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してきたこと、すべきこと

海月(くらげ)は死ぬと、溶けて無くなってしまう」

 そんなことを知ったのは、いつのことだったか。綾美は1人、水族館に来ていた。海月が大きな水槽に大量に展示されている。神秘的な景色は、多くの入場者を魅了し、今も人だかりが途切れることがない。そんな場所に、綾美はもう2時間近く佇んでいた。

「私も、溶けて無くなればいいのに……」


 あの日、自宅に戻っても何が起きたのかまだ分からなかった。一晩寝て、日曜日を1人で家で過ごし、次の週ずっと会社に普通に出勤してても、まだ分からなかった。

「山下君、千葉さんいらっしゃったから、いつもの頼むよ」

「はい」

 週末、会社の上司からお茶出しを依頼された。給湯室でポットに茶葉を入れ、沸騰したお湯を勢いよく入れる。給湯室にお茶の香りがフワリと漂う。蓋をして蒸らし、砂時計をセットした。そのお客さんはいつも日本茶ではなく、紅茶を用意するお客さんだったのだ。

 そして、突然、そのことに気がついた。


 私、ヤスさんを失ったんだ……。


 急に、立っていられなくなった。足の力が抜けて、怖くてその場にうずくまった。

 やだ、やだ、どうしよう、どうしよう、どうしよう……。ヤスさんと、もう会えない……。涙がこみあげてきて、止めることができない。息を吸えば、引きつった声になってしまい、ひっく、ひっくと、子供の様な醜態から抜け出すことができない。

 

 あまりにお茶が出てこないので、先輩が見に来た。

「どうしたの、山下さん!? 体調でも悪いの?」

「んくっ……。すみまっ……、せん。……んっ、すみません……」

 先輩は答えることができない私に代わって、お茶出しをしてくれた。その間に更衣室に飛び込んで、取り敢えずこの感情を抑え込もうと、指先が胸元にあるべきものを探そうとした。あの小さな硬い粒のカナディアンダイヤモンド……。しかし、そこにそれはなかった。

「あぁ……」

 そのことが、綾美をどん底の現実に突き落とした。また、涙が止まらなくなった。


 私は、本当にヤスさんを失ってしまったのだ……。


 それからは、もうずっと康幸の言葉が走馬灯のように頭の中で繰り返されている。また今日も、あの時の言葉が湧き出てくる。


 ――僕の気持ちを、君はコントロールするつもりなの


 凄い恐怖だった。一番バレてはいけない人に、一番イヤな嘘がバレてしまったかのような恐怖……。取り返しが、つかない……。ヤスさんは、私を必要としてくれていた。他の誰でもない、私を……だ。それを、私は勝手に誰かに引き継ごうとしていた。ヤスさんが望んでもいないのに、引き継ごうとしていた。なんて、……傲慢な!


 ――君がいなくても、ちゃんとやっていける


 そうだ……。私なんかいなくても、ヤスさんはちゃんとやっていける。

 自分を消してしまいたくなるほどの、羞恥が心を覆っていく。自分が、自分で思っているよりもずっと子供なのだと知らさせる、恥ずかしさ。あんな大人で優秀な人に向かって、私は何をしていたのだろう。

 今になって思えば、私、どうしてヤスさんのそばにいられたんだろう……。

 きっとそれは、ヤスさんがずっと私を離さずにいてくれたからだ。なのに、その大事なヤスさんを離してしまったのは、私だ。自分から手放した。いや、最初からヤスさんの手を、掴んでいなかったのかもしれない。掴まえられていただけで、私は掴んでいなかった……。そうなのだろう。でなければ、こんなに易々と離れ離れになることは、なかったはずだ。

 

 ――きみには僕はそんなに必要じゃないらしい


 この言葉を思い出すたびに、心から何かが剥がれ落ちていく。全ては自分のせいだ。自分が無能で恥知らずで臆病で、そのせいで全てを無くしてしまった。

 どれほど必要だったか、私にも分からなかった……。

 金沢の夜、あなたが口付けをくれようとして途中で止めた時から、私はあなたをずっと必要としていた。あなたに奥さんがいても、それでも会いたかった。声が聞きたかった。あのトロンボーンの音を聞けば、あなたがいかに努力家で真面目で粘り強く、優しいユーモアに溢れている人か、いやというほど分かっていた。そんなあなたに、好きだと言ってもらいたかった。なのに、私はヤスさんを、傷付けたのだ。

 もう、私なんて無くなってしまえばいい……!


 ヤスさん、私、あなたが本当に好きだった……。


 最後の最後に残った感情は、これだけだった。綾美の時間は、止まったままだった。


 季節はすっかり秋になろうとしていた。朝の空気が冷たくなり、ギラギラしていた空は、スッキリと澄んだものに変わっていた。羽織るものが欲しい日が増え、白鳥が渡来することで有名な湖に、今年も第1陣がやって来たとニュースが流れていた。


「わざわざお時間作っていただいて、申し訳ありません。国分康幸といいます」

「柳佐久二です」

 少し冷たい風が吹き出した日曜日の午後、康幸は佐久二の自宅の近くにある公園にいた。

 公園では何組かの親子連れが遊んでいた。ママ友同士なのだろう。子供達は目の届くところで遊んでいる。ママたちは陽だまりに集まって、談笑していた。時々、わっと笑い声があがる。


「あの、それで今日はどういった……」

「僕は今、山下綾美さんとお付き合いをしております」

「あっ……」

 驚いた様子で康幸を見ていたが、すぐに目が泳ぎ出していた。

「あなたのことは、綾美さんから聞いています」

「……そうですか。元気なんでしょうか?」

「ええ、……多分」

 その答えに戸惑いながらも、まだ話の意図が分からず不安な表情を浮かべていた。

「今、少し離れてるんです」

 前を向いたまま、そう話す康幸の顔は穏やかに思われた。

「……離れてる?」

「ええ。綾美はまだあの事故を引きずっていて、心のいちばん奥を掴まれてしまっている。そこから救い出すために、今、離れてます」

 息を呑んでいる姿が、傍から見ていても苦しいほどだった。

「綾美は、僕が貰います」

 佐久二の方に顔を向け、真正面からその言葉を発する。

「……」

「だから、君とのことは本当に過去にするつもりです」

「過去……」

「はい、彼女は忘れるように努力するようになるでしょうし、思い出さない様に必死に食いしばることでしょう。そしてそれは、悪いことばかりではない。いい思い出も、全てです」

「……」

「だから、もう君も、綾美から解放されて欲しい」

 佐久二の大きく見開かれた目に、微かに涙が滲む。咄嗟にうつむき、息を整える。

「新田君から聞きました。結婚を考えている女性がいるとか」

「……」

「前に進んでください。胸を張って、幸せになって欲しい。そうしないと、綾美はいつまでたっても幸せになれない……。綾美が、君の不幸を望んでいると思いますか?」

「うっ……」

 佐久二は右腕を顔に当てて、嗚咽を漏らし始めた。吐く息だけが声になり、息を吸うたび、背中が大きく揺れていた。康幸は黙って隣に座って、公園で遊ぶ子供達を見つめていた。


「綾美を、よろしくお願いします。幸せに、してやって下さい」

 分かれ際、佐久二は康幸に頭を下げた。

 

 遠くから、2人のやり取りを新田はずっと見ていた。佐久二から離れ、康幸はゆっくり新田の許にやって来る。

「新田君、ありがとう。彼と会って話ができて、よかった」

「いいえ……」

 佐久二と会わせて欲しいと康幸から連絡を受け、今日の段取りをしたのは新田である。綾美と康幸の間に何があったかは聞いていないが、綾美からは別れたと聞かされていて、新城からはそんな綾美に、手を差し伸べるなと言われている。


 以前と違い、合唱の練習は2回休んだだけで、今はちゃんと参加している。自分達に対しても、以前と変わることなく楽しく接している。別段、無理しているようには見えない。

 ただ、何でもない時に、綾美はぼぅっとしていることが多くなった。それも練習で歌を歌っている最中だったり、食事の時に飲み物を飲もうとした時だったり、皆に気付かれないタイミングで、突然意識がどこかに飛んでしまっているかのように、ぼぅっとしているのだ。

 新田はこのことを、まだ誰にも話していなかった。もうすぐ2ヶ月経つ頃だ。


「一体、あなたはどうしたいんだ……」

「綾美を幸せにしたいだけだ……」

 そのために、不安要素は全て取り除く……。そう、君も。

「新田君、彼女は今一人になっている。もし今君が、見守るのではなく手に入れるというなら、僕は止めることはできない。彼女が君を選ぶのならば、その時は潔く身を引くよ」

「はぁ? なんだ、それ……」

「だが、次、僕が彼女を迎えに行った時は、もう君に手出しはさせない。覚えといてくれ」

 そう言い残し、新田の前から去っていった。

「余裕ぶっこきやがって……!」

 小さく吐き出すように呟き、新田は康幸の背中を見送った。



 この時期の月の光は、どの季節よりも清楚で艶めかしい。練習会場の近くにある1本の金木犀(きんもくせい)の香りも随分薄くなり、もうすぐこの季節が終わることを告げていた。

 綾美は新城達と合唱の練習を終え、恒例の食事に向かっている。次の合唱団の定期公演は来年なので、今は各パート共、音取りの真っ最中である。

 音取り中は皆の進捗に合わせているので、いつもなら綾美には少々退屈な時期なのだが、何かをしていなければすぐに康幸のいない現実に引きづり込まれてしまう今の綾美にとっては、何も考えなくていい時間として貴重だった。現実の時間を進めるために、皆と会わなければならないと、毎週欠かさず練習に来ていた。


「いい季節になったわね。『春宵一刻値千金』ね」

 夜空を仰ぎながら、新城がそんなことをいう。

「新城さん、春じゃなくて秋だよ。収穫の秋! 食欲の秋! ねぇ、今日は何食べる?」

「もぅ。春も秋も、似たようなもんじゃない。綾美ちゃん情緒ない……。えっとね、おでんと、串かつと、うどん」

「全部食べるの〜? それこそ、情緒ないよ〜。じゃ、私も付き合おうかな」

「やめとけよ、綾美。どうせ全部食べられなくって、こっちに回すだろ」

「だって、目が食べたいのよ、目が。いいじゃない、ちゃんと食べるわよ」

「まあまあ、どうせ新田は余りもの目当てに、自分のは少なめに頼むんだから、いいじゃないか」

「うわ〜、それ言ったら元も子もないぞ〜、内緒だろうが!」

 はははっと新田と加藤も交えて、行きつけのうどん屋に向かっていた。歩いて5分ほどの場所にある。加藤と新城が2人で前を歩き、新田と綾美が後ろに付いていた。いつも歩くときは4人がランダムに並ぶので、たまたま今日はこうなっていた。


「綾美」

「ん、なに?」

「今の佐久二のこと、知りたいと思ってるか?」

「……」

 突然のことに、思わず綾美の足が止まった。

「どう……したの。急に……」

 今まで、1度も加藤や新田の口から、佐久二の名前が出てくることはなかった。その優しさは綾美はよくわかっていて、ありがたいと思っていた。

「知りたくないなら、いい……。忘れて」

「聞かせたいことが、あるんだよね」

 思った以上に反応した綾美を見て、先を続けるかどうか、新田も迷う。

「いや……」

「大丈夫。ちゃんと聞くから。教えて」

 きちんと目を見て聞こうとしている綾美に、新田も心が決まった。

「佐久二、今度結婚することになった」

「えっ……」

 綾美の驚きは一瞬で、そのまま安堵の顔に変わっていった。

「そう……。よかった。会社の人?」

「派遣で、今年の4月から佐久二と同じ課で働いてた子」

「そっかぁ、会社で知り合ったならお互いよく分かって、佐久二君よかった」

「……」

 綾美はまた歩き出した。加藤と新城は、随分先まで行ってしまった。まぁ、きっと先に注文して食べ始めるだろう。

 綾美に合わせ、新田も歩き出す。だが次の言葉で、もう一度綾美は足を止めることになった。

「綾美がさぁ、このままずっと1人だったらさ、俺が貰ってやるよ」

「……! 何失礼なこと言ってるの! こんな可愛い私を、世の男性が放っておくはずがないじゃない!」

 いつもの返しに、それでも新田も心を1歩前に進める。

「もう自分で思ってるほど、若くないだろ。……俺が貰ってやる」

 真剣な目で、綾美を見つめた。この一言を伝えるために、どれ程年月が掛かったのか。

「新田君はさぁ、私には、もったいない……」

 新田の視線を真っ直ぐ受け止めていたが、綾美は微笑みながら視線を落とした。

「もっといい女は、いっぱいいるんだよ。ちゃんと、周りを見て」

「……俺じゃ、ダメなのか」

「きっとさ、新田君だと私一生甘えたままだわ。よくないよ、そういうの」

「……それの、どこが悪い?」

「う〜ん、何だろうなぁ、バランスかな。うん、きっとバランス」

 そういうと、綾美はまた歩き出した。新田は慌てて後を追う。

「新田君はいい男だよ。真っ直ぐで、情熱があって、優しい」

 そういいながら、拳で新田の肩を横から小突いた。その腕を、新田はたまらず掴んでいた。

「綾美!」

 腕を引っ張られて、動きを止める。ギリギリ、体は触れることがない位置だった。あぁ、ヤスさんならここできっと抱き締めてくれるな……と、抑え込む間もなく頭に浮かぶ。あぁ、ヤスさん……。


 また、綾美が意識をどこかに飛ばしている。目の前に俺がいるのに……。

「……綾美」

 呼ばれて、今に戻った……。

「やっばり、私にはもったいない……」

 その言葉に、新田は掴んでいた手を離した。綾美はそのまま新田の方を見ることなく、ゆっくりと前に歩き出した。ついてこない新田に向かい、ゲキを飛ばす。

「早く、お姫様のエスコートしなさい! 置いてくわよ」

「誰がお姫様じゃ! 行き遅れの、ばあ様が!」

 それでも新田は、今のままそばにいることを選んだ。これが、俺なんだなと思いつつ。



 いつの間にか、年末が近づきつつあった。シーズンだというのに、今年の綾美は、演奏会にほとんど足を運んでいなかった。舞台を見てしまうと、全てが康幸に繋がってしまい、苦しい時間しかやってこなかったからだ。エキストラの依頼も何件かあったが、全て断っていた。とても、集中して歌える状態ではなかった。

 新城や加藤や新田には、これ以上心配をかけてはいけないと、必死に今までの綾美を保っていたが、独りになればあっという間にあの「海月」の景色を思い出し、息ができない苦しい日々の中にいた。

 

 そんな綾美を、新城がイベントに誘った。12月24日、日本全国恋人デーに開かれるクリスマスイベントである。

 会場は地下鉄の駅のすぐそばにあるナイトバーだ。ここには小さなステージがあり、音大の学生などもよくプチ演奏会を開く場所だ。綾美も学生の頃、ここの舞台に立ったことがあった。クラシックばかりではなく、ジャズやポップスなど様々なライブが開かれる場所として、音楽仲間では有名なバーだ。

 クラシックの時は、大抵食事付きになっていて、演奏する曲もポピュラーな曲が多かったりする。がっつりとクラシックを楽しむのではなく、場数を踏むための場所として皆利用していた。

 ここで歌えばプロフィールに「数々の演奏会に出演し」と書けるし、拍手を貰えば「絶賛を博した」と書くことができる。新人演奏家がよく使う手である。


「新城さん、今日何やるの? 歌? それともピアノ?」

「4重奏だって聞いてるけど」

 新城のお友達が出演するとのことで、チケットが配られたらしい。客席を埋めるよう協力してと綾美は連れ出された。よって、綾美もタダで聴くことができる。食事も付いていて、綾美に負担は一切掛からない。クリスマスの恋人達を見るのは避けたかったのだが、お世話になっている新城のお願いには、なるべく応えたかったので協力することにした。

「4重奏って、何の?」

 4重奏は、あらゆる楽器で可能な編成だ。ピアノ4重奏もあれば、弦楽四重奏もある。木管、金管、打楽器、変わり種では、邦楽の三味線と笛と小太鼓にヴァイオリンというものまである。要は、4人の楽器の奏者が集まれば、それは4重奏なのだ。

「さぁ? 聞いたけど忘れた〜」

 新城は、実にあっけらかんとその辺をすっ飛ばす。綾美も慣れたもので、それ以上の追及は全く無駄であることを心得ている。

「まぁ、始まれば分かるね」

 そう言って、ドリンクのみオーダーする。あとは、決まった料理が運ばれてくるはずだ。さすがにクリスマスとあって、席が満席に近い。皆、生の音が聴ければそれだけで満足するお客さんの層と考えた方がいいだろう。これなら、私が来なくても席は埋まったはずだと、内心新城に恨み節をこぼす。

 各テーブルは普通のレストランと変わらないものなので、ステージに背を向けることになる人もいるバーだ。

「いいよ、私がこっちに座る。新城さんは、お友達にコンタクトして」

 コンタクトとは、ここに来てるよと奏者に教えることを指す。ステージ上から手を振るわけにいかないので、こちらからだけ手を振ることが多い。綾美はステージに背を向ける椅子に座った。


 照明が落ちる。「きよしこの夜」が流れ始めた。

 綾美は吸いつけられるように舞台の方に体を向けた。その音は懐かしく、あのヘンデルの音がしていた。ピッコロトランペット……。岡島が吹いていた。

 スポットライトが当たっていて、他の3人の姿はまだ暗闇の中である。「救いの御子は……」で、他の楽器が重なってきた。照明も4人全てに当たった。綾美は静かに席を立った。

 

 康幸がトロンボーンを吹いていた。


「綾美ちゃん、行って!」

 新城が小さく背中を押す。その言葉を聞いて、心の(たが)が全て外れた。

 あぁ、ヤスさん……! 会いたかった……。会いたかった……。会いたかった! 自然に足が前に出る。ステージに向かい小走りになる。涙で視界がぼやけていく。

 他の観客が、綾美に気が付いて顔を上げて見ている。いつのまにか、綾美にまでスポットライトが当たっていた。綾美は、そんな周りの景色など、目に入ってはいなかった。

 康幸はまだ曲の途中にも関わらず「ごめん」と隣に小さく声を掛け、トロンボーンを置く。そのまま一歩前に出て、綾美がやって来るのを小さく手を広げて身構える。

 そこに、綾美は躊躇することなく飛び込んだ。康幸の首にしがみつく。

「会いたかった!」

 康幸も力いっぱい綾美を抱きしめた。綾美の足が浮く。その重みを全て受け止める。

「会いたかった。会いたかった。会いたかった」

 小さく声を上げて泣きながら、何度も何度も、何度も繰り返す。康幸もその声に胸が締め付けられていく。

「もう、離さない……」

 綾美に向かって、囁いた。


 会場から「キャー」と歓声が上がる。拍手が沸きあがっていた。2人の状況が分かっているわけでもないのに、綾美の涙にもらい泣きまでしている女性客もいる。曲が終わり、岡島がマイクを手に取った。

「えー、皆様。2人の再会に改めて拍手を!」

 会場からの大きな拍手と、岡島の声に綾美がやっと我に返る。

「あぁ、やだ、ごめんなさい」

 慌てて康幸から離れてステージから降りようとしたのだが、康幸は綾美の腰を片手で抱えて、離れることをさせてくれなかった。


「改めまして、皆様こんばんは。本日は『金管4重奏によるクリスマスの調べ』にようこそお越しくださいました。えー、まずはメンバーの紹介を。1曲は持つかと思ったのですが、思った以上に彼女さんの反応が早く、曲の途中で離脱したトロンボーンの国分」

 ここで、笑いと拍手が康幸に贈られる。康幸が苦笑いをしつつ、挨拶をする。手を繋いだ綾美も釣られて頭を下げた。

「後、トランペットの菊池とホルンの林、そして私、岡島でお送りします」

 皆が挨拶をし、会場からの拍手を受けた。

「演奏を始めたいのですが、実は今日、この会を企画した国分の人生が掛かったイベントがありまして、しばらくお時間を頂きたいと思います。どうか、お食事を楽しみながらお付き合い下さい。えー、今、皆様の最も興味がある2人ですが……」

 会場から笑いが漏れる。

「ご想像通り、2人はしばらく離れておりまして、本日久々の再会でした。まぁ、離れていた理由は、僕も詳しくは聞いてないのですが、要は結婚を父親に反対されていて、それを解決すべく国分が孤軍奮闘していたわけでして」

 それを聞いていた綾美が、驚いて康幸を見た。康幸はずっと綾美を見て微笑んでいる。綾美の腰を抱えたままだった。

「ここで、皆様にはビデオメッセージをご覧いただきます」

 会場の横にプロジェクターで映像が映し出される。そこには剛の後ろ姿が映っていた。

「あなた、ちゃんとこちらを向いて話してください」

 知佳子が剛に話し掛け、こちらを向かせている。スマホで撮った動画らしい。

「……何だ。分かったよ……」

 剛が、苦虫を潰したような顔で、アップにされる。

「康幸、私は疲れた。綾美さんとの結婚を認める。だから、毎日仕事帰りに日参するのは止めてくれ。全く、迷惑だ。以上だ」

「康幸、ちゃんと言質(げんち)は取りました。お母さんは約束を守ったから、あとはあなたが頑張りなさい。綾美さん、いい返事待ってるわよ」

 会場から「おぉ」と歓声が上がる。男性の声が多いのは気のせいだろうか。綾美は驚くことばかりで、頭がついていかない。皆がステージの2人に視線を戻した。

「綾美」

 康幸が綾美の肩を掴んで、自分の正面に向けた。会場の女性達も一斉に息を飲む。

「僕と結婚して欲しい」

 そういってポケットから、あのネックレスを出した。綾美はもう気持ちを抑えきれない。何度も頷き、そのまま康幸に抱き付いた。もちろん、OKだ。また涙が止まらない。康幸も綾美をしっかり抱き抱えた。

 会場からまた「キャー」と悲鳴が上がる。暖かい拍手が続き、舞台上の3人が楽器を吹き始める。メンデルスゾーンの「結婚行進曲」。

 ファンファーレが鳴り響く中、康幸がネックレスを付けてくれた。康幸は綾美の首を引き寄せ、おでこ同士を合わせた。

「幸せになろう」

「はい」


 その後は綾美も自分の席に戻り、新城に祝福され、ステージも予定通りに終了した。念願の康幸と岡島のアンサンブルも聴けて、しかも1曲、超絶技巧の曲を入れてくれて、綾美は喜び以外の感情が探せない。

 イベント終了後、綾美は他のメンバーに何度もお礼を言い、実は今日のこの計画を全て知っていたという新城にもお礼を言い、会場で別れた。2人で康幸のマンションに車で向かっていた。

「綾美、もう一緒に住もう。引っ越しといで」

「……うん、分かった!」

 綾美は色んな不安を引っ込めた。康幸について行こうと決めたから。

「お義父さんのところに、通ってくれたの? ヤスさん、あんなに忙しいのに」

「綾美を取り戻すためなら、大したことない。それに、お陰で父さん女と別れたし……。彼女の家まで行ったからね」

「えっ、うそ……」

「やっぱり綾美知ってたんだ……。それも、綾美のお陰だよ。きっと、母さんも安心する。あぁそれから、僕は他に女は作らないから安心して。同時に2人って、僕無理だから。綾美ひとすじ。約束する」

「ヤスさん……、私ヤスさんに謝らないと……」

「綾美、あの時言った言葉は、全部忘れて欲しい。あそこに僕の本心は1つもない。君を傷付けることは分かっていたけど、ああしないと先に進めなかった」

「ヤスさん……」

「そのマフラー、まだ持ってくれていたんだね……」

 綾美の首には、康幸がくれたマフラーが巻かれていた。

「私の手元に、唯一残ったものだったから……」

 康幸は車を脇道に進め、止めた。あらためて、綾美を見つめる。

「綾美、君に知って欲しかった。一瞬で全てなくなることもあるけれど、一瞬で全て手に入れられることもあるってこと」

「……」

 それを知らせるために、康幸は綾美を一旦手放した。これは大きな賭けだったが、綾美の覚悟の上を行くには、これしかないと腹を括った。綾美は無事逃げ出さず、留まって乗り越えてくれたらしい。康幸にとっても、こんな思いはもう懲り懲りだと思っている。


「ヤスさん、私ヤスさんに会えてよかった」

「これでもうずっと一緒だから。綾美、愛してる」

「私も、愛してる」

 綾美の首を引き寄せて、唇を重ね確かめる。やっと、2人は元の場所に戻ったのだと……。

 クリスマス・イブの夜、キリストが生まれたことを祝う前日。それは、恋人たちの聖夜でもあった。

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