし、それを、引っ張って血管を広げるのであるが、その痛みは、出産と同等の痛みという女性もいるほどだ。それをこれから、こんなに小さい体になった月岡は耐えねばならない。痛みという症状だけを問うなら、取り除くどころか、与える治療法なのである。
そしてそのことを、医者は決して最初に説明しない。
――ありゃ医者の自己満足だよ
透析のことを、以前月岡はそう言った。あの時、康幸は実感として分からなかったが、特に高齢者に対する透析については、今では大きな意味で同意している言葉だ。
朝のカンファレンスで、昨夜の状況を説明し、腎臓内科に引き継ぎをした。その際、康幸の意見は述べていない。本人が「やりたくない」と言っていることを一応伝えたが、直前にそう言い出す患者は実に多いため、説得されて多分このまま透析することになるのだろう。
透析は一度始めてしまえば、腎移植をしない限り、もう二度と止める事はできない。「止める=死」なのである。
あれ程「枯れて死にたい」と言っていた人が……。「この先」が分かってしまう医者にとって、それに邁進していくことになる患者を見守ることは、やはりとても辛いことなのだ。
もし昨夜、救急で搬送されたのでなければ、あのまま肝不全で息を引き取った方が、よっぽど「楽」だったのではないだろうか……。
康幸は、医者だ。それこそ何百、何千と人の「死」に立ち会う。だから、敢えて言ってしまえば「死に慣れる」。
しかし、それはやはり患者の「死」であり、友や親族の「死」とは違うものなのだ。身近な人の「死」に立ち会う数は、普通の人と変わらない。月岡は患者だったが、康幸にとっては特別な患者だったのだ。
1週間後、やりきれない思いで、透析専門病院に転院していく月岡を、康幸は見送った。
「ただいま」
「おかえり〜」
ああ、この声を聞くと、本当にどんよりと体の周りにあった重い空気が、一枚剥がれる気がする。玄関を開けてもらい、リビングにそのまま向かってダイニングの椅子にカバンを置いた。
康幸の帰りを待っていたのだろう。まだ綾美も食事をしてないようだ。待っている間、綾美は本を読んでいることが多い。今日は何だろう。テーブルの上に広げてあった。
「何、読んでたの?」
「わぁ、なんでもない、なんでもない」
といいながら、慌てて隠そうとする。珍しいな、何だろう……。後手に隠した本を、フェイントを掛けてサッと取り上げる。
「ひゃっ」
「……」
表紙を確認した康幸の顔を恥ずかしそうに見て、綾美が呟く。
「ここ何度か、会う度にヤスさん辛そうで……」
「……」
「私、お医者様のこと全然分からないから、何にもしてあげられなくて……」
「だから、『ある研修医の激闘の日々』?」
「外科の研修医さんの、ブログが書籍になったものなの。作り物かもしれないけど、そんなに嘘もなさそうだったから……」
「聞いてくれれば、話すのに」
ネクタイを緩めながら、なんとなく文章に目を通す。
「うん……、でも、素人には話したくないでしょ。ヤスさんにとっては、仕事のことだし」
「そうだけど……」
「どんなことが日々起きてるのか……とか、どんなふうに思うんだろう……とか、知りたいなって……。音楽のことなら分かるけど、こんなの読んだくらいじゃ分からないだろうけど……」
もどかしそうに、言葉を紡ぐ。
「それに、今1番辛いことは、きっとまだ言葉にできないんだろうと思って……」
「綾美ちゃん……」
康幸は綾美に近づき、そっと片手で頭を胸に引き寄せた。
「ありがとう……」
綾美がほんのり笑う。その笑顔に、月岡の元気だった頃の顔が重なった。
「落ち着いたら、きっと話すよ……」
「うん……」
綾美は思い出したように動き出した。
「お腹すいたね。今、温めるから、着替えてきて」
当直明けの勤務が終わり、今日は早めに仕事を終えてきた。向かっているのは、月岡の入院している病院である。
月岡の顔を見たいと思っていた。症状を確認するだけなら、電話やメールで事は済む。医者としてならば、主治医を通して問い合わせれば答えてもらえるが、じかに会っておきたかった。
連絡をせずにお見舞いに来たので、ナースステーションで部屋を確認し、向かった。病室には、月岡の奥さんが付き添いでいた。康幸は初めて会ったので、自己紹介を含めて挨拶を交わす。月岡は、よく寝ていた。
「それはまぁ、わざわざ先生が、ありがとうございます」
背は低いが、ふっくらとした月岡の奥さんは、ゆったりと話す人だった。あのチャキチャキの江戸っ子が、よくこのテンポの人と長年連れ添えたと思えるほどだ。
「よく寝てらっしゃいますね。食事は、取れてますか?」
「それが、食べなくなってしまって……」
ひどく暗い顔をした。病気療養中なので、それほど多くの食事はとれないにしても、透析を始めたのだ。投薬のときとは比べ物にならないくらい、ちゃんと味がするものを食べられるはずである。
「ここの食事が合いませんか?」
「……、先生。他の先生には、言わないでくれますか?」
「……はい。どうしました?」
「主人、もう何日も前から、透析に行くのを嫌がったみたいで。看護師さん達から説明を受けました」
「あぁ、そうでしたか……」
透析患者には、本当によくあることだ。痛みに耐えられず、もうやりたくないと言い出すのである。
家から通う患者は、来ないことがある。そして、症状が一気に悪化し、救急で運ばれるのだ。その点月岡は入院しているので、拒否し続けることはできない。病院側は、やらないわけにはいかないのだ。そのための入院であり、治療なのだから。
「それで今日、夕食何にも食べなかったから、『どうして残しちゃったの?』って聞いたら……」
奥さんは俯いてしまい、次の言葉がなかなか出てこなかった。
「『わざとだ』って。小さい声で」
「……!」
衝撃で、息が詰まった。わざと……、つまりもう、食べないと言ったのか。
「奥さん……」
奥さんはホロホロと泣き出した。
「お父さんは意志が強くて、昔からこうと決めたら、テコでも動かないから……」
――俺はさ、死ぬ時はさ、動物として自然な形で死にてぇんだ
月岡の言葉が甦る。月岡さんがしようとしているそれだって、自然な形じゃない!
「今日先生が、血管を広げる処置の説明に来て、お父さん、イヤだって……。先生が、私に説得してもらえないかって言うから、一生懸命言ったんですけど……。お父さん『大丈夫だ』って一言言ったきり、もう何も言わなくなっちゃって……」
大丈夫って……、月岡さんはこのまま逝くつもりなのだ。康幸は、思わず月岡を呼んでいた。
「月岡さん!」
その声に応えることなく、月岡は穏やかな顔で寝ているだけだった。
2日後、月岡の奥さんから電話があった。携帯の番号を、知らせておいたのだ。
「先生、もう透析をやめる事にしました。今日、主治医の先生と子供達と話し合って、そう決めました。先生には、お知らせしとこうと……」
その後は、言葉にならなかった。康幸も「そうですか」としか応えられず、
「最後まで、どうかそばにいてあげて下さい」
と言葉を掛けた。電話の向こうでは、嗚咽が漏れるのみで、康幸も電話口で声を出さずに泣いた。
「お帰り……」
康幸の様子が、おかしい……。
「月岡さん、今日、亡くなったんだ」
透析を止めて2日後の今日、月岡が亡くなったと、奥さんから連絡をもらった。綾美には月岡のことを、少し前に話していた。
「あぁ……」
綾美も視線が落ちる。とうとう……。
「最後は、ご家族に囲まれて逝ったそうだ……」
「それは、よかった……」
悲しみが、康幸の悲しみが何もしなくても伝わってくる。康幸は、リビングに行くことなく、寝室に向かった。ゆっくり大きく息を吐きながら、ベッドの端に腰掛けた。綾美も、その横に腰かける。
そして、静かに歌い出した。
「主よ、御許に近づかん
登る道は十字架にありとも など悲しむべき
(登る道は十字架にあるのに、どうして悲しむことがありましょう)
主よ、御許に近づかん
主の使いは み空に通う梯の上より招きぬれば
いざ登りて
主よ、御許に近づかん
現し世をば離れて 天翔ける日来たりなば
いよよ近く御許に行き
主の御顔を 仰ぎ見ん」
讃美歌320番である。
かの豪華客船「タイタニック」が沈み行く船の中で、最後まで楽団員が弾き続けたと言われている曲だ。映画でも、そのシーンは多くの涙を誘った。
康幸はただ静かに頭を垂れて、綾美の歌を聴いていた。最後の声が消えて、綾美はそっと息を吐いた。
「やっぱり君は、優しい歌を歌う……」
そう言って、康幸は綾美の膝に顔を埋めた。綾美はそっと、小さく揺れる康幸の背中に手を置いた。