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康幸の想い

「綾美ちゃん、今日夕飯は外食にしよう」

「どうしたの? 何か食べたいものがあるの?」

「いや、ちょっと欲しいものがあって。今から出掛けよう」

 日曜の午後、康幸がそんなことを言い出した。


「あなた、今日はお出掛けされませんね」

「あぁ、ちょっと学会用の資料作成があってね。何か、あったか?」

「いえ、夕飯の準備がありますので」

「そうか……」

 そういうと、剛は書斎に入っていった。時間は3時を過ぎたところだ。知佳子はスマホを出して、電話を掛けた。

「誠二、今日予定通り来られる?」

「大丈夫だよ。しかし、楽しみだな。兄さんの新しい彼女、どんな人?」

「可愛らしい人よ。ちょっと、歴代の彼女とは違ってるから、驚くわよ」

「今まで兄さん派手な人多かったからなぁ。何だろ、あれ。ないものねだりかなぁ」

「まぁ、どっちかっていうと、相手が康幸を離さないって感じだったわね」

「そうそう、巻き込まれ系だな。孝子さんなんて、初めて会ったの入籍後だったもんな」

「そうよ、あれはお母さんも困ったわ。お父さんなんて勘当するって息巻いてたんだから」

「その上を行ったのが、孝子さんだったけどな。『成人している1人の男性が、生涯の伴侶を選択するのに、親の許可は必要ありません!』って、カッコよかったよなぁ……」

「……、嵐のような人だったわねぇ」

 知佳子は思い出しながら、溜息をついた。

「で、今日の人は?」

「会ってからの、お楽しみね……。誠二なら分かるかしら。今日の人ね、康幸のどこが良かったのって聞いたら、音だっていうの。トロンボーンの。それって、音楽的な才能に惹かれたってことなのかしら」

「へぇ、音楽やってる人なの?」

「声楽科出身らしいんだけど、今は普通のOLさん。会計事務所に勤めてるって」

「じゃあ、違う意味なんじゃないかなぁ。もちろん兄さんは上手いから、その事も含んでるだろうけど。音はね、その人の全てが出るんだ。音楽やってるなら分かる。特に、ステージの上では丸裸。考え方や性格や生き方や……。つまり、そういった兄さんの全てが好きだって事じゃないの」

「あら、そういうこと。お母さん、分からなかった」

「確かに、ちょっと今までと違うタイプらしいな」

「そうよ。楽しみにしてて。……ねぇ、百合さんは、やっぱり来ない?」

「あいつは、いいよ。実家に帰って夕飯食べるって言ってた」

「そう……。実家の方が、まだ居心地がいいのねぇ」

「まぁ、お嬢様だからな」

「そうねぇ……、実家だと大切にしてもらえるものねぇ。まあ、いいわ。じゃ、待ってるからね」

 誠二は、康幸の弟だ。「国分医院」の跡を継ぐ予定で、今も医院で父の剛と一緒に診察をしている。親の勧める見合いで、剛の開業医仲間の娘の百合を嫁に貰い、車で30分程離れた場所に住んでいる。結婚して3年程経っているが、まだ子供はいなかった。知佳子とは仲が悪いわけではないが、所詮、嫁と姑である。特段、仲がいいわけでもなかった。

「いないならいない方が、綾美さんも少しは楽かしらね」

 そんなことを口にしながら、来客の準備に勤しんでいた。


「ねぇ、どこ行くの? 銀座なんか来て、何買うの?」

「綾美、嫌がらないで僕の言う通りにしてよ。お店で喧嘩したくないからね」

「な〜に? 私ヤスさんの買い物に文句言わないよぉ。……あっ、分かった。お洋服? いつもヤスさん素敵なの着てるから、それだ! わぁ、楽しみ〜。前言撤回。文句言わないけど、私にもちゃんと「どっちがいい」とか聞いてね。選んであげたい〜」

 隣でワクワクが始まった綾美を横目に、康幸は少し笑って澄ました顔をしていた。

「……、まぁそんなところかな」

 そう言って、レクサスをデパートの駐車場に滑らせた。


「予約していた国分ですが」

「ヤスさん。ここ……」

 康幸が綾美を連れて来たのは、宝石店だった。ダイヤモンドが世界的に有名なブランドである。

「やだ……、私こんなお店入れない……」

「僕の言う通りにするって、約束したでしょ」

「でも……」

 応接セットに案内され、店員が何点か品物を持ってきた。そこには、ネックレスが5点ほど並んでいた。

「綾美の好みがまだ分からなくて、決め切れなかった。選んで」

「ヤスさん……。私、貰えないよ……。お誕生日でもないし、クリスマスでもないし……。どうしたの?」

「綾美ちゃん、あのカードでまだなんにも買ってないでしょ。このまま放っておくと、きっとなんにも買わないでしょ」

「……だって」

「僕が選んだもの、身に付けてくれると嬉しいから。誕生日とクリスマスは、また別に用意するよ。さぁ、選んで」

「ヤスさん……、ありがとう」

 おずおずと綾美は選び始めた。そこには、1カラットは越えているダイヤのネックレスから、細工が美しいカラーストーンのものまで、様々なデザインのものが並んでいた。

「あの、もう少し小さいダイヤのネックレスはありますか?」

 綾美は店員に聞いた。

「何で? 遠慮してる?」

 康幸が訝しげに綾美に聞く。

「ううん。ここにあるもの、どれもすごく素敵。目移りしちゃう。でも私、毎日着けたいから、これだと目立ちすぎちゃうの。会計事務所の所員が、お客様より素敵なものつけて接客できないから……」

「あぁ、そういうことか……」

「でも、ここのダイヤは本当にいいものだから、きっと今から見せてもらえるものでも、私には不釣合いだと思うけど……。でも、着けてるとヤスさんをいつも感じられると思うから、やっぱりいつも着けていたいから……」

 一生懸命説明しようとしている綾美に、康幸は優しく声を掛けた。

「なんでもいいよ、綾美が選んだものなら。僕もこれで少し安心だ。他の男をけん制できるからね」

「けん制なんて、いらないよ〜。相手がいないもん。余分な心配だよ」

「そう思ってるのは、君だけだよ」

「?」

「お待たせ致しました。こちらはいかがでしょう?」

 そういって見せられたのは、既に並べてあるダイヤより、大きさは1回り小さいのだが、氷のような輝きに表面がしっとりと覆われているダイヤのネックレスだった。

「カナダの北極圏の雪と氷の下から採掘されたカナディアンダイヤモンドといわれるものです。こちらの南アフリカ産のものよりほんの少し硬度は落ちますが、透明度が高く、普通に見ていただいても瑞々しさが分かっていただけると思います。個人的意見ですが、私はこちらのダイヤがとても好きなんですよ。若い方には、この瑞々しさがとても似合うと思います」

 落ち着いた雰囲気の女性店員が、ニッコリと笑って説明した。

「綺麗だな……」

「ほんと……」

 ネックレスを手に取り、康幸が綾美に後ろから着けてくれる。それを鏡で見て、ほぅと溜息がもれた。

「これ、どう。似合ってると思うけど」

「うん。これ素敵……」

「じゃ、これにしよう。そのまま、着けてて。夕食それで行こう」

 店員に伝え、カードで支払いを済ます。いくらなのか、綾美には教えてもらえなかったが、きっと高いことは誰でも分かる品物だ。店員がケースを取りに行ったところで、綾美が改めてお礼を言った。

「ほんとに、ありがとう」

 大切そうにダイヤに手を当て、綾美は康幸を見つめていた。目が潤んできたので、康幸はそっと頭に手を載せ、髪を撫でて落ち着かせる。

「綺麗だよ」

「……ありがとう」

 店を出て、車で移動をする。さぁ、実はこれからが、今日のメインイベントである。康幸は少し気持ちを立て直した。


「国分医院」の看板が見えてきたところで、綾美が声を上げる。

「ヤスさん、まさか、ヤスさんの実家じゃないよね!?」

「ゴメンな、黙ってて……。母さんが、どうしても今日連れて来いって」

「お義母さんが……?」

「そう。昨日急に連絡があって、今日なら父がいるからって……。綾美ちゃん緊張するから嫌だろうと思って、断ったんだけど」

「お義父様がいらっしゃるの……?」

「そうらしい。無理に会わせなくてもって言ったんだけど、どうしてもって聞かなくて。どうしてだか、分からないんだけど……」

 康幸の父が結婚に反対していることは、知っている。しかも、私はちゃんとヤスさんと別れると伝えてある。その上、なにがあるのだろう。知佳子の気持ちが、推し量れないでいた……。

 ただ、その知佳子を苦しめる康幸の父には、少なからず思うところがある。別の意味で会いたいと思っていた。覚悟を決めて、言葉にした。

「いいです。何か、お考えがあるんだろうから……」

「ちょっと父さん頑固で……。不愉快な思いさせるようなら、すぐ帰るから。我慢しなくていいからね」

 綾美は無言で頷いた。自然にネックレスに手が行き、気持ちを引き締める。そこで、ふと気がついた。

「ヤスさん、これ、そのため?」

 ダイヤの感触を指先で確認しながら、康幸に聞いた。

「そういうわけじゃないけど、ちょっとお守り的な意味もあったりするかな……」

「ヤスさん、意外と乙女……」

「そうかぁ? まぁいいや、綾美がそう言ってくれるなら、少し安心した。じゃ、くれぐれも無理しないで」

「うん。頼りにしてるからね」

 康幸は頭に手を置き、くしゃくしゃする。綾美はその手を取って、膝の上で両手で包んだ。よろしくお願いします。


 玄関は割と小さなつくりで、心配していたような人を威圧するかのような広さはまるでなかった。

「綾美さん、いらっしゃい」

 知佳子が1人で出迎えた。そのことに少しホッとした綾美は笑顔を向ける。

「お義母さん、こんにちは。ごめんなさい。手ぶらで来てしまって……」

「あぁ、そんなの要らないよ」

 横から康幸がフォロするが、綾美には綾美の立場がある。そうもいかない。

「いいのよ。きっと、ここに来るって知らされてなったんでしょう。夕食、今準備中なの。綾美さんも手伝って」

「はい。お邪魔します」

 そういって、知佳子に続いてまずはリビングに入る。壁には砂漠の風景と思われる絵と、現代作家のものと思われる幾何学模様の絵、それに、金箔が施された1m幅の天井から床につきそうなほどの織物のタペストリーが飾られている。応接セットは、以外とシンプルに、でもきっと高価と思われるグレーの革張りのソファーがあった。10人は座れる数がある。床には、ソファの色より一段深いグレーの無地のじゅうたんが引いてあった。

 部屋の広さは20畳ほどあるだろうか。小さなコンサートが開けそうな部屋である。

「はじめまして。弟の誠二です」

「なんだ、お前も来てたのか?」

「母さんに呼ばれてね……。また、可愛らしい人だ。母が待ってますから、どうぞキッチンへ」

 康幸に答えつつ、綾美に会釈を寄越す。綾美は、康幸より随分柔らかい印象の弟さんだと思う。髪に少し色が入っていて、パーマも掛かっている。きっと、子供からお婆さんまで、オールマイティに受けがいい「先生」なのだろう。

「はじめまして。山下綾美です。よろしくお願いいたします」

 ゆっくり挨拶する暇もなく、綾美は知佳子の後を追う。

「……兄さん。ほんとに今までとは違うね」

「まだ、何にも話してないじゃないか」

「いや、まずは見た目でしょ。なに、あのホンワカ系。今までの、女王様系はどうしたの?」

「……、卒業だな」

「へぇ……、がぜん興味が沸いて来た」

「お前が興味を持つと、始末が悪い。愛嬌振りまくなよ」

「何、自信ないの? 僕に取られる?」

「まぁ、それはないな」

「いやだねぇ、その感じ……。あのネックレス、ウチの外商?」

「ちゃんと、自分で払ったよ。失礼だな」

「また、どんどん買われちゃった?」

「今日、無理やり買わせたの。そうしないと、いつまでたっても買わないんだよ、彼女は」

「へぇ……、やっぱり興味が沸いて来た」

「お前なぁ……」

「父さんがどう出るか、楽しみだな」

「フォロ頼むぞ」

「まかせときなよ」


「今日は、この間LINEで送ってもらった赤味噌、用意したのよ。『赤だし』食べてみたくて」

「私の場合、お味噌汁ですけど、いいですか?」

「あら、同じでしょ」

「『赤だし』は、ほとんど具材も入らなくて、味噌に鰹節入れて1度濾すんです。私のは、ほんとにお味噌汁の味噌が、赤味噌に変わるだけなので」

「いいわ、綾美さんので。それが美味しいって、康幸は言ってるんでしょ」

「はい。……じゃ、いつもの様に作りますね」

「そうして。あと、何か一品作ろうと思ってるんだけど、この材料でできるものある?」

 そういって、知佳子は冷蔵庫の中を見せる。この材料って……、全部揃ってるじゃないですか!? 肉から野菜から魚まで……。お義母さん、なに企んでます? まぁ、いいか。これなら、私のしたいことも、できそうだ……。

「鳥と卵の煮込みはどうですか? 康幸さん、好物になったって言ってくれてたんですけど、最近作ってなかったので。圧力釜貸していただけるなら」

「あら、いいじゃない。それにしましょ」

 綾美が到着してから30分ほど経ったころ、全ての料理がダイニングテーブルに並んだ。こちらのダイニングは、リビングに比べ少しこじんまりしている。しかし、食器やカトラリーセットはやはりマイセンで統一されており、取り扱う時には、綾美もさすがに緊張した。

「主人を呼んできますね。待ってて」

 その一声で、綾美の緊張が一気に高まる。康幸がそっと声を掛ける。

「大丈夫。緊張しないで……」

「はい……」

 そうはいっても……、である。自然にネックレスに手が行き、ダイヤを指先で確認していた。あぁ、これ、ほんとにお守りになるんだ……。後で、ヤスさんにもう一度お礼を言おう。


「なんだ、お客さんが来てるのか」

「父さん、こちら山下綾美さん。この間話した人だよ」

「……、聞いてないぞ」

 不機嫌を声にしたらこうなる、という見本のような口調で遠慮なく言われ、綾美も少し硬くなる。

「あらぁ、言ってませんでしたか。じゃ、今言いましたからね。お料理が冷めちゃうから、綾美さんも席に着いて」

 軽々といなす知佳子に促され、自己紹介だけして綾美も席に着いた。

「山下綾美と申します。はじめまして。突然お邪魔して、申し訳ありません。よろしくお願いいたします」

 剛はそれに応えることもなく自分の席に座る。剛の「いただきます」という声を合図に、食事が始まった。

「わぁ、この味噌汁旨いな。これ、母さんが作ったの?」

 誠二が一口食べて、開口一番絶賛する。

「綾美さんに作ってもらったの。ほんとに美味しいわね。具財もたっぷりで、これだけで一品になるわね。これから、私も作るわ」

「な、旨いだろ。もっと濃くて塩辛い味かと思ってたんだけど、こうやってカボチャや玉葱や里芋が入ると旨いんだよ。甘く感じるんだけど、違う?」

「当たり。赤味噌には甘みのある食材が、よく合うの。あと、しじみとあさりなんかの「貝」や、なめこやえのきの「きのこ類」でしょ。それから、大根と牛蒡とニンジンなんかの根菜類も合うの。あっ、ニンジンはダメね……」

「そう!」

 康幸の苦手を確認しあう2人を見て、誠二や知佳子も声を出して笑う。

「でもよかったです。皆さんのお口に合って」

「……」

 剛だけは黙って食していたが、特段不味くはなかったようで、2口目も食べてくれたので、綾美は内心ホッと胸を撫で下ろしていた。

 知佳子は今日、サーモンを丸まる一尾使った香草焼きをメイン料理にしていた。その他、ナッツが何種類か入ったサラダに、いくつもの煮物と焼き物が並んでいる。どれも味が違って、本当に美味しい。その中の1つ、牛肉のつくだ煮を口にした綾美が、思わず会話に載せる。

「お義母さん、これ美味しいですね。しょうがですか?」

「そう。康幸も誠二も、学生の時はお弁当に欠かせなくてね」

「あぁ、確かに。懐かしいな」

 康幸がそういったのを聞いて、綾美の顔が自然とほころんだ。

「じゃあ、これも教えてもらってもいいですか? お義母さん、よろしくお願いします」

「はいはい。あとで、残ったのも持っていって」

「母さん、ウチにも頼むよ」

 そう割り込んだのは、誠二だ。知佳子は嬉しそうに、また「はいはい」と答えていた。

「これ、久し振り。旨そう」

 そういって、康幸が鳥の煮物に手を付ける。誠二も口にしてニッコリと笑う。

「鳥が柔らかいな。兄さん、鳥好物だから、こりゃ嬉しいだろ」

「そう。ちょっと、ご無沙汰だったけど、今日は食べられて満足」

「ごめんね。気になってたんだけど、圧力鍋ないと時間がかかって、お肉硬くなっちゃうから……」

「じゃ、圧力鍋買えばいいのに。今まで、どうしてたの?」

 康幸が不思議な顔で聞く。

「家から、持って行ってたんだけど……」

「あら、あんな重いもの、大変じゃない。無いの? 康幸のお家には」

 知佳子が綾美の苦労を代弁してくれる。

「綾美がないって言うなら、ないよ。鍋も綾美がこないだ初めて買い足したんだから」

「へぇ、面白いなぁ。でもまあ、男ひとりなら、そんなに鍋いらないもんな」

「誠二さんは、1人暮らしされたことはあるんですか?」

「僕ですか? ありません。そんな面倒臭いことしませんよ。兄さんも、音大に行ったから1人暮らしになっただけだしな。遠かったもんなぁ」

「まあな」

「そうですか。じゃあ、誠二さんはお幸せですね。いつも、手料理で」

 誠二が結婚していることは、以前康幸から聞いていた。

「そうですか? なんだか、それが当たり前で……」

「いいえ。とっても、お幸せなことです。作りたてのものが食卓に並ぶのは」

「そうよ。お母さんや百合さんの気持ち、1番分かってくれるのは、やっぱり綾美さんね」

「そうだぞ。僕はめったに夕食家で食べないから、綾美のご飯は何物にも変えがたい……」

「あら、病院のココイチも美味しいって、言ってなかった?」

「あれは、あれ。綾美のは、別物」

 そういわれて、思わず康幸と笑顔を交わす。ヤスさんが美味しいって言ってくれれば、ココイチに勝てなくても全然満足である。私もココイチは大好物だ。

「ごほっごほっ……。何だ、これは!」

 突然、剛が咳き込んだ。よく見ると、鳥を食べてむせている。皆、驚いて剛に注目した。

「酸っぱい……、ごほっごほ……」

「やだ、お義父さん。すみません! 酢が強かったんですね。いま、取り替えます。申し訳ありません」

 そう言って、綾美は慌てて剛の皿を引っ込めた。それを見た皆が、もう一度鳥に手を伸ばす。

「……」「……」「……」

 3人は顔を揃えて不思議がった。

「酸っぱいか?」「いいや……」康幸と誠二が首を傾げつつ、食べ進めている。それを見ながら知佳子が小さく目を見開いた。

「綾美さん……」

 冷蔵庫のチルド室から、鳥肉を利用した小鉢をひとつ、剛に差し出した。皆の前には並んでいない1品だ。

「ほんとに申し訳ありません。代わりに、どうぞこちらを……」

 梅肉と大葉で和えてあるようで、さっぱりとした料理に見える。おそるおそる口にした剛だったが、こちらは何ともなかったようで、無事何事もなく食べ進めていった。皆が安堵に包まれて、食卓が元に戻る。

 席に戻ってきた綾美は、知佳子と目を合わせ、肩をすくめて笑っていた。それを見て、今度は知佳子もニッコリと笑った。


「この辺りは住宅街のように思いますが、開業された当時も、そうだったんですか?」

 食事も落ち着いてきた頃、綾美がそんな質問をした。康幸は昔を思い出す。

「確かに、他にお店とかってなかったような……。どうだったかなぁ」

「そうなのよ。古い医院が1軒あってね、あとはみんな住宅だったわ。今でこそ、カフェや雑貨やお洋服や、お洒落なお店が増えたけど、戸建て住宅ばかりで、昔からずっと住んでる人達ばっかりだったわ」

「古い医院……。では、新しく患者さんに来てもらうために、苦労されたんじゃありませんか? 古い医院なら、代々そのお医者様に掛かってらっしゃる方ばかりだったでしょうから……」

「そうなの。色々考えてね……。内覧会を開いたのよ」

「30年以上前に、内覧会って珍しかったんじゃないですか?」

「ええ。皆さん驚いてらっしゃったわ。でも、それからやっと患者さんが来て下さるようになって」

「へぇ、そうだったんだ」

 康幸も初耳らしい。誠二も興味深げに聞いている。

「この建物の配置も、とても良く考えられてる……」

「そう?」

 2杯目のご飯を綾美から受け取りながら、康幸が相槌を打つ。

「病院って、駐車場が本当に難しいの。大抵、初めて建てられた方は、ないがしろにしてしまって、後で困るんだよ。でも、こちらは動線までよく練られてて、すごいなって……。車が入るのも出るのもとても楽だし、車寄席があるなんて、本当に患者さんは楽だと思う。車椅子の方のスロープにも無理がないし……。多分駐車場のために、ご自宅を少し犠牲にされたかと……」

「……、君は、建築でも勉強したのかね」

 それまで一言もしゃべらなかった剛が、初めて口を開いた。

「いえ、実家が商売をしていましたので、ロケーションとかお客さんの気持ちとか、父がいつも聞かせてくれていたんです。今、会計事務所で仕事していますので、お客様は自営業の方が多いんです。そういった社長さん方にも、色々教えていただきました」

「なるほどなぁ。考えたこともなかった」

「ヤスさんは、勤務医さんだもん。必要ないし、必要にならなきゃ普通考えないから……」

「でも、それは父さんも同じだったはずだから。どうやってできたの? これ」

「友人だ。設計士の友人が、助けてくれたんだ。それまで、他の医者に紹介された設計士で進めてたんだが、そこに友人が怒鳴り込んで、こうなった」

「へぇ」

「最初、彼女の言うとおり、もっと自宅は大きくて、建物も敷地の中心に設計してたんだ。私もそれでいいと考えていた。だが、その青図を見て、友人が激怒したんだ。どこに駐車場を作る気だ! って。そしたら、それまでの設計士が平然と言ったんだよ。足らなければ、隣の土地を借りればいいと」

「それは、ひどい……」

 綾美は静かに呟いた。それを聞いて、剛も綾美を見る。

「友人も、全く同じことを言った。銀行は、病院にはすぐに金を貸してくれる。だが、返していくのは私1人だとね。これからどんどん設備だって入れ替えなきゃならないのに、これ以上借金増やしてどうするんだって」

「そうですね……」

 剛の顔を見て、綾美が答える。

「目からウロコが落ちたよ。それから、その友人に設計を任せたんだ。お陰で、少し自宅は小さくなったが、10年も掛からずに借金は返せた」

「それは、お医者様と言うだけでは、なかなか実現しないお話だと思いますが……。きっと、大変な努力もされたんではないんですか……?」

 その質問には、知佳子が答えた。

「そうなの。朝も、夜も、患者さんが来たら断らないで、往診も随分したのよ。看護婦さんもいない時間は、私が鞄持ちしたりして……、懐かしいわ」

「そんな話、初めて聞いた」

 康幸が驚く。

「あなたは、まだ小学生だったから、あんまり覚えてないでしょうね。あの頃、まだお義母様がいらしたから、あなたたちのことを見てもらったりして」

「ああ、だからよくお祖母ちゃん家で、僕等泊まってたのか……」

 誠二が思い出したように言う。

「そうなの、ヤスさん?」

「そういえば、そうだったな。よく2人で、お祖母ちゃん家に泊まったよ」

 康幸が綾美に答えて、綾美は小さい頃の康幸を知ることができて嬉しい。食卓に懐かしい空気が一時流れる。どんな家族にも、色んな歴史があるものだ。


「お茶を入れますね」

 綾美が席を立ち、知佳子もそれを手伝う。食後のデザートで桃を味わい、剛はそのまま書斎に戻った。その後を、知佳子が付いて行く。

「少し面白いお嬢さんでしょ」

「……、それと康幸の嫁にすることとは、別だ」

「設計士の山田さん、お元気かしらねぇ。今家に来てくださるのは、息子さんになっちゃったから、どうしてらっしゃるのかしら……」

「今度、連絡でもしてみよう……」

「是非、そうして下さい。楽しみだわ」


 食後、リビングで康幸と誠二はゆったりする。キッチンからは綾美と知佳子の笑う声が聞こえていて、それを聞きながら誠二が話し掛けた。

「兄さん、いい人じゃない」

「そう思うか?」

「うん。あの父さんの口を開かせたからね。昔話まで引き出した。なかなかやる……」

「あれは、確かにな。いつも話してても、ちょっと違う視点で物を見てることがあって、面白い」

「音楽やってるって?」

「歌だ。メゾだよ」

「どんな歌、歌うの?」

「あのままだな。優しい歌だ。人の心に滑り込む……」

「うらやましいな……」

「……珍しいな。誠二がそんなこと言うの」

「百合と母さんと、あんな風に笑いながら話してるのなんて、聞いたことないよ」

「……、そういえばそうか?」

「さっきの、鳥の料理の……」

「あれ、僕のは旨かったんだけど、お前のは?」

「僕のも美味しかったよ。あれ、わざとじゃないかな」

「は? 何で?」

「兄さん知らないだろうけど、父さん女がいる」

「えっ……」

「きっと、母さん知ってると思うよ」

「……何やってるんだ。いい歳して……」

「それを、どうして綾美さんが知ってるのかは知らないけど、その仕返しみたいな気がする」

「まさか……。何にも聞いてない」

「母さんも最初驚いてたけど、綾美さんが席に戻ってきて視線交わした、その感じで分かった。代わりの一品も、ちゃんと用意してあったしね。綾美さん「やっちゃいました」って顔して、母さんに笑ってたし、母さん何だか嬉しそうだったし……」

「お前……、よく見てるな」

「次男だからね。ちゃんと人を観察してから動くんだよ。暢気な長男とは違う」

「……、そんなに暢気でもないつもりだけど」

「でも、綾美さんとなら上手くいきそう。結婚式、するの?」

「……そこまでまだ進んでないよ」

「早くしたら? そんなに若くないんだし」

「1つしか違わんだろ! ……ちょっと、綾美が嫌がってる」

「へぇ、何で」

「今、説得してるところだよ。……綾美、ちょっと今までの女性と違っててさ」

「兄さんが、手間取ってるの!? それこそ珍しい。女なんてすぐ手中に収めちゃってたのに」

「始めて会った時も、医者だって言ったら、凄く嫌な顔されて……」

「それも珍しいな。僕、女性に医者って言って、嫌な顔なんてされたことないよ」

「だろ。その後に、何で音楽家にならなかったんだって、医者なんて誰でもなれるのにって言われて」


 ――ヤスさんなら、一流の音楽家になれたのに……。特別な才能は、誰にでも与えられるわけじゃない!


「凄いな……。兄さんそりゃ、イチコロだ……」

「……まあな」

「……えっ、のろけか?」

「そうなるかな」

 誠二は、目を瞠った。康幸は表情を変えていないように見えるが、長年の付き合いの誠二には良くわかる。嬉しそうだ。

「……。ほんと、驚くなぁ。母さんの言った通りだ。兄さんの自慢、初めて聞いた」

「だからこそ、何を嫌がってるのか、分からないんだ。前に進めようとしない。本当は僕じゃだめなのかなって、思ったりな……」

「ふ〜ん。ちなみに、あっちの方はどうなの。相性とか……」

「っ! お前、そういう……。聞くか、普通!?」

「いやいや、大事でしょ。それが原因なら、女性のタイプによっては致命傷だし」

「うっ、致命傷って……。綾美はそういうタイプじゃないし、そっちは上手くいってる……」

 って、何でこんなこと誠二に話してるんだ……。

「じゃ、彼女も兄さんに惚れてるはずだよ。兄さんのどこが良いのかって聞かれて、何て言ったか知ってる?」

「知らないよ。誰がそんなこと聞いたの」

「母さんだよ。なんて答えたと思う?」

「何て……?」

 誠二は、一呼吸置いて口を開いた。

「音だよ。トロンボーンの」

「……」

「それってさ、兄さんの全部が好きって事だろ。僕もさぁ、そんな人と出会いたかったなぁ。骨抜きにされる相手……。たまらんなぁ」


 ――ヤスさん、だーい好き


 綾美の甘えた声と笑顔が、脳裏をかすめる。

「頑張ってよ。初孫ぐらい、兄さんが先に見せてやってよ。ちょっとウチは、ダメかもな……」

「……お前こそ、大丈夫なのか? 百合さん、今日はどうした?」

「実家に夕飯食べに行ったよ……。明日戻るんじゃないかな」

「お前、女作るなよ。最悪、バレるな。父さんみたいになるんじゃないぞ」

「分かってるけどさ、なんとなく父さんの気持ちも分かるっていうか……。僕、兄さんみたいに女性に心底惚れたこと、ないかもな。ちゃんとした選択はしてきたつもりだけど」

「……僕も、綾美に会って初めて分かったと思うよ。もう、ああいう相手には出会えないような気がする……。手放すのは、ちょっと無理だ」

「そっか……」

「何とかする……」


 あれから知佳子は、何も言ってこない。剛に変化があったのか、式を挙げたら出席してくれるのか、色々聞きたいことがあるのだが、連絡はない。それより何より、綾美が動かない……。何でだ……。

「綾美、一緒に暮らすなら、あと何が足りない? ワードローブとか?」

「……、う〜ん。どうかな……」

「会社、新婚旅行行かせてくれる? 何日まで大丈夫?」

「それは、ヤスさんが無理でしょ……」

「新婚旅行ぐらい行けるよ。さすがにね。どこがいい?」

「う〜ん……」

「仕事、続ける? 僕、生活のリズムがきついから、綾美ちゃんに迷惑かけるかもなぁ。それでも頑張れる? 綾美ちゃんの好きにしていいけど」

「それも、考えてみるけど……」

「綾美のご両親にも、ちゃんと挨拶したいんだけど」

「今、兄さんも忙しいらしくて、もうちょっと待ってくれる……」

 綾美は綾美で困っていた。ヤスさんはどんどん進めようとするし、見合いをした気配もない。お義母さんは、ちゃんと動いてくれているのだろうか……。

「ヤスさん、結婚はもう少し先にするのは、どうかなって……」

「どうして?」

「えっと、もっとヤスさんと2人きりでいたいし……」

「結婚しても、2人きりだよ」

「う〜ん、私、ヤスさんに相応しいかどうか、分からないし……」

「何、それ? 僕、そんなに変?」

「だって、お医者様だし。ご両親のお気持ちもあるし……」

「まだそんなこと言ってるの? 僕が一緒にいたいのは、綾美だから。それとも、綾美は僕じゃイヤなの?」

「だから、それは、そうじゃなくて……」

 逃げるようにお風呂に向かう。お湯を確認したようだ。時間で設定してあるから、見なくても大丈夫って知ってるはずだけどな。

「ヤスさん、お風呂入ってるよ。あったまって下さい」

「じゃ、話の続きもあるから、一緒に入ろうか」

「こんな話しながらじゃ、のぼせちゃうでしょ。ひとりでゆっくり、どうぞ」

「じゃ、お風呂は後にする。話を続けるよ。どこまで話したっけ……」

「……。お話終わりにして、お風呂入ろっか……」

「う〜ん。後でちゃんと、話続けるからね。分かった?」

「は〜い」

 なんか僕、流されてないか……。まぁ、今日はいいいか。

「早くおいで」


 綾美を背中から膝の中に抱えて、一緒に湯船に入る誘惑には、そうそう勝てない。お湯で上気した綾美の体は、いつもにも増して艶かしい。

 お風呂は隣の家に隣接した場所だから、声を出すのを綾美はいつも我慢している。鉄筋コンクリートのマンションで、パイプスペースもある場所だから、声が聞こえることは実はないのだが、その我慢した綾美の声が聞きたくて、「聞こえちゃうよ」といつも耳元で嘘をつく。

 また、今日も小さく喘いでいた。可愛い声だ……、それでいい……。そのまま……君だけ……いいよ。まずは君を、気持ちよくしてあげたい。「一緒に」は、この後ベッドでゆっくりだ……。

 綾美はまだ喜びを知り尽くしている体ではないと、付き合い出してすぐに知った。康幸は、そんな綾美の体を開花させていけることが、たまらなくうれしい。僕が、全部教えてあげるから……。この綾美を、手放せるわけがない。

 

 結局、大抵欲情に負けて話が途中で終わってしまうのだが、一事が万事で一向に前に進まない。プロポーズをしてから、2ヶ月近く経っていた。

 

 翌日の夜、リビングでのんびりしながら、2人でBSオペラアワーの「椿姫」を見ていた。

「懐かしいな。金沢の川桐さん思い出す。すごかった」

「うん。あの時の先生の指導、今でも勉強になってる」

「そうだな。確かに……」

 いいチャンスだ。綾美の気持ちを確かめるために、康幸はもう一度原点に戻ろうと思った。

「それに……、はじめて綾美ちゃんにキスしたのも、あの夜だ……」

「……、孝子先輩の指輪。懐かしい……」

「初めて君の唇に触れたとき、どんなに嬉しかったか知ってる?」

「えっ、そんな風に見えなかったけど……」

「止まらなかった。気持ちがね……。だから、「また、明日」は、苦しかったな……」

「うん……。そうだった……」

 横にいる君と目を合わせれば、あの時のことが昨日のことの様に甦る。綾美、分かるか? 今僕は、もう一度それを味わってるんだよ……。君がこの先に行かせてくれない。

 もっと、戻そうか……。

「1番最初さ、『いいトロンボーンがいます』って、君が言ってくれて……」

「あれ、聞かれてたの……?」

「あぁ。今思えば、僕はあの時、もう君に落ちてた」

「……ヤスさん」

「その後、偶然一緒に食事ができて、音大のことで、あぁ同じなんだって、手を取った。金沢で一緒になれるなんて思ってもみなかったのに、覚えてる? 金沢で会った時、僕の顔見て君は本当に嬉しそうにしてくれたんだ。好きになるなっていうほうが、無理だったよ」

 綾美も思い出す。本当にあの時は、嬉しかった。偶然が奇跡に思えた。

「奇跡みたいだったね……」

「奇跡だよ。僕にとっては、全部奇跡だった」

 康幸は綾美の肩を引き寄せ、そっと唇を重ねる。そう、この唇だ……。指でなぞる。

「自分と会った時だけは、奥さん抱かないでって言われたときは、ほんとに胸が痛かった。今思い出しても、苦しくなる……」

「ヤスさん……」

 綾美の髪を撫でながら考える。あんなに強く思ってくれていたのに、君だけのものになろうという今、何故君は受け入れてくれないんだ。いつも、逃げてばかり……。まるで、犬を怖がって逃げる猫みたいに……。

 

 康幸は、突然気がついた。怖がって逃げる……? そうか! 綾美は怖がってるのか……。

 康幸は綾美から体を離して、正面を向いて問いただす。テレビの電源を切った。

「綾美、何をそんなに怖がってる?」

「……」

 怖い……? 眉をひそめた綾美を見て、康幸は確信する。自覚がないんだ……。

「幸せになるのが、怖いのか……?」

 綾美は言われたことが分からず、でも心の1番奥を掴まれたかの様で、思わず立ち上がる。

「綾美……」

 その瞬間、耳の奥で「あの時」の衝撃音が鳴り響く。横から大きな力で飛ばされ、何度も何度もぶつかった。そして、お腹が痛くて苦しくて……。


 ――もう俺も抱え切れない……。償いきれない……。本当に……、愛してた……


 綾美は両耳を塞いでその場にしゃがみこむ。心臓の鼓動が、ドクドクと耳まで届き、息が苦しい。だれか、助けて!


「綾美ちゃん。こっち、見て」

 康幸が綾美の前に、しゃがみ込んでいた。耳を塞いでいた両手の上からそっと手を重ね、その手をゆっくり剥がしていく。何がそんなに、君を苦しめているんだ!

「僕の声が、分かる?」

 康幸の目を見た途端、涙が込み上げてきた。

「教えて。今、何の音がしたの?」

「……車が、車がぶつかる……。何度も、何度も。お腹が痛くて……」

 後は、悲鳴のように絞り出した声が続いた。

「私のお腹の中にいたのに、繋がっていたのに、そんなものまで引き剥がれて行ってしまう。つい昨日まであんなに信じていたのに、いつまでも続くと思っていたのに、どうして? 愛してたんじゃないの。抱え切れないって、何? 償いきれないって、誰もそんなことしてほしいなんて言ってないのに、どうして……。たった一瞬のことで、どうして何もかもなくなっちゃうの!」

 静寂の中に、綾美の泣く声だけがしばらく続いた。


「綾美ちゃんが、悪いんじゃない」

 綾美の気持ちが落ち着いてきたところで、康幸はやっと声を掛けた。

「それは、綾美ちゃんのせいでもないし、もちろん、佐久二君のせいでもない」

 康幸はフローリングに綾美を座らせて、自分も座った。向かい合っていたから、綾美は体操座りになり、康幸は胡坐をかく。それでもできる限り近づき、両手をしっかり握り直した。


「僕はね、いつも患者さんを見て思う。ある日突然病気に掛かって、人は苦しんで病院に来る。そしてその苦しみから解放してあげられないことも、本当に多いんだ。そんな時はね、皆口を揃えて言うんだ。どうしてこんなことになったのか。どうして、こんな病気に掛かってしまったのか。なにも悪いことしてないのに、なぜ自分なのか。とね……」

「……」

 綾美は、康幸の言葉を必死に聞き留める。

「『どうして』に対する答えは、ひとつもないんだ。誰にも分からない。だけどね、1つだけ言えるのは、そのことは、その人が幸せになっちゃいけない理由として、起きたことではないんだよ」

「幸せになっちゃいけない、理由……」

「そう。病気だから幸せになってはいけない、ということもないし、健常者ではなくなったから幸せになってはいけない、ということもない」

 康幸はもう一度、綾美の手を握り直した。

「ましてや、一瞬で消えてしまう可能性があるからと言って、もう一度幸せになってはいけないなんてことは、決してないんだよ」

「もう一度……」

「誰も明日何が起こるかなんて分からない。だからこそ、今の幸せを確実にするしかないんだ。明日なくなるかもしれないから、今日手に入れるのは止めとこうっていうのは、綾美ちゃん、やっぱり間違ってる。ゆっくりでいい。怖がらないで。怖くなったら、その都度確かめればいい。今、僕はここにいる」

「ヤスさん……」

「それに何より、僕はそれを手に入れたい。綾美と、幸せになりたい」

 そっと康幸は綾美を胡坐の中に抱き寄せる。

「約束する。手に入れたものを守るために、頑張るから」

「ヤスさん……」

「ゆっくり考えてみて。逃げないで」

「……」


 その夜、もう康幸は綾美を抱こうとはしなかった。ベッドで、ただ綾美の腕に触れながら、いつものように眠りに落ちていく。綾美は、そんな康幸を見ながら必死に考えていた。

 もし、お義父さんが許してくれたら、私はヤスさんの気持ちに、素直に応えられるのだろうか……。ずっと、ヤスさんの為だと思ってきた。だけど、違ったの……?

 胸が痛い。つぅと引き攣れる……。そうだ、違ったのだ。また、何かが起きて全てなくなってしまうのではないかという恐怖を、そう言い換えてしまっていただけだと、気づかされてしまった。

 今の幸せ……。ヤスさんがいて、一緒にいられるお家があって、美味しいと言いながらご飯を食べられる。そして、何より、私を好きだと言ってくれる。そばにいてくれる。当たり前のように、ヤスさんがくれたもの……。これがなくなってしまうなんて、怖い。だから、いつなくなってもいいように、心の1番奥で逃げていた……。そのために、お見合いを勧めたし、結婚を延ばしてきた……。

 でも、ちゃんと逃げ切れていた!? 私は今、このヤスさんの手を離すことが、できるの!?


 翌朝、康幸を見送り、綾美もその後会社に出勤する。

「じゃ、行って来るよ。また、土曜日、待ってて」

「……、行ってらっしゃい」

 玄関を出ようとした康幸が、「待ってる」と返事をしない綾美を振り返る。そのまま、首を引き寄せて熱いキスをした。絡まるように、康幸は綾美を見つめる。

「必ず待ってて……。行ってきます」

 今度こそ、玄関を出て行った。残された綾美は、心が決まる。

「やっばり、ヤスさんと離れることは、今の私にはできない!」


「母さん、父さんはどう?」

「お父さんより、綾美さんはどうなの?」

「まだ、説得中だよ」

「もう、お母さんも応援したいから、話しちゃうけど……」

「何?」

「綾美さん、あなたに私達が薦める人との見合いを、させて欲しいって言ったのよ」

「何!? 何で!」

「自分では反対されるって分かってたみたい」

「いつ、そんなこと言ってたの」

「はじめて会った時よ。あなたが開業医の息子だって分かった時から、覚悟してたみたい。もっとあなたが優柔不断だったらよかったのにって」


 ――もっとヤスさんと2人きりでいたいし


 綾美の言葉が甦る。

「……」

「見合い相手に、今の自分の役目をバトンタッチすれば、あなたが仕事で苦しむ時間が少なくて済むって」

「バトンタッチなんて……」

「できないわよねぇ」

「できないよ……。何を考えてるんだ、綾美は!」

「覚悟が決まってるって思ったから、お母さんこのお話し、難しいって言ったのよ」

 康幸は母に電話で連絡を取った。父の様子を確認しようとしただけだったのに、ビックリするような事実が飛び出す。開業医の息子って話したのは……、金沢か。そんな前……!

「良く分かった。教えてくれて、助かった。母さんも協力してくれるんだね?」

「ええ。綾美さん、いい子だもの。娘になってくれたら、嬉しいわ」

「じゃあ、きっちり母さんの役目も果たしてもらうからね。また連絡するよ」

 康幸は、綾美の真の強さを見せ付けられて、覚悟が決まる。君の気持ちは、よく分かった。


 次の土曜日、綾美がマンションに着いたときには、康幸が帰宅していた。玄関で出迎えられた。

「ヤスさん、早かったね。よかった。ちょうど話が……」

 その言葉を遮るように、康幸が話し出した。玄関で、立ったままだった。

「綾美ちゃん、母さんから聞いた」

「……、何を?」

「僕に見合いをしてほしいの?」

「っ! それは……」

 今はそうではなく、ちゃんとまっすぐヤスさんのことを考えて……。

「それで、綾美ちゃんを忘れて、その人に心が移るのを、君は望んでるんだ……」

 そうだ。そのつもりだった……。でも……。

「僕の気持ちを、君はコントロールするつもりなの? そんな風に何から何まで軌道に乗せられて、僕自身の意志はどうなる」

「……」

 指先を思わず口に当てて、「あっ」と洩れそうになった声を飲み込んだ。

「君に会うまで、きちんと1人で生きてきた。心配はいらない。君がいなくても、ちゃんとやっていける」

 綾美の心に、ヒビが入る。呼吸が止まる。

「それに言ったはずだ。医者はモテる。綾美ちゃんのいう、『ふさわしい相手』だって、その気になればちゃんと自分で探せる」

 そう……だった……。何もかも、一人相撲……。

「きみには僕はそんなに必要じゃないらしい。なら、もういい。これ以上は、迷惑だろうから」

 ……あぁ、これどうしよう。綾美は心が動かないまま、手に持ったスーパーの袋を差し出した。

「それは、持って帰って。もう、必要ない」

 あっ、あれは返さなきゃ。今度はカバンの中を慌てて探し、預かっていたカードと鍵を差し出した。

「……」

 無言で受け取った康幸の顔は、優しく笑っているように見えるが、全く心が見えてこなかった。あぁ、これもっ……。最後に、ネックレスを外す。康幸はそれを黙って受け取った。

 綾美は両手を揃えて、丁寧にお辞儀をした。

「元気で」

 そう言われて玄関の扉を閉めたとき、綾美の時が、また止まってしまった。


「新城さん、ちょっと仕事が忙しくて、しばらく練習休むね。団長には連絡しといたから」

「あら、寂しい。1ヶ月くらい?」

「うん……。ちょっと分からなくて……」

「分かったわ。あんまり無理しないでね。またLINEするわ」

「うん。ごめんね。じゃね」

 切れたスマホを眺めながら、新城はため息をつく。

「ヤス先生、一体どうする気だろ……」

 新城は康幸から連絡を受けていた。

「また綾美が立ち止まってしまうかもしれませんが、しばらく手を出さずに、見ていてくれませんか。僕に預けて頂きたい」

 有無を言わせない声に、新城は承諾せざるを得なかった。頼まれて、新田や加藤にも連絡してある。私達の手助けがいるようになったら、必ず連絡すると言っていたから、取り敢えず様子を見ようと、もう一度ため息をついた。

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