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真実

 正月も過ぎ、ニューイヤーコンサートも終了した。そこに康幸はエキストラとして参加したのだが、綾美は聴きに来なかった。どうしても予定が合わないといっていたが、違う理由があると感じていた。綾美の中に「限界」という文字が浮かんでいる様な気がして、康幸は身動きが取れずにいる。

 唯一の救いは、チャリティコンサートの出演だった。「阪神淡路大震災を忘れない」と題され、13年目になる。練習は3回。内、合唱との合同練習は、今日の1日だけだった。あとは、明日本番を迎えることになっている。チャリティなので、シビアな演奏技術よりも、参加することに意義がある。曲も、親しみやすく短い曲が選曲されている。芸能人も何人か参加するとのことで、メディアも付いてくることになるだろう。楽しいことが第一優先というコンサートなので、当初康幸は参加するつもりはなかったのだが、綾美の合唱団が出演するというので、急遽出ることにした。当直を研修医に押し付け、今日だけはと無理やり出席できるようにした。どうするにしろ、直接会って彼女の状態を知っておきたかった。「薄氷を踏む思い」というのを、病院以外で感じているのは、康幸も初めてだった。

 

 集合時間の1時間前、康幸は練習会場の最寄りの駅に降り立った。ここから、大きな公園を横切って5分ほど歩けば到着する。この公園には、ベンチが何ヶ所か設置してある。オフィス街も近いので、平日ならばサラリーマンやOL達がお弁当でも食べていそうな、開放感のある空間になっていた。

 そのベンチに、綾美が座っていた。遠目から見てもすぐに分かった。あの日貸したマフラーは、そのまま綾美にあげた。康幸も気に入っていたものだったが、綾美がとても嬉しそうにしてくれたので、まったく後悔はない。そのマフラーを首に巻き、膝に楽譜を置き、耳にはワイヤレスイヤホンをしている。両耳タイプだ。あの形は「BOSE」だな。あれをすると、周りの音がほとんど聞こえなくなる。音取りでもしているのだろうか? 時々楽譜を見て、後は顔を上げて前を向いて目をつむり、口を小さく動かしている。ああ、テキストを頭に入れてるんだなと気が付いた。暗譜をしようとしている。

 僕はなるべく足音を立てないように歩き、彼女のベンチの右側に立った。すぐ横まで来ているのに、君は目をつむっているから、気が付かない。あまりにも、無防備だ。小さく開けた唇は、あの触れた時の快感を思い出させる。

 僕は上半身をかがめ、そっと彼女の首に手を添える。横から覗き込むように、その唇にキスをした。

 彼女は、驚いて目を開く。目を瞬かせたかと思ったら、目の前の僕の顔を認め、ゆっくりと微笑んだ。その笑顔に、僕も微笑み返す。姿勢を元に戻した。

「モーツァルト?」

 楽譜を上から覗き込みながら、聞いた。よく見れば、モーツァルトの譜面面(ふめんづら)とは、違う。彼女はイヤホンを片方だけ外して、微笑んだ顔のまま答えた。

「……。今のは、反則です。ダメですよ」

「あんまり、君が無防備だからさ。僕でよかったでしょ。知らない人だったら、どうするの」

「知らない人は、あんなことしません……」

 こんなことでもしない限り、その唇に触れることはさせてもらえない……。という言葉を呑み込んで、時計を見た。

「そろそろ、練習会場に行かない?」

「あれ、もうそんな時間ですか」

「音出ししたいから。合唱は発声があるんじゃないの」

「先に、行ってください。すぐ行きますから」

 また、君は……。彼女の手を握って、無理やり歩き出す。

「誰かに見られたら……」

「大丈夫。誰も、見てない」

 手を繋いで、2人で並んで歩いた。

「さっきの、今日の曲? モーツァルトとは、違ったけど……」

「今度、演奏会形式で「カルメン」があるの。フランス語だから、大変」

「ああ、「カルメン」か。指揮者は?」

「関場さん。絶対、暗譜」

「関場さんか……。厳しいからな」

「まあ、確かに楽譜があると、指揮が見られなくなっちゃう人、多いから」

「でも君なら、あったほうがいいでしょ」

「うん。間違える恐怖より、しっかり指示を書き込んだ楽譜見るほうが、確実に歌える」

「だよな」

 今までと変わらない様子で話をする。あと少し、あと少し……のはずだ。綾美ちゃん、何らかの決断は、まだしないで……。康幸は万感の想いを託して、その手を握っていた。けれど、会場に到着する少し前に、繋いでいた手は綾美の方から離した。


「森野孝子、再婚したって」

 20分間の休憩時間の時だった。

「森野って、ソプラノの? 誰と?」

「指揮者の大路地だってー」

 大きな声で噂していた木管のメンバーが、康幸を見つけて気まずさを顔に張り付けて話し掛けてきた。

「すみません、ヤスさん。気が付きませんで……」

 康幸は、綾美を目で探した。が、いつものアルトの席にも、いくつかできている合唱団の輪の中にも、綾美はいなかった。こういう、1番いて欲しい時に限って、君はいないんだな……。軽く微笑んで、全く気にしてないと表情にも声にも表す。

「いえ、気にしないで。これで僕も無罪放免です」

「無罪放免……ですか?」

「ええ。やはり、女性が先に幸せにならないと、意外と世間の目は厳しいもんです。僕が先に再婚しようものなら、浮気が原因だったんじゃないかって、叩かれますから」

「なるほど、確かにねぇ。やはり、あれですか……。性格の不一致?」

「……すれ違いです。どちらも、とても忙しくて……」

「お医者さんですもんねぇ」

 もちろん、離婚の理由はそれだけではない。だが、お互いの時間に合わせようとしなくなった時点で、もう既に、結婚生活に破綻を来していたということだ。

「お陰で、またトロンボーンが吹ける時間が、できましたよ」

 そういって次の曲の準備を始めた。


 綾美は、横になっていた椅子から、体を起こした。どういう、こと……。

 主催者の事務方が並んで座り、練習の様子を見守る長テーブルがある。その後ろの壁際に並べてあった椅子だったため、楽団員や合唱団員からは死角になり見えなくなっていた。

「綾美ちゃん、大丈夫? もう少し、横になってた方がいいんじゃない」

 その声に康幸は反応する。ゆっくり振り向いた。

「いてくれたか……」

 康幸は、小さく声にして呟いた。そのまま、席を立つ。ゆっくりと、綾美の目を見つめたまま、近づいて行く。それに気づいた新城が声を掛けた。

「あぁ、ヤス先生。綾美ちゃん、また倒れちゃって。よかった、いてくださって。よろしく、お願いしますね」

「はい……」

 綾美は、こちらに真っ直ぐやってくる康幸を見ていたが、頭がフラついて、すぐ目が開けていられなくなった。顔を歪めて下を向いたら、途端にバランスが崩れた。そのまま、椅子から落ちそうになったのを、康幸が受け止めてくれた。

「横に、なって」

 綾美の体を抱え込むように、横にしてくれる。

「……」

「また、いつもの貧血?」

「ちょっと、今日はひどくて……」

「なにか、したの?」

「準備室にあったジュースが、グレープフルーツジュースだったの……」

「そりゃ、ダメだ。飲んでる途中で、気付いただろうに……」

「これぐらいなら、いいかなって思って。おいしかったんだもん……」

「食いしん坊だな」

 そう言いながら、綾美の手首を取り、腕時計を見ながら、脈を数えている。少し眉を歪めたかと思ったら、頬に手を当てられた。

「冷や汗まで出てる。心拍数もかなり高いし。キツイでしょ。気持ち悪くない?」

「……」

 綾美はゆっくり目を開けて、天井を見ながら今1番聞きたいことを、言葉にした。

「さっきの話……、どういうこと、ですか……」

「あのまま、だよ」

「孝子先輩が、ヤスさんの奥さんだったの……?」

「そう」

 森野孝子は、綾美の音大の7つ上の先輩だ。康幸と同い年である。綾美はあの指輪にあった刻印を思い出す。「T to Y」。「孝子から康幸へ」

「じゃあ、別れたのって……」

「1年前」

 そうだ、意外と話題になったのだ。あの「女王様」の孝子が結婚した時も、相手が医者だと知って、皆が納得しただけに、離婚した時は、慰謝料の話題が皆の興味を占めていた。それが、かれこれ1年前……。

 つまり、私と出会ったときには、もう離婚していた……。

「どうして、あの時、教えてくれなかったの……」

「本当のことを言っても、あの時の君には、言い訳にしか聞こえないと思った」

「……」

 確かに、あの指輪を見た時の衝撃は、多分そのあと何を言われても、ごまかされているとしか思えなかったに違いない。

「どうして、指輪なんか……。まだ、先輩のことが好きなの」

「……、もう孝子のことはすっかり終わったことだよ。気持ちは、離婚するずっと前から離れてた。指輪はね、ナース除け」

「ナース除け?」

「医者の結婚相手、ナースが多いって知ってる?」

「……」

「独身の医者はね、すごくモテる。それが、面倒でね……。病院では、いつも付けてるんだよ。まさか、君の目に入るとは、思わなかった」

「じゃあ、ずっと言わないつもりだったの……」

「僕からはね。違う誰かから君の耳に入らないと、ダメだと思ってた。そしたら、君は意外とゴシップに興味がない人で、思ったより時間が掛かった……」

「そんなの、ひどい……」

 顔に掛かった髪を、そっと整えてやる。指先が、もう一度君の頬に触れる。でもそれは、体の状態を調べるためのものではない。君に触れるための、指先だ。何度も、そっと、触れた。

「君は、友達でいてくれるって言ったから。そばにおいて置けると思った。待つつもりだったよ」

「嫌いになってたかも、しれないでしょ……」

「それならそれで、仕方がないと思ってた。でも、君を好きな気持ちだけは、ずっと伝えていたつもりだったよ」


 ――一緒に、帰るよ!

 ――それじゃ、足らないよ

 ――他の男にそういうこと言っちゃ、ダメだよ

 ――あんまり、君が無防備だからさ

 

 綾美の目から、涙がひとすじ流れる。止まらなくなった。

「綾美ちゃ……」

 思わず、綾美の手を強く握る。

「ひどいよ……。どんなに、苦しかったか……」

「うん、知ってる……」

「ううん、知らない。ヤスさんは、知らない!」

「……綾美ちゃん、キスしたい」

「そんなんじゃ、許さない……」 

「うん……。練習終わったら、一緒に帰ろう」

 両手で顔を覆い、声を上げずに泣き続ける。

「もう、泣かないで。あと、10分で練習開始だから」

「うん……」

 でも、やっぱり涙は止まらなかった。


 練習後、康幸のマンションに2人で来た。手を繋いで、部屋に入った。

「綾美ちゃん……」

 康幸は楽器も楽譜もその場に下ろし、ただ、綾美を抱きしめる。

「やっと……」

 そう言ったかと思うと、綾美の唇を覆う。もう、綾美も拒む理由はない。求められるまま、何度も何度も、キスを繰り返す。それだけで、もう呼吸が苦しくなるくらいに……。

 その場で、綾美のセーターの中に手を滑らせる。背中のホックを外した。そのまま前に指でなぞっていく。

「あっ」

 柔らかい胸に触れれば、綾美が小さく声を出す。そのままセーターを上げ、その胸を口に含む。綺麗だ。ずっと、この感触も感覚も、欲しかった。スカートのホックを外しにかかる。綾美はたまらず、言葉にした。

「ベッドに行きたい……」

 康幸は綾美の手を引っ張り、ベッドまで連れて行った。

 もう一度、キスからだ。今までの気持ちを全てぶつけるように、綾美の体を愛撫する。2人の息遣いだけが、部屋に響いていた。

 カーテンの隙間から、月の光がこぼれている。ほんのりと、綾美の裸体を照らしていた。

「綾美ちゃん……、これ、ひどい傷だ……。触っても、痛くない?」

「そっとなら……、きっと大丈夫……。それは、他人にさわられたこと、ないから……。綺麗じゃなくて、ごめんね……。触るの怖いなら……」

 その言葉に、康幸の気持ちに、また火が付く。ふとももの内側に、ひどい傷があった。手術跡ではない。肉をえぐられたような、ケガによるものだと思われた。

「君のことを全て欲しいんだ。触らせて……」

 そういって唇を這わせる。そっと、優しく丁寧に。そのまま、愛撫が全身に及び、2人はひとつになる。その時の幸福感を、どうやって表したらいいのだろう。お互いに、これほど待ち望んでいたのかと、意識の奥の枯渇した部分に、水が沁み込んでいく。あぁ……。

 後は、康幸の求めに綾美が応じ、お互いに激しく求めあう。綾美の体も、自然に反応していく。全身が康幸の感触に浸され、奥からまとわりついていく。それをまた康幸も十分に感じ、共に高みに達していった。


 2人の体が離れて、康幸の頭に冷静さが戻ってくる。それでも、しばらく綾美を抱きしめたまま動けない。康幸が、ため息と共に囁いた。

「これを、僕たちはずっと我慢してきたのか……」

 ぐったりした意識の中で、綾美は思わずくすっと笑ってしまった。でも、綾美にしても、これほど相手によって違ってくるのだと初めて知ったのだ。改めて康幸の情熱を全身で受け止めた。それは、快感の一言では、足りないと思う。

 康幸は綾美の髪を撫で、おでこにキスをして、もう一度ため息を吐いた。

「はぁ、もっと早くなんとかすればよかった」

「ほんとに……」

「もうこれからは無理だよ。我慢なんてできないし、する気もない」

「うん……」

 そっと、綾美の太ももに手を這わせる。

「……ぅんっ、ダ…メ……」

「さっき、痛かった?」

「ううん、大丈夫。でも、やっぱり感覚が、少し違う。肌が薄いから、敏感になってる……」

「この傷のこと、また今度、ゆっくり教えて……」

「……。うん……」

 2人は、そのまま眠りに落ちていった。

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