年下の彼
土曜日の総合病院は、忙しさが尋常ではなくなる。朝9時には、待合室に軽く100人はいると思われる。もちろん、付き添いの人もいるが、冬はとにかく内科は忙しい。風邪にインフルエンザに、感染症と、夏に比べると倍増する。寒さは人を病気に近づける。
「先生、相模先生が先程救急に呼ばれたので、暫く初診の患者さんよろしくお願いします」
看護師が通路から顔だけ出して通告していく。
「分かりました……」
3人の医師で回していたところを、1人取られれば、後は言わずもがなである。康幸は考えないようにした。目の前の患者さんに集中しなければ、逆に疲れは倍増する。
よく総合病院では、2時間待たされて、診察は10分といわれる。その理不尽さは、康幸は充分理解している。だが、どう努力してみても、ひとりでは変えることはできない。できるだけ患者さんの目を見て診察し、患者さんの言う事に耳を傾けることを信条としてやってきた。それでも、「どうしてそんなに医者の先生は、冷ややかなのかねぇ?」と面と向かって言われた時は、衝撃を受けた。まだまだ初期研修医を終えたばかりの頃の話だ。
その人は、月岡さんという70歳の患者さんだった。脱腸の症状があり、今まで様子を見ていたのだが、症状が頻繁に起こるようになってきたため、今回手術をすることになり、昨日入院した。ただ、肝臓と腎臓も患っており、薬を多く飲んでいる。本人曰く五代続くチャキチャキの江戸っ子だそうだ。
「すみません。何かお気に障りましたか?」
初期研修医の時の名残で、朝時間がある時は、担当した患者さんのところを回って血圧などの確認をしていたのだが、その時のことだった。思わず丁寧な言葉で質問してしまい、丁寧すぎたと反省しながら相手の言葉を待った。
「いやさ、医者っていうのは、もっとこう、親身になって患者の話を聞くもんかと思ってたんだが、どうも今の医者ってのは、そうじゃねぇんだなぁ」
「何か、心配事でもありますか?」
「だってよぉ、看護婦も先生も、みんなパソコンに向かってカチャカチャやったまんまの顔でこっちを見て話をするだろ。俺は、機械じゃねぇってんだ」
「あぁ……」
カルテは今、全て電子カルテになっている。昔のように紙に手で書くだけでは終わらないのだ。確かに、顔に表情がないまま患者さんを診てしまっているかもしれない。
「すみませんでした。これからは、気をつけます……」
「何だ~、先生。意外と素直だな。まだ、先生になり立てか? 歳、いくつだい」
「28歳になります」
「あれま、浪人した口かぁ? 大丈夫かぁ? 俺は、そんな先生に診てもらうのかよぉ」
情けない声で言われ、少しでも信頼してもらいたくて、思わず言い訳が口をついて出た。
「あっ、いえ、違う大学を卒業してから医大に入ったので……」
「ほぉ、面白しれぇ。何だい? 違う大学って」
「音大を……」
「なんだぁ~? 音大って音楽勉強するところだろ。先生、変わってんなぁ」
「……」
バイタルの確認をし終わり、月岡の腕を元に戻す。次の患者さんに移動すべく顔を上げ、挨拶した。
「またお話し聞かせて下さい。では」
「おぅ。暇してるから、いつでも来な」
いやいや、こっちは死ぬほど忙しいんだから、無理ですってば! そう思いながらも、その後、何かと月岡のほうから話しかけられることが多くなり、5日後の退院の前の日には、少し寂しさを感じるほどになっていた。
「月岡さん、明日退院ですね。予定通りです。よかったですね」
午後の少しだけ時間に余白ができた時、病室に顔を出した。
「まあな。今回は穴塞ぐだけだからな。よかったよ」
「肝臓と腎臓のこともありますから、油断せずにちゃんとお薬飲んでくださいね」
「薬で腹いっぺぇだ。何とかならねぇか」
「そうですねぇ……」
出ている薬を改めて確認し、伝える。
「どれも、必要なお薬ですね。敢えて言うなら、かゆいときに飲む薬……、えっと、薄いピンクの楕円形の薬ですけど、あれはかゆみがなければ飲まなくても大丈夫ですよ」
「かゆいんだよ。あれは、飲む」
「そうですか……。じゃなんとか頑張って、続けてください」
「先生は内科だろ?」
「はい」
「じゃ、先生が頑張って、世の中の病気、全部薬で治るようにするんだな」
「それは、無理だと……」
「俺はさぁ、外科は信じちゃいねぇ。切る事は治る事とは違うからな」
「でも、切って治ることも一杯ありますよ」
「そりゃ、治るんじゃねぇ。切って無くなるだけだ」
それで痛かったところが痛くなくなるんだから、治るってことでいいんじゃないのか?
「再生しなきゃ、意味はねぇ。別の苦しみが来るだけだよ」
「それは……」
「元の体には戻れねぇし、無理やり傷つけたもんは、やっぱりどっかで歪が起きる」
「でも、痛くなくなることは、生きることに繋がりませんか?」
「いいねぇ、先生。あんたは正しいよ。そう、繋がるまでだ。それが分かってれば、充分だ。切ったら治るなんていう奴のことは、俺は信じねぇ」
「月岡さん……」
「俺はさ、死ぬ時はさ、動物として自然な形で死にてぇんだ」
「動物としてって……」
「うちの婆さん、92歳で亡くなったんだが、そりゃ綺麗だったぜ。枯れ木みてぇにやせ細って、亡くなる2週間前から水も飲まなくなって、最後の1週間は寝っぱなしだった。あれが、人間の本来の死に方だ」
婆さんとは母親のことらしい。自宅で訪問看護の末、亡くなったとのことだ。
「口から物食えなくなったら、野生の動物なら死ぬだろ。それが、自然なんだよ。点滴だの胃ろうだの、無理やり体に入れたって、そりゃ無理ってもんよ。水でぶよぶよになって死にたかぁないんだよ。きちんと、枯れて死にたいねぇ。俺はずっとそう思ってるんだよ」
「月岡さんは、まだまだ死にませんよ」
「透析何ざぁ、クソ喰らえだ! ありゃ医者の自己満足だよ」
あぁ、そういうことなんだと、康幸はここまで聞いて、初めて気がついた。月岡の腎臓はこのまま行けば最終的には透析に至る。そうならないように、必死に養生して、食事制限をして、薬を飲み続けている。だからこそ、そこまでして生きる意味を、常に自分に問うているのだと、そして、言い聞かせているのではないかと、康幸は思った。
「そうですね。全ての病が、薬で治るときが来ることを、人は決して諦めてはいけないんでょうね」
「おうよ。先生、短い間だったけど楽しかったぜ。立派な先生になれよ。ありがとな」
「はい。月岡さんも、お元気で」
今でもたまに思い出す、月岡との会話だ。あれから10年以上経つが、どうしているだろうか……。
「先生。今、外で、先生に会いたいって人に呼び止められまして。これを……」
「何ですか?」
診察の合間に、看護師が康幸に手紙を持ってきた。相手は男性だったという。
「少しお時間頂けませんか? 何時になっても結構です。
綾美のことでお聞きしたいことがあります。 新田 敦」
新田? 誰だ……。覚えがない。
時間は13時を軽く回っているが、まだ外来患者さんが残っていたため、申し訳ないがそのまま待ってもらうことにした。結局、全てを終えたのが、14時20分頃になった。
診察室を出て、待合室に向かう。そこまで掛かっても、やはり「新田」に記憶が行き着かない。見れば、170cmくらいの、サラサラした前髪をワックスで上げている、30代くらいの男性がいた。合唱団の彼か……。その姿を認めて、やっと康幸は「新田」が誰だか分かった。
「すみません。お仕事中にお邪魔してしまって」
しっかり康幸を見据えたまま、彼は挨拶をする。本当に「すまない」と思っているとは、思えない視線と声だ。
「いえ。随分お待たせしましたね。僕、これからお昼なんですが、上の喫茶店で話しましょうか」
康幸も、気を緩めることなく、彼を5Fにある喫茶室に誘った。今の時間なら、何とか座れるだろう。新田も、黙って着いてきた。
「綾美ちゃんのことって、何でしょう」
「……つかぬことをお聞きしますが、ヤスさんは……。ヤスさんで、いいですか?」
「はい、構いません」
「ヤスさんは、金沢の川桐さんのオペラガラ、出られましたか?」
康幸は、即答をしなかった。新田が、あまりにも思いつめた様子でいることに、不審を抱いたからだ。だが、答えないわけにもいかないだろう。少し間が空いたが、事実を伝える。
「はい。エキストラで……」
「綾美と、何かあったんですか!?」
康幸の返答を最後まで聞かずに、無理に押し込むかのような勢いで聞いてくる。椅子から半分腰を上げて、前のめりにテーブルにぶつかっている。氷の入ったガラスのコップが音を立てた。かろうじて、倒れるのは免れていた。
「……。何かって、何です……?」
そう言われて、新田は「ぐっ」と音が聞こえるかと思うほど、奥歯を噛み締めて康幸を睨んだ。
「話がよく見えないが……、わざわざここまで来るって事は、君なりの答えが出ていると思うが……」
「……くっ!」
顔を歪めたかと思うと、新田は横を向いたまま、椅子に腰掛けた。強く握った拳の中で、指が白く血の色を失っていく。
「綾美が、合唱団の練習に来ないんです」
「……それで?」
「新城さんはじめ、皆で誘ってるんですが……」
「仕事が忙しいとか、ではないんですか」
「そういうことでは……、ありません」
「……、ではなぜ僕に?」
「何かがあったんだと気が付いて、金沢の演奏会の後からだと考えました。今はパンフレットもネットで確認できますから、オケの中に、あなたの名前を見つけました」
「……そう」
若いな……。康幸は、改めて新田を見る。「ギリギリ平成生まれの……」綾美の声を思い出し、30か31歳かと考える。僕はこの頃、何をしていたんだったか。まだまだ後期研修医で必死だった頃だ。こんな風に、真っすぐに誰かへの想いを募らせている、暇も余裕もなかった……。
そんな彼を、僕はさっきからずっと、煽っている……。
椅子の背に体を預けて、足を組んだ。
「彼女は、苦しいことがあると1人で抱え込んでしまうんですよ。前もそうだった。どんどん自分を追い込んで……」
「前……?」
新田は、自分のコーヒーにやっと手を付けた。なんとか気持ちを落ち着かせるように一口飲む。
「……なんでもありません」
それまで、白衣のポケットに無造作に入れていた左手で、康幸もコーヒーを手に取る。その左手の薬指に、指輪があった。新田の目が、怒りに見開く。
「それかっ……!」
新田は力任せに康幸の左手首を掴んだ。
「僕はこれが限界です……。外に、出てください」
そう康幸の顔スレスレに自分の顔を近づけ、怒りを隠さない声で、言葉を叩きつける。
言われたまま、康幸は席を立った。首から下げている名札を外し、喫茶店の店員に「すぐ戻りますから」と、それを預ける。
「何なんだ! なぜ彼女に手を出す! 遊びにするなら、他の女にしてくれ!」
「君の許可を得なければならないのか?」
静かに凄まれ、思わず新田は康幸の胸倉を片手で握り、腕を胸に押し付けた。
「綾美を皆で守って来たんだ! 何にも知らないやつが、横から無理やり掻っ攫いやがって……!」
「皆で? 『僕が』じゃないのか?」
殴ったらどうだ。そんなに悔しいなら、男なら、大事な人を奪われたと思うなら、殴ったらどうだ……。そんな目を、新田に向ける。
――特別な才能は、誰にでも与えられるわけじゃない……!
「あの日、綾美があんな目であなたを見た時、きちんと止めるべきだった……」
そう言って、掴んでいたシャツを悔し気に振り払った。
それで終わりか。そんなことを言っているから、君は「友達」で終わってしまうんだ。
「君が、手をこまねいていたからだ。僕は自分のすべきことをしたまでだ」
「くそっ。なんで、彼女を傷つける! あそこまで、やっと戻って来たのに……」
「そうやって見守ってばかりのことを、『手をこまねいていた』って言うんだよ」
最後にトドメを差す。さあ、殴れ!
ドンッ! 新田は康幸を体ごと壁にぶつけた。大きな音に、周りの人たちが反応した。近くにいる医師や看護師たちが、さすがに気づく。
どこまでも、優しいな、君は……。安心していい。僕はまだ綾美を手に入れたわけじゃない……。
「……そこまでだ。これ以上は、周りが騒ぐ。早く、行け」
新田は、まだ離れない。
「早く、行けっ」
新田の両肩を掴み、体を力づくで離した。そこで初めて、今まで康幸は無抵抗だったのだと、新田は気づかされた。
「大丈夫です。何でもありません。お騒がせしました」
そうにこやかに笑って、周りに声を掛けつつ、喫茶店に戻る。新田はその場に残され、拳を握り締めた。
綾美ちゃん……。何があったんだ!? 前に……。
隣の棟の屋上に作られた、リハビリ用の芝生の遊歩道を、喫茶店の窓から眺めながら、康幸は冷めたコーヒーを飲み干した。
「勝てないかもしれないな……」
声になっていた。綾美の顔が浮かんだ。
「今度は、2人ですか……」
次の土曜日、康幸の前に立ったのは、加藤と新城だった。
「私はご迷惑だって、言ったんですけどねぇ」
とニコニコ笑っているのは新城だ。
「新田のお詫びも兼ねまして……」
と深々と頭を下げたのは、加藤である。
結局また喫茶店に移動した。
「で、綾美ちゃんはまだ練習に来ませんか?」
「大丈夫です。ちゃんと、来るようになりました。特段変わった様子は、普通に見ていればないと思います。僕らくらいしか、分からないんじゃないかな……。ねぇ、新城さん」
「そうそう。相変わらず、元気で新田君とやり合ってるし。新譜も、すっかり音取り終わってるし。声も出てるし。ねぇ」
「じゃ、またどうして僕に?」
「彼女に、ヤスさん会ってないでしょう、最近」
「……」
「ねぇ、やっぱり」
と明るく相槌を打つのは、新城だ。
「一体、新田君の味方なのか、なんなのか……。僕にどうしろと」
「……真意を確かめに来ました。要件は、新田と同じです。遊びなら、これ以上は近づかないで頂けますか」
先程までのゆったりした雰囲気に、いきなり幕が下ろされる。加藤は新田に比べれば随分落ち着いた雰囲気の30代半ばくらいと思われる。声にも温和な性格が表れ、話し方も博識高く理路整然とした人格なのだろうと思わせるものがある。康幸は、苦笑するしかない。
「綾美ちゃんに、こんなに強固なSPが何人もいるとは、思わなかった」
「友達です。一方的に守ってるだけでは、ありません」
「……そうですか」
「彼女は、一時大変な時期があって、それで僕達が過保護にしているのは確かですが……」
まただ。一体、何があった……。思わず、ため息の様に言葉が洩れた。
「それを、僕は知らない……」
一瞬だが、康幸は苦渋に満ちた顔をした。
「その事を、苦痛と感じている……。これで答えになりますか」
3人の間に、沈黙が下りる。まっすぐな視線を向けられた加藤は、しばらく探るように康幸を見ていた。
「あぁ……、なるほど。申し訳ありせんでした」
加藤が、康幸にゆっくりと頭を下げた。
「ほ~ら、やっぱり」
相変わらず、新城はニコニコして康幸に笑顔を向けていた。
「新田はあの通り真っ直ぐなので、冷静になれっていうのは、少し難しい。ヤスさんには、大変ご迷惑をお掛けしました」
と言って、2人は席を立った。加藤はお詫びにと、康幸に会計をさせない。その間、新城が康幸にこっそりという感じで話しかけてきた。
「ヤス先生、綾美ちゃんのあの傷、大丈夫でしたか?」
「傷……?」
その不思議そうな顔を見て、新城はふふっと笑った。
「やっぱりね。私、先生はそんな人じゃないと思ってました。何か事情がありそうですね。すごーく聞きたいけど、大人ですからね、後は2人にお任せします。きっと綾美ちゃん、先生に会いたいんだと思いますよ。私にも言いませんけど……、見てれば分かります。これは、男共には内緒ですよ」
「……」
加藤が合流し、康幸も1Fまで一緒に降りた。出口まで向かう途中、加藤が歩みを緩める。新城は「あ・うん」の呼吸で、1人で先に出口に向かう。2人になった。
「僕は、新田のあの真っ直ぐに、最初に彼女をあきらめた口です。待ちきれずに、見合いで結婚しました」
と、朗らかに笑う。
「……」
「ですから、先生の気持ちはよく分かるつもりですが、新田も結構長く頑張ってるんで、今の状況ではどちらにも肩入れできないなぁ……。ただ、どうやら今は、先生に会わないと綾美は本当に元気にはなれないらしい。新田も気づいてるかもしれないが……。まぁ、とにかく綾美が幸せになってくれれば、それでいい。だから……、遊びで傷つけることだけは、許しませんよ」
最後の言葉だけは、真剣な声で突き付けられた。
「……、そんなつもりは、ありません」
2人を見送り、そのまま入院患者の回診に向かった。