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朝の光の中で

 朝、目が覚めると、隣に綾美の姿がなかった。まだ起きるには早い時間だが、なんとなく気になってリビングに足を向けた。

 リビングのカーテンは全て開けられていて、朝の光が部屋全体を照らしていた。年も明け、まだまだ凍えるような毎日が続いている。その凍った光の中に、綾美がいた。

 体の輪郭は光に透け、パジャマ姿の綾美を取り込んで溶かしてしまうかのようだ。まるで、絵画の一枚のようで、康幸は一瞬息をするのを忘れた。


「綾美、おはよう……」

 返事がない。綾美は全く動かなかった。ソファの上で膝を抱えて、朝日を見ている。よくみれば、ワイヤレスイヤホンが両耳にセットされていた。これをすると、本当に周りの音は消えてしまう。綾美のそばまで行って、その顔を見ると、目を閉じ泣いていた。

 綾美は人の心に入り込む言葉を、常に心にもっている。一緒にいるようになって、それがこういう時に、本当に良く分かる。きっとそれは、心の中に小さな無垢のままの、剥き出しの場所があって、そこに触れてしまったものが仕舞いこまれているのだ。

 それは、幸せなことばかりではなく、苦しいことも混ざる。そしてこの涙は、仕舞いきれずに体の外に溢れてしまった結果なのだと分かるようになった。


 康幸はそっと綾美の横に腰を掛けた。それで、初めて綾美が気付いた。慌てて涙を拭っている。右のイヤホンを外して、恥ずかしそうに康幸の顔を見た。

「おはよう。早いね……」

「何聞いてたの?」

「……バッハ」

「僕にも聞かせて」

 綾美はもう片方のイヤホンも外して、渡してくれた。スマホを操作して、再生してくれる。そこまでしたら、席を外そうとした。その手を掴んで、引っ張る。そのままソファに戻し、綾美を抱え込んで、耳に集中した。

 カンタータBWV120「Gott, man lobet dich in der Stille」(神よ、私達は沈黙であなたを称賛する)。

 動画を確認すれば、オケは古楽器の編成で、教会での演奏を収録したものだと分かる。指揮者の棒が上がった。

「……!」


 その音が……、全ての音が美しかった。コーラスも、カウンターテナーも、ナチュラル・トランペットも……、教会の響きすらも、余分なものは一切ない。全てがバッハだ。様式にブレもなく、それでいて、楽器も歌も、各パートとの連携が各自きちんと取れている。

 ソプラノは皆ソプラノの声だし、テナーもアルトもバスも……。つまり、完璧なのだ。康幸も、全く体が動かせなかった。ただ、朝日の光に身を委ねることしかできなかった。綾美がなぜ泣いていたのか、いやというほど分かった。

 20分程の曲が終わり、イヤホンを外した。言葉が出てこなかった。抱え込んだ綾美の頭をくしゅくしゅして、立つことができたのは、しばらくしてからだ。立った康幸に綾美が声を掛ける。

「私、今の自分になんの後悔もないの。何か1つでも違ったら、ヤスさんに会えなかっただろうし、こんな幸せな時間が訪れることはなかったと思ってるから。でもこれを聞いた時、はじめて……、生まれ変わることがあるなら、この中で歌ってみたいって思った……」

 もう一度、頭をくしゅくしゅして

「うん……。分かるよ」

 としか、言えなかった。紅茶を入れにキッチンに向かい、2人分のアールグレイを入れる。

 

 我々は日本人だ。言葉だって、ドイツ語やラテン語を話すわけではない。生まれたときからキリストは近くにいるわけでもなく、その音楽が身近に流れているわけでもない。そもそも、教会に一度も足を踏み入れずに亡くなっていく人も大勢いる民族だ。

 バッハが作ったものを、連綿と人の手によって引き継いできた国ではないのだ。空気も水も空も違う。世界中のどこよりも、そこから一番遠い国で生まれた。

 どんなに頑張っても、どんなにもがいても、あの音にはならない。その無力感と虚脱感と、そして音楽に対する純粋なあこがれが、体に充満し、最後には締め上げる。

 人生にきっと何度もあることではない。しかも、それは普段の生活の中に突然現れ、全ての言葉と時間を奪い去ってしまう。今朝が、それだ……。

 慰めるとか、労わるとか、もうそれは及ばない世界。ただ、共感して同じ場所に身を置く事しかできない。でも、それができる幸せを、康幸は伝えようと思う。


 紅茶を手にソファに戻り、まだ朝日を眺めている綾美の手に、その香りを渡した。

「綾美と一緒にいられて、僕は幸せだよ」

「……」

 康幸の顔を見て、次の言葉を綾美が待っている。

「生まれ変わるなら、一緒だぞ」

 弾かれたように、綾美が笑った。康幸も、一緒に笑顔になった。

 さぁ、今日も一日がはじまる。

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