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金沢の夜

 綾美はチャーターされた観光バスに乗っていた。金曜日の夜、金沢に向かっている。到着するのは、明日の朝だ。夜行バスなんて、何年ぶりだろう。キツイ……。これで、歌えるかなぁと、体のあちこちの痛みに耐えながら、ちゃんと確認しなかった方が悪いか……と、バスに揺られていた。


「急で悪いんだけど、アルト足らないの。ヘルプお願いできないかな」

 電話で懇願してきたのは、音大時代の同級生、池内だった。

「曲は?」

「トラヴィアータとこうもり。アイーダとナブッコも」

「派手ねぇ。ガラ? 楽譜は当然見ていいよね」

「もちろん。じゃなきゃ、私が断ってるわ」

「ハハッ。楽譜、送って」

「助かったー。アルトはホントにいなくて」

「ホテル、アパ?」

「そう。皆んなシングル取ってあるから、ゆっくり寝られるから」


 そうやって参加を決めたが、まさか金曜夜から夜行バスで移動とは、思いもよらなかった。今なら新幹線で3時間だよ。と突っ込みたいところだが、いかんせん、人数が多いのでそこまで予算がないらしい。一応、エキストラには出演料が出る。雀の涙だが……。


バスの中から、LINEを送る。

「今日もお忙しそうですね」

「今やっと、夕飯食べたところ」

「孤独のグルメ?」

「おにぎりに、サラダ」

「まるで、モデルの様なディナーですね」

「そう。メンズクラブの専属」

 康幸が言うと、ちょっと冗談にならない。「医師の普段着」とかなんとかのコーナーでもあって、モデル業もしてそうだ。

「うそ……ですよね」

「ふっふっふっ」

 時計を確認すれば、22時を過ぎている。


 康幸とはLINEをするようになった。

 あれから1ヶ月後、前日練習で再会したが、練習の後、康幸は病院から電話が入り、慌てて帰っていった。

 翌日の本番には、かなり疲れた様子で現れたが、音は間違いなくいい音で、「トゥーバ・ミルム」も華やかに見事に吹き切った。今回綾美は久々に、本当に楽しんでステージを終えた。演奏会後の合唱団の打ち上げにも、吉田達と共に参加してくれて、一緒に大騒ぎしたが、どうやら前日が病院で徹夜だったらしく、後半には酔いつぶれて寝てしまい、そっとしておこうという皆の配慮により、近づくことができなかった。

 ただ、帰りには一緒に横で歩くことができて、LINEを交換した。

「はぁ~、良く寝た。綾美ちゃん、忘れないうちにLINE交換しよ」

「お疲れですねぇ。いつも、そうなんですか?」

「うん。当直もあるしね。トロンボーンも、今の僕には、贅沢な時間でね」

「そうなんだ……」

 思わず声が沈んでしまう。本当に、もったいない……。

「そんなに、悲しんでくれるのは、綾美ちゃんぐらいだよ。それで、十分」

と、皆が見ていない一瞬だけ、手を握られた。


 LINEを始めて分かったが、康幸は意外と面白い。やはり金管の奏者である。内科医としての顔は全く分からないが、優しくてユーモアのあるお医者さんなのではないかと思っている。


「明日から、オペラガラのヘルプで金沢なんですよ。って、今移動中ですが……」

「今?」

「なんと、夜行バス」

「若いねぇ。僕には無理だ」

「分かってまーす」

「若い方? 僕には無理の方?」

「両方」

「綾美ちゃん、嫌いだ」

「えっ、若いつもりでした?」

「もっと、嫌い」

 笑いのスタンプ

「明日、夜、覚えといて!」

「明日の夜は練習で、日曜本番です。LINEは、月曜日に」

「了解。僕は今から当直。気をつけて」

「頑張ってください。おやすみなさ~い」


 朝、金沢に着いた。そのまま練習会場に向かうという。嘘でしょ……。チェックインが15時とのことで、明日の演奏会場であるホールの控室を、荷物置き場にするらしい。頼むから止めてちょーだい……。というわけで、追加料金を自腹で払い、同じくギブアップした3人で、ホテルにチェックインした。スパを見つけて駆け込む。やっとゆったりして、そのままベッドに倒れ込み仮眠をとった。合唱は、お昼からの練習だ。その後、オケとソリストが夜から合流し、多分終了は21時近くになるだろう。

 今回はイベント合唱団である。オペラのガラコンサートが行われる。金沢の大手企業が主催し、お客さんはハガキにより応募できる形式の、招待客ばかりの貸し切りコンサートらしい。出演者は皆、チケットのノルマもない。微小でもギャラが出る。ありがたい……。

 ただし、プロやそれに準ずる実力のメンバーしか、舞台には乗れない。

 合唱もオケも地元で集める予定だったらしいが、結局集めきれず、東京からのエキストラ組が必要になったとのことだ。オケもイベントオケとのことだ。ここ金沢には有名なプロオケがあるので、そのメンバーの若手が格になり、その他エキストラが入るらしい。


 合唱のみの練習が始まる。ピアノによる伴奏だ。声を出せば、さすがにいきなり揃う。指揮者が国内でも屈指の有名な大御所の川桐卓也なので、下振りが存在する。大御所は夜の登場なので、今はその下振りで整えていく。指示もレベルが1つ上だ。和音ごと各音を調整する。同じA(ラの音)でも、その和音により、ほんの少し高めのAとか低めのAとか調整するのである。この辺りは、皆理論が分かっているので理解は早いのだが、実際歌うとなると各自調整が必要と思われた。皆の余裕が、少しずつなくなっていく。綾美も、大学以来久々に集中しながら歌った。そして、楽しい……。真剣に音を創る作業は、楽しい。市民合唱団のレベルでは、ここまでの要求はされない。そのレベルに達していないからだ。だからこそ、一筋縄ではいかない所が楽しかった。と、ここまではまだまだ余裕があったことを、後で思い知る。


 夕食を仲間で早めに取り、先程までの練習の確認をした。18時前、会場に戻った。

「綾美ちゃん」

 後ろから、突然声を掛けられた。誰だろうと、振り返った。

「ヤスさん……」

 こちらが想像通りに驚いたのを喜んでいる様子で、彼はニコニコしている。

「どうして、ここにいるの……」

 思わず手が出た。両手を差し出す。彼はカバンを置いて、その手を取ってくれた。

「僕も、エキストラ。音大の同期に誘われてね。川桐さん、1度乗ってみたかったんだ」

「何にも言ってなかった……」

「君も来るって、昨日初めて知ったから」

「じゃ、昨日教えてくれればよかったのに……」

「言ったよ。夜、覚えておいてって」

「……ずるいなぁ」

「若くないって言った、お返し」

 ははっ……。やだ、嬉しい。ワクワクしてしまう。さっきまで、緊張に張りつめていた心が、あっという間に緩んでいく。思わず笑顔いっぱいである。我ながらゲンキンだ。両手を離して、舞台袖の荷物置き場に向かう。

「そういえば、当直だって言ってなかったですか?」

「ちゃんと、済ましてきたよ。だから、新幹線の中では、爆睡。3時間寝れば、十分」

「いいなぁ、新幹線……」

「君は、若いんだよね」

 むぅっ、そうきたか。黙ったら、「おっ、次はないの?」という顔で見る。

「そういえば、夜行バス、隣は男じゃなかっただろうね」

 結構、真面目に聞いている。「どうだったかな~」という顔だけで、答えてやる。

「ちゃんと、教えなさい」

「女性でしたよ!」

「なら、よろしい」

 今の流れで行くと、負けた気がする。主導権を握られたようで、気に入らない……。

「なんだか、お父さんみたい」

 と、デスってみた。さあ、どうする?

 これまた結構ショックを受けた顔をするので、ちょっと溜飲が下りた。思わずぷっと笑ってしまう。しょうがない、許してあげよう。

「嘘ですよ。メンズクラブのお返し」

 ステージ上に移動すべく楽器ケースを背から降ろし、空いた手の拳を腰に当てる。「まったく」という顔をして、その手を綾美の頭に乗っけた。そのまま、頭をくしゃくしゃされた。やだ、うれ+恥ずかしい……。

「練習始まるよ」

「はーい」

 

 本番指揮者、川桐の登場である。空気が変わる。ピリッとした空気に舞台が包まれていく。

 タクトが上がり、音が始まった。トラヴィアータ(椿姫)の「乾杯の歌」がオープニングを飾る。オケの音もイベントオケとは思えない、いい音だ。ソリストの声が重なり、合唱が入ろうと構えたところで、川桐は音を止めた。

 何の指示もなく、「もう一度最初から」とだけ言い、最初からやり直す。

 やはり、先程と同じところで指揮棒を降ろした。

 舞台全体に、緊張が走る。何かが、彼の要求していることと違うのだ。

「いちいち、ダイナミクスを言わなければなりませんか」

 皆に向かい一言発する。静かな声だが、雷が落ちたかのような衝撃が周りを包む。一瞬、全ての音が止んだ。綾美の全身にも鳥肌が立ち、身じろぎひとつできない。

 ダイナミクス。つまり、音の大小や、強弱など、楽譜に書かれているものはもちろん、書かれていなくても、音楽に携わっているプロならば当然分かっていることを、いや、分かっていなければいけないことを、わざわざ言葉にしなければいけないのかと言っているのだ。これは、他の指揮者ならば、めったに言わない。綾美も、こんな厳しい言葉は、聞いたことがなかった。

 もちろん、国内トップクラスのオケや、海外からのオケ相手ならば、言わなくてもできていることだろう。しかし、地方の寄せ集めオケに対して求める要求ではない。と、考えること自体が甘えであると、一蹴したのである。

 そして、もう一度タクトを構え、下ろした時には、オケの音がさっきとは違うものに変わっていた。今度は音が止められることはない。皆の集中力が、あっと言う間に倍増した。


 1時間後、休憩になった。綾美も、緊張から解き放たれる。皆それぞれの想いを持って、舞台から一旦降りた。

「すごいな」

「ほんと」

 康幸と綾美も、それ以上会話がなかった。浮かれた気持ちなど、あっという間に吹き飛ぶ。これが、日本のトップの、世界的指揮者という存在なのだ。めったに、一緒の舞台には上がれない。今更ながら、鳥肌が立った。

「参加できてよかった」

 と、独り言の様に綾美が口にする。

「僕もだ」

 と康幸も同意し、目を合わせて微笑んだ。


 結局後半も、ほとんど曲を繰り返すことなく、ひと通り流しただけで練習は終了した。20時30分になっていない。予定より30分以上も短くなった。これぞ、超一流である。

「明日もよろしく」

 と一言残し、舞台袖に消えていった。

 それでも、曲が出来上がっていったことを自覚している。彼の指揮で、ゲネプロ(総合リハーサル)を含めあと2回も歌えるのかと思うと、ゾクゾクした。この経験は、2度と訪れない。


 池内が、仲間と一緒に少しだけ金沢の夜を散策するという。誘われたが、康幸が2人で飲もうと誘ってくれたので、迷わず散策を断った。意味深な視線を池内からくらったが、こちらも「当然! 男子を選びます」と態度で示しておいた。

 康幸もアパホテルとの事で、どうやら、エキストラ組は全て同じホテルらしい。ホテル内にバーはなかったので、直ぐ近くのシティホテルのバーに落ち着いた。

「飲む?」

「いいえ。さすがに今日は……」

「少しだけでも、どう」

「う~ん、じゃ、梅酒。薄いの。ゴメンね、付き合えなくて」

「いいよ。歌の人は、大変だな」

 乾杯をして、今日の感想から話し出す。お互いに、指揮者の感想が止まらない。かなり高齢なので、指揮棒の動きが上下左右30cm四方で収まってしまうくらいの振りなのだが、それで十分意思疎通ができた。各パートへの指示も取りこぼすことなく、的確に来る。そして、途中差し込まれた数少ない言葉が、また詩的で情緒的だったのだが、逆にそれがあらゆる意味を含んでいて、1筋縄ではいかない。2人で意見を交し合い、そこにまた新しい発見を見出す。勉強にもなるし、理解も深まっていく。

 などと30分程続いて、やっと2人の興奮も落ち着いてきた。お互いに手付かずだったお酒を口に含む。康幸が、しばしの沈黙を破るように次の話題に移った。


「綾美ちゃんは、どうして音大のこと皆んなに隠してるの?」

「私、ほんとに卒業しただけだから……」

 綾美が、それ以上話さないかと思うほどの間を空ける。康幸は、それで説明終わるつもり? と、顔で催促する。大丈夫……、話すよ。

「私の実家ね、小さな金物店を営んでたの」

「へぇ」

「大学出て、さぁソロ活動頑張ろうって時にね、母が病気で倒れて……」

「あぁ……」

「意外と商いが大きかったの。それまで知らなかったんだけど。私立の音大出してもらってるんだから、気付くべきよね」

「いや、それが当たり前で育てば、分からないよ。僕だって同じだ」

「でね、父の手伝いしながら、仕入れやら配達やら、1番困ったのが、帳簿で……」

「僕も、そっちは全くダメだな」

「経費の領収書やら、確定申告やら……。分からないことだらけで、思い切って、夜、専門学校に通ってね。簿記2級まで取りました」

 と、簡単に言ってみたが、人生で1番勉強したかもしれないと思い出す。

「綾美ちゃんって……、思い立ったらまっしぐらなんだね」

「必要に駆られて、ですよ。そんなことしてたら、あっという間に3年経っちゃって。音楽なんて、ホント蚊帳の外……」

「お母さんは、お元気になられたの」

「はい、お陰様で。お店も出られるようになったし……。でも、今度は父が倒れて……」

「……」

「もう、なんともしようがなくて……。結婚して、お店継ごうかとも思ったんだけど、色々あって、ダメになったりして……。結局、お店畳んだの」

「じゃ、ご両親は?」

「兄がいるから……。兄は店を継ぐつもり全くなくて、サラリーマンしてたから。今は、両親ともそっちで暮らしてる。2世帯住宅」

 結婚か……。そりゃ、そうだろうな。この歳までそんなことがないなんて、綾美ちゃんならあり得ないかな……。可愛いから、モテそうだ。

「で、今は1人でなんとか頑張ってて、だからホントに、音大は出ただけになっちゃったの」

「じゃ、もう一回始めるには、きっかけがいったんじゃないの?」

「ん……。新城さん、覚えてる?」

「ああ、小さいおばあちゃん」

「うん。母が入院していた病院で知り合ってね、彼女がコーラスやってるから、ぜひいらっしゃいって誘ってくれて」

「それで、合唱?」

「そう。一時期止めた時があったんだけど、何度も誘ってくれて……。で、今に至るの。だから新城さんは、私のとても大切なお友達」

「新城さんは、音大のことは?」

「言ってない。必要ないもん。一緒に、歌えればいいから」

「そうか……」

 そういって、黙り込んだ。色々、途中が割愛されている。もちろん、全てを話す必要はないが、辛いことがあったのだろうかと、そんな目で見てしまった。

 綾美はそんな康幸に、努めて明るく微笑む。

「私も、聞きたい。ヤスさんは、なんでお医者様になったの……」

 東京藝大まで出て、とは言葉にしなかった。

「ん……」

 グラスに余った、焼酎を飲み干す。お代わりを頼んだ。

「うちはね、僕が小学校上がる時に、父が始めた開業医なの」

 綾美は、突きつけられた事実を呑み込むのに、しばし時間が掛かった。そういうことか……。開業医さんということは、芸大出ということの方が、特異なことなのだと知る。

 そして、その息子である彼の近くには、長くいさせてもらえないかもしれないな……。と、綾美の中にある色んな情報を総括して、そんなことを思った。

「最初は、トランペットだったんだよ。やりたかったの」

「そうなんだ」

「1番小さいときの記憶が、かっこいいトランペットだった。なんの曲か、はっきり分からないんだけど、多分「メサイア」だったんじゃないかなかぁと、今は思ってる」

「随分、長い曲を……。演奏会で聞いたの?」

「そう。きっとそれまで寝てたんだろうね。突然あのトランペットが鳴り出して、カッコよくて」


 ヘンデル作曲の「メサイア」は、「救世主メシア」つまりイエスキリストの生まれる前の預言から、誕生(降誕)、十字架で死に(受難)、その後永遠の命を得て甦りを遂げ(復活)、神の世界に昇天するまでの一連の物語を曲にした、いわゆる宗教曲だ。

「ミサ曲」とは違い、物語になっている。「オラトリオ」といわれる曲の種類で、オケ・ソリスト・合唱で構成される。同じ物語を歌う「オペラ」との違いは、演者の振り付けや舞台装置がないことである。オケもピットには入らず、舞台の上で演奏する。

「メサイア」は「オラトリオ」の中でも、有名な1曲だ。「ハレルヤ」という曲は、クラッシック好きでなくても、一度は聞いたことがあるのではないだろうか。演奏時間は3時間にも及ぶため、途中何曲か割愛し、演奏されることがほとんどである。

 康幸がいうトランペットがカッコよかったというのは、第3部43番「ラッパは鳴り響き」であろう。死者を復活させるラッパの音である。楽器もピッコロトランペットといわれる、トランペットの中でも1番高い音が出る、普通のトランペットより小さい楽器で演奏される。「メサイア」の中でも、このトランペットはソリスト扱いで、この曲だけのために呼ばれることもある。演奏後、必ず指揮者が立たせて一人で挨拶させるほどの、聴き所の1曲で、聴衆の中には、この曲を聴くために演奏会に来るという人までいる。

 そう、確かにカッコいい。


「小学校上がる前から、習わしてくれて」

 さすがにお医者様のお子様ね。

「ピアノがあんまり好きじゃなかったんだけど、トランペット習ってもいいなら続けると言ったらしい。覚えてないけどね」

 と、綾美を見て笑う。なるほど、確かに男の子がピアノは、大変だろうな……。私の通うピアノ教室でも、男の子は少なかった。皆、サッカーや野球や水泳に走るものだ。

「お母様なんですか、音楽が好きだったのは?」

「そう。父親が忙しくて不在ばっかりだったから、全ての愛情が僕達に注がれて……。演奏会は割と連れてってもらった」

「僕達?」

「あぁ、弟がいるの。1歳下に」

 そこで、焼酎が新たに出された。ロックで飲んでいる。お酒、強いのかな……。

「その弟にさ、トランペット取られたわけ」

「取られた……?」

「弟もやりたいって言い出してさ。じゃあ兄弟で2重奏とかできるように、片方トロンボーンにしようって。楽器が大きいから、兄貴の僕の役目になっちゃった」

「残念だった?」

「最初はさすがに嫌だったんだけど、トロンボーンって面白い楽器でね。グリッサンドもできるし、音もこっちのほうが好きだなって……」

「うん」

「弦でも、バイオリンよりビオラの方が好きだし、低くて柔らかい音の方が好きらしい。だから、綾美ちゃんの声も好き」

 急に話が飛んできて、少し面食らって照れてしまったが、「好き」という言葉は、魔法だと心臓が説明してくれた。

「……ありがとう」

「音大に入る時、父と揉めてね。何考えてるんだって。まぁ、そうだよね……。そしたら弟が、僕が医者になって跡継ぐからいいって言ってくれて。弟なりに考えてたみたいで、ちょっと、驚いた。母も取り成してくれて……、無事入学」

「プロになるつもりだったんだ」

「もちろん。ソロで活躍できないにしても、必ずオケには所属するつもりだった」

 想像する。このビジュアルなら、ソロでもメディアで活躍できそうだ……。少ししか飲んでいないのに、夜行バスの疲れと、昼間の緊張から酔っていたのだろう。じーっと、顔を見つめていたらしい。

「綾美ちゃん、見過ぎ。キスしたくなる……」

「えっ……」

 こちらに顔を向けて、康幸が微笑んでいる。さすがに、顔に血が上る。よくもまあ、こうもサラッと言えるものだ……。俯いた綾美に追い討ちが来た。

「可愛いな……」

 そういって、指の甲で、綾美の頬に触れた。なんでこうも、ヤスさんは女性を口説くのがうまいのだろう。すっかり手中に落ちている……。お医者さんだもんね。モテるか……。

「私のことはいいから……。ヤスさんの話」

 俯いたまま、まるで人払いをするように、片手を振った。康幸は少し笑って、グラスに視線を戻した

「20歳までは父も黙ってたんだが、さすがに成人してからは実力行使に出てね。授業料の援助はしないと言い出した」

「えっ、どうしたの?」

「何か結果を出せというんだ。プロでやっていける証拠を見せろ! って」

「そんな、無茶な……」

「コンクールで1位を取ったら、認めてやるって……」

「トロンボーンだと……、日本菅打楽器コンクールですね。4年に1回じゃなかった?」

「次の年に丁度あって、ちゃんと調べてあったよ。抜かりがない。まぁ、言われなくても出るつもりだったから良かったんだけど……」

 コンクール出場と聞けば、知らない人であれば、普通の練習の延長に様に、簡単なことと思うかもしれないが、それは、壮絶な準備期間がいる。最後は先生の家に泊まり込んで、合宿状態になる学生までいるのだ。それでも、予選を通過するだけでも大変だと、皆分かっている……。綾美はその先を聞きたくなかった。今、音楽家ではないということが、全てを物語っている。

「1位なしの、2位でね……」

「それでも、すごい……」

「僕は音楽家になる夢と引き換えに、卒業だけはさせてくれと頼んで、なんとか授業料を取り付けて卒業したわけ」

「それから、医大に入り直したってことですよね」

「もうね、4年生の時には受験勉強を始めたよ。それでも、死ぬほど勉強したな……」

「悔しいね……」

「実力だよ。1位になれなかった。それが、全てだ。だから、この間綾美ちゃんが言ってくれた言葉は、僕を救ってくれたんだ。21歳の僕をね……」


 ――ヤスさんなら、一流の音楽家になれたのに……。特別な才能は、誰にでも与えられるわけじゃない……!


「うん……。あれは、本当にそう思ったんだよ」

「ん……、でも、4年でできることなんて、ほんの少しだ」

「そうだね……」

 それから、2人に沈黙の時間が訪れた。お互いに、どんな言葉を掛けても、時間を取り戻せないことは分かっていたから……。


「もう、帰ろうか」

「そうですね。明日に備えないと。川桐さんで歌えるの、きっと2度とない。きちんと歌わないと」

「んー、それも大事だけど……」

 何? と、康幸を見た。康幸がじっと綾美を見つめていた。メガネのレンズの奥から、綾美を逃さない視線が、向けられていた。心臓が、ドクンと波立つ。

「……僕の部屋に、行こう」

 一瞬、躊躇する。でも、綾美もその欲望に抗うことは難しいと、一気に気持ちが流されていく。この人の唇に触れたいとの思いが、体中を占めていた。

「……はい」


 バーを出たところで、康幸が綾美の手を改めて取る。やはり、大きな手だった。少し骨ばっているが、とても柔らかい。ちょっと力を込められただけで、心が揺らぐ。鼓動が、大きくなった。こんな気持ち、何年ぶりだろう。急激に、体が火照っていった。


 康幸の部屋に入ったところで、康幸はゆっくりと綾美の頬に手を当てた。

 そのまま唇を合わせる。お酒が入っているから、もう中途半端な羞恥心はない。どちらからということもなく、お互いに唇を求め合った。

 絡む様な視線を交わした後、ベッドに移動する。手首を掴み、綾美をベッドに座らせる。立ったままの康幸は自分のジャケットを脱ぎ、ドレスシャツのボタンを外しながら、綾美へのキスを続けていた……。

 スマホが鳴った。気にも掛けずに、綾美を味わう。それでも、スマホは鳴り続けた。

「……電話、出てください」

「いい……」

「病院からじゃ、ないんですか……」

 綾美だって、このまま続けたい。日頃の冷静な康幸とは違った、情熱的な愛撫に、体の奥はもう充分潤い始めていたから……。

「ごめん……」

 ひとつ息を吐いて、スマホを手に取り、ベッドから離れた。


 ジャケットのポケットからスマホを取り出した際、同時に何かが落ちた。康幸は気が付かずにドアの近くまで移動していた。

「はい……。何度ですか……。じゃ、カロナールを……」

 やはり、病院からだと思いつつ、その落ちたものを拾っていた。

 キーケースだった。何本かの鍵と共に、ひとつ変わったものが目に止まった。それは、ロブスターの引き輪に無造作に掛けられていて、最初は単なる金具かと思ったほどだ。よく見れば、……指輪だった。

 シンプルなプラチナの、結婚指輪……。内側を見れば、文字が彫られている。「T to Y」。綾美は、水を掛けられたように、目と体が覚めた。

 そうだ。昔、音大の同期の、学生結婚した金管の友達が言っていた。楽器を傷付けるし、音が出るから、指輪は外しているのだと。大学を出て、プロやアマのオーケストラのメンバーと関わるようになると、皆が皆そうではないが、確かに、実際そういう奏者が多かった。

 綾美は、ホテルの備え付けのメモを手に取った。


「また、明日。おやすみなさい」


 その上にキーケースを置き、バッグを抱えて出口に向かう。まだ、スマホで話している彼の横を通り、部屋を出た。

 康幸は驚き、とっさに綾美の腕を掴もうとしたが、彼女はスルリとすり抜けていってしまった。どうした……!?

 やっと電話を終え、慌てて部屋のキーカードを取りに、ジャケットのあるベッドに戻る。そこにメモと鍵を見つけ、暫し唖然と佇んだ。どうすればいい……。

 どこから説明すればいい? 言って、分かってもらえるか……。だが、このままでは、彼女を手に入れられない……。気持ちに整理が付かないまま、それでも急いで後を追い、綾美の部屋のドアをノックした。

「はい……」

 小さく、彼女の声が答える。

「開けて、くれないか」

「……ダメです」

 康幸は絶望的な気持ちに、襲われた。

「忘れ物……」

 そう言って、ドアを開けさせた。部屋に入るなり、彼女を体ごと、壁に押し付ける。そのまま、唇を求めた。最初は手で僕の体を拒んでいたが、その唇を愛撫するたびに、小さな抵抗はなくなっていった。一旦、唇を離した時、彼女が困惑しながらも聞いてきた。

「忘れ物って……、何ですか?」

「続きだよ……。何で、もう『おやすみ』なの?」

「誰かを傷つけてまで手に入れる程、私は大した女じゃない」

 やはり、そうか……。もう、誰も傷つかないと言っても、君は信じないだろうな……。

「じゃ、もう終わり……?」

「はい。今のが、最後です……」

 そうは、いかない。もう一度彼女の首を、グッと片手で引き寄せる。

「僕は、そんなに聞き分けがいい方じゃない」

 そういって、もう一度唇を求めた。分かっている。求めているのは、僕だけじゃない。君も僕を求めてる……。君の耳を愛撫する。小さく君が声を出した。そんな声を出しておきながら、君は苦しそうに呟いた。

「お願い……。だれも、傷つけたくない! お願い……」

 最後に、懇願するように呟かれ、僕はやっと動きを止めた。


 ふーっと、大きくひとつ息を吐く。壁に右手をつき、体を離した。

「僕のこと、嫌い?」

 ゆっくりと、君は首を振る。

「じゃ、今やめれば、友達でいられるんだね」

 答えが返ってこないので、改めて君の顔を見た。今にも泣きそうに、顔を歪めている。君の指が僕の唇を、そっとなぞった。君の気持ちが、伝わってくる。その手を握って、掌にキスをする。

「……はい」

 やっとの思いで、綾美は答えた。

「……分かった」

 最後にもう一度、キスをしようと顔を近づけたが、途中で止めた。キリがない……。

 そうしたら、今度は君が僕の頬を包み込んで、キスをした……。

「ずるい、な……」

「……ごめんなさい」

 やはり、君が欲しい。きっと、君も同じ……。でも……。

 最後にもう一度、唇を合わせる。しっかり君を抱きしめたまま。

「ずるいのは、僕のほうだ……。ごめん……」

 今度は、いつ、こうやって君を抱きしめられるのだろう……。


 最後は「おやすみ」とお互いに挨拶をして、康幸は部屋を出た。


 次の日、顔を合わせた時には普通に「おはよう」と挨拶できた。お互いに、それで肩の力が1つ抜けた。

 もちろん、演奏会はゲネよりも数段よい本番により、アンコールの指揮者の出入りが5回以上にのぼり、予定していたアンコール曲も全て終え、最後の最後には同じアンコール曲を2回繰り返し、幕となった。

 ステージを降りた皆は疲れ果て、本来興奮と達成感に彩られるはずの舞台裏は、終演後とは思えない殺伐とした空気が漂っていた。ただし、誰もが満足した顔をしており、参加者達に不思議な一体感を生み出していた。まるで魔法の世界を一瞬だけ、覗き見てしまった仲間かの様に…。

 

「綾美ちゃん、一緒に帰ろう」

 思いもかけない言葉が、綾美を待っていた。康幸が誘ったのだ。

「でも……」

「新幹線代、任せてくれていいよ」

「そんなの、いいです。自分で出します。それよりも……」

 2人になるのは、怖かった。全然、気持ちに整理が付いていない。それに、きっと誰かに見られてはいけないのだ。やはり、夜行バスで帰ろう。いざとなれば、明日は会社を休めばいい。実際、それしか体も心も休まらないと思っていた。

「やっぱり、バスで帰ります」

「一緒に、帰るよ!」

 怒ったように、目の前に立たれた。顔を、目を見つめる。やはり、抗うことは難しい……。

「はい……」

「バスでは、君の隣が男ではないと、言いきれない」

 ぷっと、私の心配と懸け離れたことを言われ、笑いがこぼれた。

 新幹線に乗れば、あっという間に睡魔に襲われる。

 結局、切符代は康幸が出してくれた。「これでも一応、医者だからね」といいながら、綾美には出させなかった。「一応」もなにもない。立派なお医者様なのだろう。

 睡眠不足は否応なく、綾美の体を眠りに誘う。

 あの後、眠るのにかなりの努力を要した。声にとっては、睡眠不足は最大の敵だ。声という楽器は、健康な体で初めて鳴る。睡眠不足は声帯を充血させ、炎症を起こし、腫れさせる。それを、無理をしてでも擦り合わせれば、当然傷が付き、その傷が瘤になる。そうなれば、声帯がピタリと合うことはなくなり、結果的に声がかすれるのである。だから、寝不足は大敵なのだ。でも、上手くいかなかった……。

「綾美ちゃん、眠そうだ。寝ていいよ」

「昨日、寝られなくて……」

 ぼんやりした頭で、素直に答えてしまった。

「僕もだよ」

 あっ、そうか……。これは、綾美には嬉しい言葉だと、康幸は自覚しているだろうか……。そんなことを考えているうちに、眠ってしまった。


 目が覚めたのは、東京に到着する30分程前である。手が温かかった。康幸も隣で寝ていた。綾美は康幸の肩に寄りかかって寝ていたらしい。康幸も、その綾美の方に少し顔を傾けて寝ていた。そしてその手は、綾美の手を握っていた。いつから繋いでくれていたのか……。そっと起こさないように体をズラし、康幸の体から離れた。

 ただ、最後かもしれないと、手は離すことができなかった……。

 康幸はギリギリまで起きなかったため、起こそうかと思った途端、パッと目覚めた。凄い寝起きの良さだ。

 何事もなかったかの様に手を離し、あくびをしていた。

「やっぱり、爆睡だったな」

 そのまま、東京駅で別れた。最後に交わした言葉は、「また、連絡するよ」だった。

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