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ヘンデルの「メサイア」

「クリスマスには少し早いけど、「メサイア」見に行かない? 友達が出てて、チケットがあるんだけど」

 金沢から帰って、3週間経っていた。もう連絡は来ないかと思っていたところへ、LINEが入った。でも、即答できない。会いたいが、2人で、しかも公の場で会って、構わないのか……。いやだな、こんな気の回し方……。既読にしたまま、返事ができないでいたら、夜、もう一度LINEが来た。

「マチネだから、心配しないで。会いたい」

 こんな連絡をもらっては、綾美にしても自分を止めることはできない。

 マチネとはフランス語で「朝」の意味である。クラシックの演奏会や、バレエの公演などではよく使われる。昼の演奏会をマチネ、夜の演奏会をソワレという。

「私も、会いたいです。行きます。」

 やっと会える……。康幸は、当直の休憩中、LINEを確認しながら安堵の溜息をついた。


 演奏会場の最寄の駅で待ち合わせた。演奏会前にランチをしようか話し合ったが、食べてしまうと寝てしまうという明確な理由により、止めた。せめてコーヒーでもと言うことになり、1時間前に約束をしたが、更に30分も前に着いてしまった。焦り過ぎだぞっと、自分で(たしな)めたが、う~ん、何ともできなかった。

「久し振り。待った?」

 片手を軽く挙げながら、康幸は待ち合わせ場所に来た。いつもながら、素敵なコーディネイトである。襟のボタンが2つ縦に並び、その下は比翼作りになっているドレスシャツ。その比翼部に黒のラインが1筋あり、襟にもそのラインがある。ボタンホールには黒の刺繍がしてあり、スッキリとしていながら、個性的なシャツだ。その上に、黒のジャケットを羽織っている。コートも黒で、チェスターコートといわれる形だ。首には、差し色でブルーとも紫とも言いがたい、ニュアンスカラーのマフラーが掛けられている。……奥さんの、趣味なのかな。……いやいや、奥さんの趣味でいいじゃない! 私は友達なんだから、素敵だと思うまでは自由だよ! と、見た一瞬にここまで思い至り、笑顔を向けた。

「いいえ。今来たところです」

 と駅の時計を気付かれないように確認したら、まだ来てから10分も経っていなかった。ヤスさんも、早いよ。ふふっ……。

「行こうか」

「はい」

 自然に、手を繋がれた。昼なのに……、外なのに……。嬉しいけど、やっぱりこういう気持ち、やだな……。それでも、その手は離せずにいた。


 開場までの時間、近くのカフェに入る。

「今年、綾美ちゃん「第九」出る?」

「「第九」ですか……。「第九」は合唱連盟だから、出場希望者がいっぱいで。特にアルトはいらないんです。ステージに乗りきらない」

「そっか……、じゃ僕も止めよ」

「えっ、どうして。乗って下さい。聴きに行きますよ」

「いいよ。どうせ、3日連続は無理だし、綾美ちゃんに会えないなら、どっちでもいい」

「トロンボーン、皆んな欲しいでしょうに……。きっと、足らないばっかり」

「いいの、いいの。「第九」は疲れる」

「まぁ、確かに……」

 「第九」とは、ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調 作品125-合唱付き-」のことである。日本人でこの曲を知らない人は、まずいないのではないだろうか。年末になれば、毎日どこかで必ず演奏されている曲である。日本独特の風習であり、世界を見渡しても、こんな現象は日本以外にはない。

 当然、康幸も綾美も音大時代から何度も演奏している。交響曲でしかもベートーヴェンなのだから、オケは普通に大変な曲であるし、最近「第九」の前に、1曲付け加える主催者もいて、本当にオケの人は体力的にも疲労すると思う。更に、祝祭日に当たった日には、昼夜2回公演になるため、体力消耗はハンパないのだ。

 合唱にしても、歌う部分は曲の最後の20分なのに、その前の50分は、ステージの上で微動だにすることも許されずに、オケを聴かなければならない。舞台のライトは熱いので、汗が頬をつたっても、拭うことすらできない。手を動かしてもいけないのだ。また「声」にしても、乾燥する舞台上で延々と待たされ、発声練習もなくいきなり出さなければいけない。皆、入場の際、口に小さなアメを入れて舞台に立つ。が、アメも甘すぎては、逆に喉が渇くという悪循環で、大変苦労するのだ。毎年、ステージ上で倒れる合唱団のメンバーが、1人や2人いるのである。綾美はかれこれ20回近く、乗っていた。

 

「でも、そうすると、次いつ会えるんだろ」

「……そうですね」

「休みの日、昼間忙しい?」

「私はOLですら、たかが知れてます。ヤスさんでしょ、大変なの」

「学会や研究会が結構あってね、昼間や土日も多くて……」

 夜に会えば、平日でも会えることもあるかもしれない。だが、お互いにその事には触れなかった。

「また、会えますよ。ヤスさんの出演するステージがあったら、教えてください。聴きに行きますから」

「それじゃ、足らないよ……」

 ヤスさんは、なんでこういう言葉、簡単に言えるんだろう。こっちで勝手にキュンキュンしてるのが、バカみたい……。

「うん……」

 もっと会いたい。綾美だって、気持ちは一緒だが、家庭があっては都合だって付けにくいだろう。

 康幸はスマホをいじりだした。

「綾美ちゃん、絵は嫌い?」

「好きですよ。何かいいものありますか?」

 綾美も前から覗き込む。

「エルミタージュ美術館展、もうすぐ来るでしょ。見に行こうか」

「わぁ、気になってたの。行きたい」

「よし、決まり。あとは、オペラか……。新国立ならボエームやるよ。だめか。マチネじゃないや……。コンサートなら、やっぱり歌が入った方がいい? それとも……」

「ヤスさん」

「ん……」

 スマホに視線を落としたまま、康幸が答える。

「カフェでお茶するだけでも、いいですよ」

「……」

 顔を上げて、綾美の目を見つめた。

「イベントにしなくても、大丈夫。ヤスさんの時間ができたときでいい」

「綾美ちゃん……」

「ヤスさん、倒れちゃうよ。もしかして昨日、当直だったんじゃない」

「……なんで、分かった?」

「だって、いままでも土曜日の当直多かったし、目が少し赤い……」

「……うん。昨日の夜、ちょっと大変で……」

「じゃあ今日、絶対寝るね。「メサイア」は、字幕見なくちゃいけないし。目が疲れるから。あっ、見なくても分かるか、お医者さんだもんね。論文って、ほとんど英語なんだよね」

「いやいや、基本医者はドイツ語。英語は分かるけど、これイエスキリストの一生のこと知ってないと、分からないよ。預言と降誕、受難に、復活だっけ。聖書のこともよく分かってないと……。字幕、当てにしてます」

「じゃ、やっぱり寝るなぁ。まぁ、ゆっくり寝て。あっ、でも「ハレルヤ」は起きてね。このヘンデル・ムジカ主催の「メサイア」は、正式に皆「ハレルヤ」で起立するの。そこで目が覚めれば、そのあとのトランペットは聴けるね」

「起立って、国王が感動のあまり立ち上がったっていう、あれ?」

「そうよ。しかも、この演奏会では、観客のほぼ全員が立ちます」

「へぇ、そうなんだ」

「創立以来、毎年「メサイア」だけを歌って、50余年。聴衆も、見事ですよ」

「綾美ちゃん、乗ったことあるの?」

「音大の時から母が倒れる前まで、3回乗った。ベテランさんばかりでね、あの分厚い楽譜を暗譜してるんだよ。びっくりした。今日も何人か楽譜持ってない人、いるんじゃないかな。あれ重いから、大変なの」

「そうなんだ。ちょっと、楽しみになってきたな」

「やだぁ、楽しみじゃなかったみたいじゃない」

「綾美ちゃんに会うのが目的だったから」

「……ヤスさん」

 咄嗟に顔を俯かせる。しばしの間のあと、小さく呟いた。

「……ないかと」

「何? ごめん、聞こえなかった」

「もう……、連絡ないかと思ってました……」

 そういって、何とか笑顔を作り、前を向いた。

「……、友達だよね。連絡するって、言ったでしょ」

「うん……」

 だけど、3週間は長いんだよ。知ってる? ずっと待って……、やっぱり遊びのつもりだったのかなと思ってみたり、でも、帰りの新幹線ではずっと手を繋いでいてくれたし、とか、やっぱりそれ以上になっちゃいけないんだから、2人で会うのはいけないよねだとか、もうずっと悩んで、合唱の練習もサボっちゃって、新城さん達に心配まで掛けちゃったんだから……。分かってないでしょ……。

 この3週間のあれこれを思い出して、涙腺が弱ってしまったらしい。こぼれる前にまた、すぐ俯いた。グズグズする女は嫌いだ。ぐっと唇に力を入れて目を一度だけぎゅっとつむって、涙を飛ばした。

「でも、3週間は長かったな。ごめん。忙しいのは、理由にならない……」

 康幸は実は迷っていた。連絡はすぐにでもしたかったし、本当はもっと早くに会いたかったが、今の状況では綾美が苦しいだろうと思ったからだ。だが、会わないのはお互いもっと苦しいのだと分かった。加藤君と新城さんのお陰だな……。それに、新田君も……。

 綾美が、言いにくそうに尋ねる。

「あの……、LINE見られること、ありませんか……」

 誰に? あぁ、そうか……「奥さん」ね。そう考えるよな、普通。ホントにダメだな、僕は……。

「大丈夫。前みたいにLINE欲しいし、僕からもするから」

 心配そうに伺っていた綾美の顔が、パッと明るくなる。

「よかった。じゃ、連絡します。忙しかったら既読スルー、全然大丈夫だからね」

 ピンポンと、綾美のスマホがLINEの着信を知らせた。

「了解」

 と出ている。目の前の康幸からだ。

 驚いた綾美の顔が、どんどん笑顔になる。急いで綾美もLINEの操作をしだしたが、独り言のように「あ、これはダメだ」といって、止めてしまった。康幸は慌てて確認する。

「何? 何送ろうとしたの?」

「なんでもない、なんでもない……」

「見せて」

 といって、打ちかけの画面を見たら、ハートマークを飛ばしながらお尻をフリフリしているパンダのスタンプを選ぼうとしていた。康幸がそのまま送信ボタンを押してしまう。

「やだ、送っちゃったじゃない。削除するから、待って」

「ダメだよ。これ見て、仕事頑張れるじゃない。削除しちゃ、ダメ」

 といって、頭をポンポンされる。目をしばたかせて、あっけに取られるが、また、嬉しさが駆け上がってきた。全身が、幸せに埋もれてしまいそうだ。罪の意識が、片隅に追いやられていく。こうやって、理性は小さくなっていってしまうんだなと、なんだか冷静に分析してしまった。

「そろそろ、会場入ろう」

「はい」

 そう言って、カフェを後にした。


 席に着くと、まずはパンフレットを膝の上に開いた。今日は、このパンフレットも大変役に立つし、見ないといけなくなるからだ。曲の解説に加え、歌詞の対訳が必ず載っている。これさえあれば、途中、たとえ字幕を読み損なっても、なんとかなる。

 康幸も隣で、曲の解説を読んでいる。ざっと目を通せば、ストーリーは分かるし、曲ごとの作曲的解説もとても丁寧にされているので、あっという間に頭に入れてしまうだろう。

 しかし、もしヤスさんを起こさなきゃいけなくなったら、どうやって起こそうかと考えていた。彼も同じことを考えていたようで、手を差し出された。

「やっぱり寝るといけないから、手、頂戴」

 といって、繋がれた。これ、相当、うれ+恥ずかしい……。

 そんなことをしている間に、会場の照明が落ちる。オケのチューニングが始まり、合唱が入場する。ソリストが出てきて着席し、最後に指揮者が登場した。万雷の拍手の後、会場が静まる。タクトが上がり、音が始まった。これから3時間近く、どっぷりと古典音楽のヘンデルに浸る。

 すると、繋いでいた手を、康幸が組み直した。指まで組む、恋人繋ぎ……。ねぇヤスさん、そんなに何でも、当たり前のようにしないでくれるかな。せっかくの序曲が全く頭に入ってこない。金沢の夜を、思い出してしまう……。ヤスさんのキスは、柔らかくて優しかった……。ねぇヤスさん……、奥さんにも、あんなキスするの……?


 なんの前触れもなく、涙がこぼれた。あんまり急すぎて、止める間がなかった。でも、私が泣いてるのは、おかしい。もし分かってしまえば、私は奥さんに、同じ想いをさせてしまうのだ。私よりもっと辛い涙を流す。私が泣いていいはずは、ない……。でも、でも、ヤスさん。やっぱりもう、私以外の人にあんなキスはしないで……。瞬きをすれば、もう一筋涙がこぼれた。私は、本当にイヤな女だ……。

 目にゴミが入ったかのように取り繕い、涙を拭った。


 康幸は、目を瞠った。今、綾美の頬に涙が伝った。今日の席は、少し下手側だ。そして、綾美は康幸の右側に座っていた。だから、視界に自然に入ってしまった。

 綾美ちゃん、今、なんで泣いた? 何かを思い出してるのか……? それは、そんなに辛い思い出なのか? 僕は、まだ知らない。聞いてない。一体、何があったんだ。頼むから、そんな風にごまかして泣かないで……。いつか僕は、その話を聞けるのだろうか……。

 康幸が、繋いだ手をそっと握り直す。綾美も、それに応える様に、そっと握り返した。

 

 第4番の合唱が始まって、綾美はアルトのメンバーに目を凝らした。序曲に続き、テナーのソロの後の、初めての合唱曲だ。しかもアルトが出だしを担う。低い音なので、きっちり音が響きにくいのだが、しっかりした声が出ていた。

 一旦繋いでいた手を離して、慌ててパンフレットの後ろの方を探す。合唱団メンバーの全員の名前が載っているページだ。そして、そこに知った名前を見つけた。協賛出演になっている。やっぱり、いい声だと思った……。

 隣でパタパタしていたので、康幸が「どうかした?」と目で聞きながら、もう一度手を繋いできたので、「あとで」とこちらも目で返しておいた。そういえば、ヤスさんの友達が出てると言っていたけれど、どの人なんだろう。聞くの忘れてた。後で教えてもらおう。


 今年のアルトソロは、いただけない。そのメリスマは、ヘンデルのものではない。もっと後のロマン派のものだ。声はいいんだけど、残念。彼女が歌い出すと、音が粘る。音楽が進んでいかない。聴きづらい……。ほら、引き継いだ合唱の方が、よほど生き生きと歌う。

「『見よ、あなた達の神だ』と皆に知らせるのだ」と。


 テナーの合唱メンバーは相変わらず少ない。このパートの顔である千田が、まだ歌っている。私が歌っていた時に既にベテランだったのだから、本当に20年は歌っているのではないか……。彼も暗譜をしている人の1人だ。その合唱が、第1部で最も喜ばしい曲を歌う。

「1人の嬰児(みどりご)が生まれた。素晴らしい君、平和の王子と呼ばれる、男の子が」


「寝てないかな~」と、そっと隣に目をやって、世界が止まってしまう……。康幸が隣で、繋いでいない方の手の甲に頬を置き、ステージを見ている。ステージから漏れた光がその顔を闇に浮かび上がせる。まるで、スチール写真の1枚を見ているよう……。綺麗……。目が離せない。それでも何とか気づかれる前に目線を外す。この光景は、目に焼き付いて離れなくなってしまうのではないだろうか……。

 その康幸が、音に反応した。トランペットの登場である。始まってから、50分程経っている。第15番「いと高きところには神に栄光あれ」。神を称える曲に、トランペットの音は相応しい。このペットが、第3部の「かっこいい」ペットも吹く。いい音だ。思わず康幸の方を見て、「いい音だね」と顔で伝えた。康幸はニッコリ笑って小さく頷いていた。

 合唱を合図に、第1部が終わる。ここで、休憩に入った。第2部と3部の間は休憩がない。この休憩が、唯一の休憩となる。


「綾美ちゃん、コーヒー飲もう」

 そういって、ホールのラウンジに向かう。すでに大勢の人でごった返していた。

「寝なかったね。さすがです」

 康幸は、微笑んで綾美の分のコーヒーも買ってくれた。康幸としては、実は元々寝るつもりはなかった。舞台で音がしている中で、寝ることはない。ただ、綾美の手を繋ぐための口実が欲しかっただけだ。

「あとでって、何だった?」

「あのね、今日アルトに珍しい人が乗ってるの」

「?」

「牧原花梨さん。あの、谷也修二の奥さん」

「どっちも、わかんないなぁ」

「えぇー、楽器の人って、たまにビックリするほど歌の情報、抜けてるんだよね~」

「で、誰?」

「この間、ヴェネチアの劇場でドニゼッティの『連隊の娘』を歌って、大成功を収めたテノール!」

「ほぅ……。あっ、もしかして前園さん?」

「そう! やった。繋がったね」

「奥さん、アルトなの?」

「うん。昔、1度だけ一緒に歌ったことがあるの。今はほとんど歌ってないはずだから、ほんとに珍しいと思うよ。アルトパートがすごくいい声だったから、すぐに気が付いた」

「へぇ」

 といって、康幸は眼鏡を外して、目頭を押さえた。

「目、疲れた? ねぇ、その眼鏡、見せて」

「ん? これ?」

 と渡してくれた眼鏡を掛けてみる。

「ふわ~、強いね。乱視?」

「ん……、小学生の時から……。綾美ちゃんは、コンタクト?」

 そう言いながら、目をつむって眼鏡を返してと顔を向け、そのまま待っている。その顔に、眼鏡を戻してあげようとして、手が止まった。

 ヤスさんの眼鏡外したところ、初めて見る。寝るときはこんな顔してるのかなぁ……。寝顔、私一生見れないんだ……。


「綾美ちゃん、今度そんな顔したら、キスするよ」

 目を開けて、少し怒った顔で言われて、ハッと我に返る。「いかん、いかん」と、慌てて眼鏡を掛けてあげた。

「そんな顔って、自分じゃ分からない……」

「今にも、泣きそうな顔……」

「……」

「何、考えてたの……」

 真剣な目をして、聞かれる。答えることは、できないよ。顔を横に振り、コーヒーを手に取った。

「綾美ちゃん……」

 と言いながら、康幸が綾美の首に手を回したところで、突然館内放送が流れた。クラシックの演奏会で、こんな放送は珍しい。なんだろうと、皆が耳を澄ます。康幸も、綾美の体から手を離した。


「谷也修二様、いらっしゃいましたら、楽屋までお越しくださいませ」


 会場が一斉にざわつく。「えっ、今日来てるの?」「どこ、どこ?」と、まるでアイドルが突然登場したかのように騒がしくなった。しかし、この放送は1度だけで終わり、その後何事もなく休憩は続き、演奏再会のベルが鳴り響いた。綾美達も、客席に戻った。


 第2部が始まる。今までの喜びに満ちたものとは、一線を画す。受難のステージに移るのである。民衆に裏切られ、十字架を背負い、処刑される場面だ。ただ、この「メサイア」は、そういった直接的な様子は一切テキスト(歌詞)には出てこない。あくまでも聖書をもとに、抽象的な表現で終始するのだが、いかんせん、作曲が悲壮に満ちていて、いやでも暗く重い曲が続くことになる。実は「メサイア」は、ここからが長いのである。


 オケと合唱が座ったところで、ソリストたちが再登場した。その姿に、会場から声があがる。先程の放送の意味が、やっと分かった。

 テノールが、谷也修二に代わっていたのだ。しかも、彼は舞台衣装を着ていない。私服と思われる、マオカラーのシャツのボタンを1つ外し、その上にジャケット、下はジーンズのいで立ちだった。もう、会場が騒いで、静かにならない。これでは指揮者も出てこられないだろう。すると、ここでもう一度放送が流れた。

「本日、テノールが急病のため、只今より、変更させていただきます」

 歓声が上がった。指揮者が下手より、飛ぶように入ってきた。そのまま、谷也のところに向かい、彼を立たせてハグをする。谷也は、ここで改めて客席にお辞儀をした。客席から拍手が沸き起こり、その間に指揮者は指揮台に上がる。それで観客も納得し、第2部が始まった。

 合唱から始まり、アルトソロと引き継がれる。順調に音楽はキリストを鞭打ち、死に向かわせていく。ここで、テノールソロの曲になった。客席が、息を止めたようにシンとなる。

 第24〜25番レチタティーヴォと合唱で、民衆がキリストに罵声を浴びせた、と歌う。

 そして、第26〜28番。民衆から見放されたキリストの砕かれた心を歌い、このような苦しみを味わった人が、この世に他にあるだろうかと悲しむ。受難の中の最後を締めくくる悲痛に満ちた「嘆き」の曲である。そしてとうとう、キリストが死を迎える。テキストの中には十字架も死という言葉も一切出てこない。ただ「生けるものの地より、絶たれしなり」とあるだけだ。

 第29〜30番。テノールと合唱でキリストの復活を歌う。

 溜息が漏れた。谷也の周りだけ、違う舞台かの様に見える。オケは海外の一流オーケストラで、合唱も劇場付きのプロの合唱団。指揮者はドイツ生まれの黒い瞳の端正な棒……。そんな幻影が、綾美の瞳に映っていた。

 体調を崩したテノールも悪くなかった。「メサイア」に相応しい声で、アルトよりよっぽど聞きやすかった。しかし、谷也の声を聞いた後では、もう彼以外は、何者も歌って欲しくないという気持ちにさせられる。これが、世界に通用するテノールなのだと、誰もが感じたに違いない。「愛を歌う」といわれる谷也が、「嘆き」を歌う。だからこそ、心を締め付ける。「愛」を知らなければ「嘆き」は歌えないということなのだろう。

 綾美は、花梨に目を移した。どんな気持ちで、急遽代役を務めることになった旦那様を見ているのだろう……。花梨は、実に誇らしげに、けれど最大の注意を払いつつ、愛情を持って谷也を見つめていた。心配も、身内ゆえに他人の数倍あるに違いない。それでも、その佇まいには夫への絶大なる信頼が見て取れる。まさしく、マリア様のようだと心を打たれた。

 これが、夫婦というものなのだろう。……ヤスさんも、そうなの? 繋いだ手のぬくもりは感じても、その答えは返ってこなかった。

 

 長い長い受難の時間は過ぎ、復活を遂げ、神の世界への昇天を称える時が来た。「ハレルヤ」コーラスである。前奏が始まると同時に、会場全体がワラワラと動き出す。ソリスト達も、皆起立し合唱に加わる。康幸と共に、綾美もその場で起立した。

 この曲で、国王が思わず席を立ったというのが、2時間近く聴いてきた後では、よく分かる。突出しているような気がする。

 ヘンデルはこの大曲を、24日余りで書き上げたと言われている。実際に日付が記されている。もともとヘンデルの作曲は早かったらしい。この時期、作曲に専念していたため、この短期間での作曲もさして不思議なことではなかったらしい。

 しかしその中にあっても、この「ハレルヤ」は、きっと天上から降ってきたに違いない。それくらい、まるで別の生き物のように輝いている。荘厳に満ち、4声パートの重なりも厚い。聞いたことがないという人は、是非1度でいいから、聞いてみて欲しい。ティンパニーとトランペットが、実にいい仕事をしている。

 まさに「ハレルヤ=ハレル(誉め称えよ)+ヤ(主を)」である。ブラボーコールの中、第2部が終了した。


 舞台上、会場全体が着席するのを待って、第3部にそのまま入る。キリスト教において、復活のラッパは特別なものだ。死んだ自分が、このラッパの音で甦るとされる。そう、あの「かっこいい」トランペットの登場である。

 舞台の下手側にずっと座って待っていたトランペッターの音が鳴り響いた。いい音なのは間違いないが、最初のファンファーレの後、8小節のメリスマを息継ぎ無しで吹いてしまった。普通は大抵4小節でブレスを入れるから、この奏者は息も長い。破綻の心配すら感じさせない、見事な出来栄えである。どこから連れて来たんだろ……。素晴らしい。思わず康幸の手を握り締めてしまった。あっ、ごめんごめん。興奮しちゃったんだよ。後で、謝ろう。確認しなかったけれど、隣で小さくヤスさんが笑ったような気がした。

 そうだった。もう、ここまでくれば眠る可能性はないから、手を離しておけばよかったのだと、ずっと後になって気が付いた。

 舞台上では、最終曲「アーメン」コーラスが続いている。数ある「アーメン」コーラスの中でも、綾美も好きな曲の上位にある。「アーメン=(神の言われる)その通りである」との意味通り、3時間、本当にご苦労様でした! ブラボー!

 そしてもちろん、谷也修二には何度となくアンコールの拍手が送れられた。リハーサルもなく、音合わせもなく、きっと、初見(しょけん)に近い状態だったのかもしれない。それでもきっちりと歌いきってしまった。きっと、全てを超越した彼の才能が、このステージに注ぎ込まれたに違いない。ステージ上の、オケ、合唱、他のソリスト、指揮者、そして、花梨さん……。全ての人々が彼に惜しみない拍手を送っていた。


「綾美ちゃんと演奏聴くと、面白い」

 2人で楽屋に向かっていた。康幸が友達に挨拶しに行くという。

「面白い?」

「だって、いちいち反応が分かりやすいから」

「あぁ、トランペットの時、ごめんね~。思わず興奮して、手握っちゃった」

「そんなによかった?」

「よかったでしょー! あれ気に入らなかったら、ヤスさん『通』すぎるよ」

「じゃ、紹介するよ」

「誰を?」

「トランペット」

 ええーっ、友達って、あのトランペッターだったの! ヤスさん、手、手……。離さないと……。そのまま綾美を引き連れて、楽屋まで到着してしまった。


「お疲れ」

 トランペットを吹いていた岡島を廊下で見つけ、康幸は後ろから声を掛けた。

「おう、ちゃんと来てくれてたか。関心、関心」

 下だけに黒縁がある眼鏡に、髪は緩くカーブが掛かっていて、ワックスでちゃんと整えてある。この人、きっとモテるし、そのことを自覚もしてる人だ……。綾美は康幸の横に並び、そんなことを思いながら2人のやり取りを聞いていた。

「彼女が、トランペット良かったって言うから、一応教えとこうと思って」

「何だ、それ。お前的には、どうだったのよ」

「まぁ、一応合格点だな」

「うわ~、相変わらず辛口だなー」

 康幸が綾美の方に顔を向ける。どうやら、挨拶してもいいらしい。

「そうですよ、ヤスさん辛口すぎ……。すっごく良かったです。久々に納得の43番でした。もう、トランペットの音、吸い込まれそうでした! 華やかで(きら)びやかで! 握手して下さい」

 と、手を出そうとしたが、康幸が……、離さない。

「……」「……」「……」

 綾美は繋いだ手を見て、康幸は綾美の顔を見て、岡島はそんな2人を見て……、3人で一瞬沈黙する。

「こんな奴と、握手なんかしなくていいよ」

 康幸の言うことを無視し、繋いでいない方の左手で、康幸の手首を掴んで無理やり離した。

「大変だね……」

 岡島にそう言われながら、無事握手を交わす。

「サインもいいですか?」

「サインっ!」

 また、康幸にジロッと見られ、それには反応せずに、パンフレットの岡島を紹介しているページにサインを貰った。

「ありがとうございます……。岡島さんのトランペットと、ヤスさんのトロンボーンと、一緒に聞いたら、いいでしょうねぇ。響きが、すごく似てる気がする……」

 と、思いついたことを呟いていた。それを聞いた2人が、驚いて顔を見合わせる。

「同じ、工房なんだよ。僕らの楽器……」

「そっかー、そうなんだー、だからかー。いつか、聞かせてね、ヤスさん!」

 と無邪気な笑顔を見せられ、康幸もさすがに素直になった。

「うん……」


「もしかして、綾美ちゃん!?」

「わぁ、花梨さん! お久し振りです!」

 あの花梨に声を掛けられ、綾美は合唱団の輪のほうに連れて行かれてしまう。それを見ていた残された男2人は、どちらからともなく話を始めた。

「また、可愛い子連れてきたな……」

「……」

「前と全然タイプが違うぞ。お前、節制がないな!」

「お前に言われたくない! まぁ、確かに前とは真逆だが……」

「本命か?」

「どう思う?」

「本命だな……」

「なんで、そう思う」

「さっきの握手、お前本気で怒ってたろ」

「……手、出すなよ!」

「ほらな。そんなセリフ、今まで聞いたことないぞ。それに、あれだ。孝子のときは見るからに、どうなるか不安だったが……、こっちはお似合いだ」

「そうか?」

「そうだよ。お前が『うん』なんて素直に言うだなんて、他の連中が聞いたら卒倒するぞ」

「悪かったな……」

「まぁ、怒るな。お互い歳取ったわけだし、実際、彼女は可愛い」

「だからっ!」

「保証できんなぁ、恋に落ちるのは一瞬だ。『吸い込まれそう』なんて言葉、一生忘れんぞ。しかも、俺はまだ結婚をしていない。ふふん」

 イジられているのは分かるが、笑えない……。

「まだ、僕の彼女ってわけじゃない……」

「お前、40の医者が何やってるんだよ!」

「色々必死なんだよ、こっちも……」

「……そうか。まぁ時間できるようなら、連絡くれよ。また、久し振りに4重奏やろう。俺は、かまわんよ。彼女に聞かせてやりたいんだろ」

「ああ……、連絡する」

「じゃあな」

「お疲れさん」

 確かに、綾美の言葉は人の心に入り込む。しかも、それを無意識のうちにする。つまり、そこには嘘がないということだ……。でも、誰にでもあれは、ダメだぞ……。


「花梨さん、どうして乗ってるんですか!? 4番始まって、ビックリしましたよ。花梨さん乗るって分かってるんだったら、私も乗りたかった!」

「シスターさんに泣きつかれちゃって。今年、アルト少し足らなかったみたいでねぇ。修二さんも、スケジュールが落ち着いてる時期だったから、いいよって言ってくれて。綾美ちゃんいてくれたら、助かったのに。残念だったわ」

 シスターとは、このヘンデル・ムジカ協会の会長である。本物の、シスターだ。この合唱団は、彼女のいる教会を、いつも練習会場に借りている。

「谷也さん、すごかったですねぇ。予定してたんですか?」

「いえいえ。本当に、休憩のときに話が決まったの。彼、学生のときに「メサイア」ソロ経験したことがあってね。「いいよ」って」

「かっこいい~! 今日の舞台、伝説になりますよー! やっぱり、谷也さんは持ってますねぇ」

「もう、綾美ちゃんに掛かると、アイドルになっちゃうわねぇ」

 ふふっと笑いながら続ける。

 後に綾美が聞いた話によると、打ち上げの席で谷也は「妻とはもう同じ舞台で歌えないと思っていましたので、一緒に歌う念願が叶ってよかった」と挨拶をし、花梨を思わず泣かせ、皆から「ヤンヤ」と拍手喝采を受けたらしい。

「テナーの彼、朝からすごい熱だったんだけど、頑張って第1部まではあの通り歌えたんだけど……。袖に引っ込んできたら、そのまま倒れちゃってね。救急車で運んだのよ。そしたら指揮者に、修二さんは今日聞きに来てないのかって聞かれたから、来てるはずですって話になって……。強引ね、いつも指揮者は」

 といって、最後の言葉は周りに聞こえない様に、綾美に耳打ちした。

「この会場に、神様が降りてきてたんですよ!」

「あら綾美ちゃん、相変わらずね、そういうところ。……ちゃんと、歌ってる?」

「はい。何とか続けてます。今度「復活」と「カルメン」歌います」

「あぁ、来年ね。カルメンのリーフレット見たわ。頑張ってるのね。安心した」

「ご心配掛けて……」

「さっき、一緒にいたのは、彼氏さん?」

「ええっと、お友達です」

「そう? お似合いだわよ……。もう、ケガは大丈夫?」

「はい……。すっかり良くなりました。あの、谷也さんと花梨さんと、写真無理ですか? あと、サインも~!」

「ふふっ。聞いてみるわね。一緒に来て」

 そこで花梨は、離れて見守っていた康幸を見ながら

「彼もいっしょに、撮りましょ」

 と綾美に伝えた。綾美も「やったー」といいながら、康幸を手招きした。

「どうした?」

「一緒に、写真撮ってくれるって。ダメ?」

「そりゃ、ありがたい。LINEで送ってよ」

「うんうん。送る。やったね!」

「ところで、さっきから少し気になってるんだけど、綾美ちゃん今日、ちょっとキツイ? 貧血」

「……、なんでバレちゃうの」

「一応、医者なのでね。鉄剤飲んでて、いつまでもは、おかしいな? 主治医はなんて?」

「あの……、お医者さんとして、言うね。今日、女の子なの……」

「そういうことか。痛みは? 大丈夫?」

「薬飲んでるから……。何だか、恥ずかしい……」

「気にしないで。原因が分かったほうが、安心するから」

「うん……」

「じゃ、今日、夕食一緒に行けるね! ラッキーだ」

「どうして、そうなるの……」

「だって、どっちにしろ手が出せないだろ」

「……、ヤスさんってホントにお医者さん?」

「心外だな、診察しようか? 全身くまなく……」

「ほら、やっぱりお医者さんじゃない気がしてきた……」

 はははっと笑って、谷也夫妻の待つ楽屋の前に到着した。


 無事、4人の写真と、パンフレットの表紙にサインを貰い、花梨たちと別れた。

「あれ~、綾美ちゃん。久し振りだねー。また、歌いに来てよ」

「千田さん。相変わらず、テナーの顔ですねぇ。もう、20年以上ですよね。すごい!」

「26年目。もう、声出ないよ。若い世代に、交代したい……」

「またまた~、言うだけですね。顔は、誰にも負けないぞ~って言ってますよ」

「綾美ちゃんには、かなわないなぁ」

「そういえば、1人いいテナーがいましたね。ヘルプですか?」

「やっぱり、分かる? 綾美ちゃんの後輩。桐朋の2年生。おーい、野浦こっち来いよ」

「ノウラ君? 変わった苗字ね。どの先生?」

「堀先生です」

「なるほど……。他の先生にはついてる? そこまで掴んでるなら、イタリアの先生に見てもらった方がいい。どうする? 紹介できるよ」

「LINE交換して頂けますか」

「でも、続けなきゃ、どんなにいい声でも、そこで終わりだからね。ノウラ君、ちょっと今、自分の声に迷いがなさすぎる……。君なら、もっと上があるよ」

 野浦は、衝撃を受けた顔をして、LINEを交換した。その後ろから女性が小走りでやってくる。

「綾美ちゃ~ん、聞いてくれた~?」

「今日、ソプラノ良かったですよ~。やっぱり登喜江さんいると、まとまりますねぇ」

「もう54になるから、声の出し方変えないとダメかな……って、最近思ってるんだけど。まだ若い綾美ちゃんには分からないか……」

「あのね、私のお友達のコロラトゥーラさんがね、61歳になられたんだけどね、今が一番声が出てるのよって言ってらっしゃいました。声は、年齢ではないらしいですよ」

「そっか~、先生のこと、信じるかな……」

「ちょっと飽きました? 今の先生」

「う~ん、言われること一緒だから……。だれか、いい先生知らない」

「私の大好きな先生、受けてみます? 1コマ2万ですが、半コマもありますよ」

「行く! 教えて。LINEで送って」

 今度は男性合唱の控室の前で呼び止められる。

「綾美さん、なんで歌いに来ないんですかー。そうそう、今度10人くらいのアンサンブルしようと思うんだけど、参加しませんか? あと、オルガニスト知りません?」

「三瓶さん、ダメなの」

「えっ、その人知りません。紹介してください。参加の方は?」

「ごめーん。今は時間が足りないの。演奏会聞きに行くから、ちゃんと連絡してね~」

「おぅ、綾美ちゃんじゃないか! ……」 


 康幸は、次から次と来る合唱団のメンバーを捌いていく綾美に、正直驚いていた。

「じゃあね~」

 と楽屋を後にして、やっと2人きりになる。

「綾美ちゃんって、コンサルタント?」

「? 何の?」

「歌を歌う皆さんの……」

 楽屋の出口に向かいつつ一緒に歩いていたのだが、綾美が足を止めた。

「? ねぇ、分かんない……。ヤスさん、な~に?」

「やっぱり綾美ちゃん、楽しいな。まるで、別人だ」

「……。もう、分からないから、お腹空いた。ほんとに、夕食一緒に行けるの?」

 笑いが止められない。先程までの、まるで優秀な外科医の様な、的確でスピーディな判断力のキャラクターとは似ても似つかないホンワカキャラに戻っている。そもそも、なぜ夕食を一緒にしないのか、そのことも忘れているのではないのか。

「中華にしようか。美味しいところ、知ってる。この近くだから」

「わーい、行く行くー! 青菜炒め、食べる~」

 また、綾美の手を繋いで、歩き出した。


 夕食後、駅に向かう。歩くと10分程かかる。紹興酒で火照った頬に、冷たい風が気持ちよかった。

「ホントに美味しかった。やっぱりお医者様は、美味しいところ知ってるんだねー」

「口に合って、よかった」

「あれが口に合わない人、いるの~?」

 今日は演奏会なので、コートの中に少し薄手のプチフォーマルを着ている綾美の首元が、寒そうだった。

「綾美ちゃん、寒くない。マフラー貸そうか?」

「貸して、貸して。ふふっ」

 少し酔っているのだろう。綾美が楽しそうにマフラーに顔を埋める。

「一緒に飲めて、嬉しかった。わぁ、これ、ヤスさんの匂いがする。ん~、ヤスさんだ~」

 巻いたマフラーの上から両手を添えて、頬をスリスリしている。綾美ちゃん、それは……、反則だ!

「綾美ちゃん、酔っても、他の男にそういうこと言っちゃ、ダメだよ」

「えっ、何で?」

「……、決まってるでしょ。みんな綾美ちゃんを好きになるから」

「そんなわけないでしょ~。ヤスさん、面白いなぁ」

「真剣に、言ってる!」

 目を見て、笑わずに言われる。ヤスさんばっかり、ずるい……。

「……、じゃあ、じゃあ、私だって約束して欲しいことある」

「何?」

「……」

「何、言ってみて」

「今日だけは……」

「ん……」

「今日だけは、奥さん、抱かないで……」

「!」

 そんな風に考えてたのか……。それは、綾美ちゃんキツイな……。

「綾美ちゃん、信じないかもしれないけど、綾美ちゃんと会ってからは、そういうこと、してないから」

「うそ! そんな嘘、いらない……。今日だけでいいの……。私と会った時だけ……」

「嘘じゃないよ。信じてくれていい……」

 だが、そうだ。確かに、そう考えるなら、永遠ではないのだ。彼女はちゃんと、分かって言っている。だから、今日だけ……。

 もうたまらず、綾美を抱きしめた。後、どれだけ我慢させたらいいんだ……。

「分かった。指1本、触れない……」

 私、最低だ……。綾美は康幸の腕の中で、自分の醜さに息ができなかった。

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