綾美の傷
「佐久二君、今度の休みどこに行く?」
音大を卒業し、5年程経った頃である。
「綾美の誕生日だからな、思い出作りにディズニーはどう?」
「ほんと!? 嫌いだよね、並ぶの。いいの?」
「結婚したら、そんなに行けなくなるから、いいよ」
「やったー、行きたかったんだよね、一緒に!」
「車で行こうか。向こうで1泊します」
「えっ! ホント!?」
綾美は花火の様にパッと大きな笑顔になって、佐久二に飛びついた。
「ありがとー! 佐久二君。楽しみ〜!」
しっかり綾美を受け止めて、佐久二は予定通りだとの顔をする。
「サプライズ成功かな」
「うん、大成功〜!」
柳佐久二とは合唱団で知り合った。加藤と新田と同じ会社に勤めていた。部署はそれぞれ違うらしいが、ピアノを弾く加藤と、高校から合唱にはまった新田と、アマチュアオケでバイオリンを弾いている佐久二は、いつも3人で色んなイベント合唱団に参加していた。綾美は、母と同じ病室で入院していた新城に誘われて、彼女と同じ合唱団に入ったばかりだった。そこの合唱団が、合唱連盟を通じて参加した「第九」に彼らが参加して、出会うことになった。
綾美はやっと母が退院し、店を少し交代で休むことができるようになり、音大卒業以来出していなかった声を出してみようと参加していた合唱だったが、彼らがどこからか探してくる色んなイベント合唱に誘われるようになり、1つのエキストラチームのごとく一緒に行動することが多くなっていた。
出会って1年程経ったある日、綾美は佐久二に皆んなと少し離れた場所で言われたのだ。
「今度、映画見に行かない?」
「いいよ。新城さんや新田君たちも誘おうか。大勢の方が楽しいでしょ」
「いや、2人で……。デートに誘ってるんだけど」
そこまで言われて、やっと佐久二の言っている意味に気づくほど、綾美は佐久二を音楽仲間の1人として見ていた。
「……、いいよ」
綾美の返事を聞いて、加藤と新田にそのまま報告に行った姿が、何とも嬉しそうで、2人に小突かれている佐久二を、何だか可愛いと思ってしまった。正直、好きと言う感情はそれ程なかったのだが、嫌いでもなかったし、気心も知れてたし、断る理由がなかった。
初デートは本当に映画で、1番後ろのカップル席が予約してあって、スクリーンの中でキアヌ・リーブスがキスをしたシーンで、いきなりキスをされた。どうやら、そうしようと決めていたらしく、次のキスシーンでもキスしようとするので、思わず笑ってしまい「分かった、分かった」と拒んでしまった。それでも、一生懸命な彼を嫌いになることはなく、半年ほど付き合った頃、父が倒れた。
その頃には、もう父にも佐久二を会わせていたので、佐久二は自分の親の様に心配してくれて、病院にも足繁く通ってくれた。そんな彼を父親も信頼していて、綾美の知らないところで、実家の金物店を継ぐ話が進んでいたらしい。
「綾美、俺が君のご両親の面倒を見るよ」
という分かりにくいプロポーズで、綾美は佐久二と結婚することになった。佐久二達の会社はいわゆる一部上場の大企業である。当然佐久二も国立大学を出て、倍率15倍という難関を経て入社したのだから、小さな金物屋の店主に納まるなど、誰が考えてもありえないと思っていたのだが、どこをどう綾美の父親に説得されたのか、本人が1番乗り気で
「俺、人の下で働くの向かないから」
と、結婚したら仕事を辞めて、しかも綾美の実家に同居すると言い出した。さすがにこの件については綾美がストップを掛け、せめて新婚の時くらいは別居したいと、実家近くのアパートを借りようと説得していた。
「綾美、そんなに俺と2人きりでいたい〜?」
とニヤケ顔でまんざらでもなさそうに言われ、少しムッとしながらも「当然でしょ」と答えたものだ。
佐久二は、綾美を抱くときは、とても大切に扱ってくれた。情熱的という感じではないのだが、綾美は別段それに不満もなかったし、佐久二が初めての人ではなかったが、「元彼と比べてどう」とか思うこともなかった。この人と夫婦になるんだなと、自然に受け入れることができていた。
ディズニーランドからの帰り、車に乗るときに佐久二がぼやいた。
「やっぱり、ディズニーは広いわ。楽しかったけど、歩いたなぁ。綾美、隣で寝るなよ。ずっとしゃべってて。俺、隣で寝られると、睡魔が倍増するから。頼むよ!」
「分かった。でもさ、疲れてたんだから昨日の夜、もっと早く寝れば良かったんだよ〜。あんなに頑張るから……」
「だって、綾美の独身最後の誕生日を自分のものにできるんだなぁと思ったら、ちょっと興奮しちゃってさ。綾美、昨日何だかすごく可愛かったし。嫌だった?」
「……嫌じゃなかったけど」
昨日少し酔っていて、ふわふわしていたのは確かで、佐久二君もちょっといつもより激しくて、驚いたんだよね……。とは口にできなかった。
「なら、よかった。綾美がよければ、それでよし。じゃ、出発します」
綾美は自分で振っておきながら少し赤くなって、でも、こういう風に言ってくれる佐久二君が好きなんだなぁと、しみじみ思っていた。
「うん。よろしくお願いします」
2人が幸せだった時は、ここで止まってしまった。
突然の衝撃が綾美を襲った。途中雨が降り出して、雨音に綾美はついウトウト寝てしまっていた。あんなに念を押されていたのに……。
衝撃と共に前からすごい圧迫感が襲ってきて、右足の付け根に激痛が走る。何度か車越しに衝撃があり、やっと止まった時には、頭を何度も振られたせいだろう、グワングワンと回っていて視点が定まらなかった。やっと全ての動きが止まったとき、隣の佐久二の顔が目に入った。膨らんだエアバックに頭を預け、血が流れていた。ぐったりしていて、意識があるのかないのか分からない。驚いて声を出そうとして、急にお腹の痛みに襲われた。
「うっ……」
とうめき声を上げるのが精一杯で、佐久二を呼ぶことができない。痛い、痛い、お腹が、痛い! 誰かが、遠くで「大丈夫か」と叫んでいる。大丈夫なはずがない……。誰か、この苦しいシートベルトを外して……。エアバッグを、どかして……。誰か……。
はっきりと意識があったのは、ここまでだった。その後、何度も誰かに名前を聞かれ、どこが痛いか聞かれ、ずっと移動していたのは分かったが、それももう分からなくなっていった。
次に目が覚めたのは、病院だった。
「綾美、綾美!」
と誰かに呼ばれ、目が覚めた。兄が上から覗き込み、心配そうに顔を歪めていた。
「分かるか!」
ただ頷いて、もう一度眠りについたが、それからは麻酔が覚めた時の吐き気と、足の痛みと、下腹部の痛みと、もう全身の痛みに一晩苦しんだ。腕に自動の血圧測定器を付けられ、それが何時間かおきに自動で腕を圧迫して血圧を測る。これが、どうにも苦痛で、たまらなく嫌だったが、自分で外す事はできなかった。
次の朝、兄が母を連れてきて、母は「痛かったろうに……」と泣いた。何故、誰も佐久二君のことを教えてくれないのだろう。
「佐久二君は、大丈夫だったの?」
「ああ。頭を5針程縫ったが、命に別状はないとのことだ。ただ、頭部を打っているので、少し検査とか経過観察が必要らしくて、会いたがってたが、もう少し後になるよ」
と兄が教えてくれた。どれほど安堵したか……。兄が一旦言葉を躊躇して、それでも伝えなければとゆっくり説明を続けた。
「それより、綾美……。お腹の赤ちゃん、ダメだったんだ。残念だが……」
「えっ、赤ちゃん……?」
「やっぱり……、知らなかったか。お前、妊娠してたんだ」
「嘘……」
「多分4週目くらいだったんじゃないかって……。あとで、先生に説明してもらうといい」
その事実を受け入れるまでに、随分時間が掛かった。丸一日、痛み止めの点滴でうつらうつらして、夜になってやっとハッキリと自覚をした。そう考えれば、体に変化はあったのだ。思い出せば、思い当たる佐久二との夜もあった。
どうして気がつかなかったのだろう……。喜ぶ間もなく、別れることになった、私の赤ちゃん……。そう思った瞬間、悲しみが怒涛のように押し寄せた。……ごめんね。分かってあげられなくて……。
次の日、佐久二が綾美の病室に来た。頭に包帯を巻き、右手首と右足にも包帯が巻かれていたが、残った左手で綾美の顔にそっと触れた。
「ゴメンな、綾美。ゴメンな……」
後は涙が止まらず、言葉にならない。ただ、綾美の手を握り、慟哭し続けた。そんな佐久二をなんとか椅子に座らせ、落ち着くまで待った。
「何が、あったの?」
「高速の入口から入って来た車が、合流地点で左からぶつかって来た。凄いスピードで、俺少しぼぅっとしてて、避け切れなかった。雨で、車が止まらずに回転して……。俺も覚えてるのはそこまでで……。警察が昨日、教えてくれた。最後は、中央分離帯にぶつかって止まって……。綾美の足に、路側帯の鉄パイプが、ドアを通過して喰い込んだって……」
「佐久二君が無事で、良かったよ。2人共、命があって、良かった……」
「うん……。本当に、ゴメン……」
「佐久二君のせいじゃ、ないよ」
そう言ったのに、彼は泣くことが止められなかった。病室を抜け出して来たようで、看護師が慌ててやってきて、連れ戻されてしまった。
スマホがあることを思い出し、LINEをした。
「赤ちゃん、ゴメンね」
「綾美、本当に、ゴメン」
そう返信が来たきり、その日スマホが鳴る事はなかった。
佐久二は次の日に退院していった。今は、本当に病院に長くはいさせてもらえない。綾美は足の傷に時間が掛かり、それでも2週間で自宅療養に変わった。病院にいる間、佐久二は毎日会社帰りに綾美を見舞ってくれたが、まるで人が変わったかのように、綾美に言葉を掛けることがなかった。口を開けば「ゴメン」か「すまない」ばかりで、会話にすらならない時もある。しかも、そんな言葉を口にした時は、本当に苦しそうな表情をした。どんなに謝られても、どうすることもできないし、綾美としては佐久二を恨んでいるわけでも責めているわけでもなかったのだから、本当にどうしたらいいか分からなくなっていった。
自宅に戻った綾美は、毎日小さなショットグラスを用意して、水を手向けるようになった。生まれることがなかった子に、供養をするのは本来良いことではないのかもしれないが、何かしないではいられなかった。せめて、存在した事実を忘れないためにも、毎日の決まり事の1つとして、続けていた。けれど、佐久二が部屋にやってきた時にそれを見て、とても辛そうな顔をしたので、もうそれもすることはできなくなった。
そのうち、佐久二が綾美に会いに来る日が、減っていった。それは2人にとっては、しごく自然なことの様に感じた。会えばお互いに苦しいし、無言でいれば何か相手に責められている様で、とても心が休まる時間ではなくなっていたからだ。
それでも、何とか前の2人に戻る努力はした。
「もう、私に触れるの、怖い?」
「いいのか……」
初めての時のように、ぎこちなくそっと、キスをしてくれた。1度触れれば、体は反応していく。佐久二の掌が、そっと綾美の胸を包めば、その懐かしい温かさに、時間が戻っていくような気がした。けれど、やはりそこまでだった。
足の傷が目に入った瞬間、佐久二の体が動かなくなってしまった。
「もう少し、時間をくれないか……」
綾美はもう何も言う事ができなくなってしまった。
事故から3ヶ月後、その時はやって来た。
なんでもないことのはずだった。2人で一緒に夕飯でも食べようと外に出て、近くのパスタ店に向かって歩いていた。なんとなく前に目を向けると、赤ちゃんを抱いたママと、パパの3人連れが目に留まった。その瞬間、綾美の足が止まってしまった。急に鼓動が激しくなり、息が苦しくなる。目から涙が溢れだして、その場から逃げ出した。まだ足が痛くて、駆け出すことはできない。それでも、少しでも遠くに、遠くに、遠くに……。
「綾美!」
佐久二に呼ばれ腕を掴まれ、我に返った。4ブロックも反対側に歩き、とっくに3人の姿が見えないところまで来ていたのに、息が苦しくて吐きそうなのに、歩き続けていたらしい。
はぁはぁと、荒い息をつきながら、その場にうずくまった。苦しかった。息も、自分の行動の醜さも、そして、ずっと心配しながら見守っている佐久二の視線も……。
「佐久二君、もう駄目だ。もう、一緒にいられない。このままじゃ、2人ともダメになる」
「ごめん……」
「お願いだから! ごめん以外の言葉が聞きたい! 私、恨んでない。責めてない。なのに、何で……」
「綾美……。本当に愛してたよ。でも、もう俺も抱え切れない……。償いきれない……。本当に……、愛してた……」
これが、2人が交わした最後の言葉になった。
「綾美ちゃん、綾美ちゃん!」
夢を見ていた……。康幸に肩をつかまれ、揺り起こされていた。
「綾美ちゃん、大丈夫……? ちょっと、うなされてた」
リビングのソファで、テレビを見ながら寝ていたらしい。画面には、F1レースが映し出されていた。さっきまでN響の定期公演が流れていたはずだが、今は車のエンジン音がずっとしていてアナウンサーの興奮気味な実況の声が、叫んでいた。日本のチームが3位に入ったらしい。
「やだ、寝ちゃったの? 私……」
「……紅茶、入れるよ。飲む?」
「うん……」
康幸と綾美は、やっと付き合うことができるようになった。綾美が新城に報告したときは、「なにそれ。ヤス先生、気が長いわねぇ」と呆れられた。ん〜、同感だ……。加藤と新田には、新城が話すだろうと特に報告はしなかった。
康幸は休日が少ない生活を送っていた。月に3〜4日がほとんどだった。しかも、休みの日にも「オンコール」という呼び出しがあって、そんな時は30分で病院に駆けつけなくてはならず、遠くに遊びに行けるわけではないと知る。休みではない日でも、当直後、そのまま普通勤務を続け、連続19時間勤務なんていうのもあり、帰りはいつも22時頃になっていた。一体いつ寝るのだろう……。どうやってトロンボーン、吹いてるの……。
大体、総合病院の勤務医はこんなもんだと笑っていたが、サラリーマンの綾美からすれば、ブラックもいいところだと怒りが沸いてきたと言ったら、「うちの病院はまだいい方だけど、綾美ちゃんが代りに怒ってくれるから、気持ちがいいな」と、笑っていた。結局、休みの日の前に康幸の家に泊まり、翌日家や近所で一緒に過ごすというデートが多くなった。
「研究会の資料、作り終わったから、もうゆっくりできるよ」
「お疲れ様。ごめんね、ほんとにお邪魔じゃない?」
「こっちこそ。洗濯とか掃除とか、色々してもらって助かるよ。やらなくて、いいのに……」
「ねぇ、今までどうしてたの?」
「適当にやってたよ。洗濯は、洗濯機が乾燥までしてくれるし、クリーニングもあるし。掃除も、ほぼ家にいないから、あんまり汚れないし。たまーに見かねて母が来てくれたりね」
「あら、お義母さんの仕事、取っちゃった?」
「いいよ。母さん来ると、色々うるさいから」
「あとで、一緒に夕飯の買出しに行こう〜」
「あっ、それで思い出した。ちょっと、待ってて」
そういって奥の部屋から、1枚のクレジットカードを持ってきた。
「家の買い物、これ使って。今まで、気が付かなくてゴメン。食材とか、大変だったでしょ」
「いいよ。私も一緒に食べるんだし……」
「ダメだよ。一応これでも、1度は結婚してたんだから、生活費のこと少しは分かってるつもりだから……」
「う〜ん、じゃ遠慮なく使わせていただきます。ありがとう」
「どんなことでも、困ったことは言ってよ。綾美ちゃんに負担掛けるの、嫌だからね」
「じゃ、1ついい?」
「何?」
「お鍋がね、この家ほとんどないの。孝子先輩、持ってっちゃった? どこかにしまってある?」
「あぁ、無い。孝子の時は、ほとんど外食で。滅多に手料理なかったから……」
「うわ〜、さすが「女王様」ね。ある意味、感動する……。じゃ、お鍋買っていい?」
「いいよ、好きなだけどうぞ」
「わーい。じゃ、今日それも買おう!」
嬉しそうにはしゃぐ綾美を見て、つくづく自分でも、なんで孝子だったのかと思ってしまう。あの時は、あの華やかさとエネルギーに無性に惹き付けられた。
今考えれば、自分が無くなるほど疲労困ぱいしていた時期だったから、自分よりエネルギーのある人に、自然に惹きつけられていたのかもしれない。しかもそのエネルギーのまま孝子に引っ張られ、あっという間に入籍に至っていた。
だが……、一緒に暮らす女性ではなかったな……。
「ねぇ、『女王様』って、何?」
「あっ、ごめんなさい。前の奥様の悪口、いけませんね。以後、しません。すみません」
「いいよ。で、『女王様』って?」
「音大での、孝子先輩のあだ名……。先輩『夜の女王』で世に出たから、あまりにもキャラクターがそのままで……。ごめんなさい」
なるほどな……。確かに「夜の女王」だった……。
「夜の女王」とは、モーツァルトのオペラ「魔笛」に出てくる、夜を支配している女王のことである。この世界をかつて支配していた王が死んだとき、妻である夜の女王の力も同時に葬られた。その後、その王の「太陽の力」を引き継いだ聖職者達を導いているザラストロを殺そうと、娘を暗殺者として送り込む非常な母というキャラクターだ。
アリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」の中に、非常に高い音があり、コロラトゥーラソプラノ(ソプラノの中でも1番軽く高い声の役を担う)の代表曲である。ハイF(3点F)といわれる、普通の「ファ」の2オクターブ上の「ファ」の音が何度も出てくる。物語的には、暗殺は果たされることはなく、結局最後に成敗され地獄に落とされる役だ。
「危うく殺されなくて、よかったってとこだな……」
綾美が手を口に当てて、声を出すのを必死に我慢して笑っている。康幸も、一緒に笑った。
そんな笑顔を、康幸は徐々に仕舞う。
「ねえ、綾美ちゃん……。さっきの夢、この傷に関係ある?」
そういって、綾美の太ももの内側にそっと触れた。綾美は一瞬体を強張らせたが、康幸の目を見ているうちに穏やかになって言った。
「嫌いにならないでくれると、いいけど……」
不安ではあるが、話さなければならないだろう。隠しておいても、しょうがない。久し振りだったが、さっきのようにあの瞬間の夢を見ることは、この先だってきっとあるから……。
「聞かせてくれるの?」
康幸に頷きつつ、綾美はゆっくり紅茶をひとくち、口に含んだ。
「……それで、彼と別れてから、私引きこもっちゃって……。お店はもう畳んでね。自宅も兼ねてたから兄が一緒に暮らそうって両親を呼んだんだけど、私が一人で暮らせるまで両親も離れられなくて……。情けないけど、自立するのに時間が掛かっちゃった。その間、新城さんや加藤さんたちが何度も歌に誘ってくれて。小さな子を見ても、心が波立たないようになってから、やっと歌を再開したの。事故の1年くらい後だったかな。皆んなには、助けてもらってばっかり……」
綾美は、話せる事実をきちんと話した。
「そうだったんだ……」
さすがに康幸も言葉が出なかった。
――彼女は、苦しいことがあると1人で抱え込んでしまうんですよ
――一時大変な時期があって、僕達が過保護にしているのは確かですが
そういうことだったのか。新田君は、本当に長いこと頑張ってきたわけだ……。最初は佐久二君に譲り、次は僕に横取りされ……か。まぁ、今更譲る気はないが……。
「さっき、テレビで車のエンジン音がしてたから、きっとあんな夢見たんだと思う。ずっと、見てなかったから、久し振り……」
「事故の瞬間の、夢?」
小さく綾美が頷いた。その瞳が不安そうに康幸を見つめた。
「ヤスさん」
「ん……」
「私、まだそばにいても、いい?」
康幸は驚いて、瞬時に笑顔になった。
「当たり前だ。今から、お鍋買いに行くんでしょ。さぁ、出掛けよう」
ショッピングモールでは、大勢家族連れがいる。当然、小さな子を抱いた母親も一杯溢れていた。これを見るたびに苦しくなるなんて、きっと大変だったんだろうなと康幸は思う。繋いだ手を、思わず強く握った。
「ついでに、食器とかスリッパとか、綾美ちゃん専用の買おう」
「いいの?」
「そういうの、女の子って欲しいんでしょ」
「さすが、命拾いした旦那様……」
「それ、今日だけにしてよ。言われる度に、何だか命が縮む気がする」
声を出して笑った綾美を見て、もう本当に大丈夫なのだと安心する。僕がそばにいるから、これからは安心してゆっくり傷を癒して欲しい……。