母と綾美の想い
それから三週間後の日曜日、康幸の母、知佳子がマンションにやって来た。
「はじめまして。山下綾美と申します」
「こんにちは。康幸の母です」
緊張している綾美に対し、知佳子は何度目かであろう余裕を見せた。
「何、母さん。それ野菜?」
知佳子がスーパーのレジ袋を提げていので、康幸は不思議に思う。今まで何度か彼女を紹介してきたが、いつも初めて彼女に会う時、必ずこれをする。何の意味がある……?
「そう。久し振りに康幸と食事を一緒にしようと思って」
「あれ、綾美ちゃんと重なっちゃった?」
「大丈夫、食材なんてなんとでもなるから」
綾美は小さい声で康幸に伝えてから、
「嬉しいです。お義母さんの……、すみません。お義母さんとお呼びしてもいいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
「お義母さんの味、教えていただきたかったんです!」
「あら……、それはちょうどよかったわ」
前の孝子さんの時は、即座に外食しようと断られたから、今度はちょっと違うのね……とは言葉にできず、それでも少し意外に思いながらキッチンに向かった。今までの歴代の彼女とは、またちょっと毛色が違う……?
冷蔵庫を開ければ、以外にもすっきりしている。調味料も新しいし、漬物やら煮物の残ったものやら、今まであまり見なかったものが入っていた。そこに、買って来たばかりの肉や野菜を入れた。
「綾美さん、お料理してくれてるの?」
「お休みの日だけです。ですから、お義母さんの味、知りたかったんです。康幸さん、なかなか教えてくれなくて」
「だって、綾美の作るので充分美味しいから。別にそのままでいいよ」
「うちは、田舎料理だから、味噌汁の味もきっと違うだろうと思って……」
「……綾美さんのお母様は、ご出身は?」
「滋賀県です。岐阜よりなので、関西とも関東とも色々違ってまして……」
「そう。それでも美味しいんなら、よかったわね、康幸」
「そうだよ。それに、僕じゃ違いは分かっても、教えられないし……」
「そうなんです。だから、今日楽しみにしてました」
知佳子は、あらっ、と思う。特段、気に入られようとおもねているようには見えない。
「じゃ、さっそく作りましょうか」
「はい」
あなたは邪魔だからと、康幸はリビングに追いやられる。といっても、オープンキッチンなので、2人のやり取りは確認できる。まぁ、綾美なら任せておいて大丈夫だろう……。とのんびりしたところで、康幸のスマホが鳴った。
「マジか……」
その言葉を聞いて、綾美がすかさず動いた。炊き立てと思われるご飯でお握りを作り出した。おかかに梅干し……。それは、知佳子の目の前であっという間に出来上がる。冷蔵庫にあった漬物も別にラップに包み、小さな紙袋に収まった。
「綾美ちゃん、病院から呼び出し。悪いけど……」
「大丈夫。ちゃんとお義母さんのお料理は、残しとくから」
「ん……。母さん、悪いけど病院に行ってくる。父さんに、よろしく言っといて」
「まぁ、忙しいのねぇ。気を付けて行ってっしゃい」
「これ、時間があったら食べて。慌てず急いでね。安全運転で」
「ん、ありがと。じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」「行ってらっしゃい」
2人に見送られて、康幸は慌ただしく出て行った。
残された2人は、なんとなくキッチンに戻った。
「お義母さん、康幸さんいなくなっちゃいましたけど、教えていただけますか」
「あら、本当に覚える気なのね」
「あの……、はい。やっぱり、ご迷惑ですか?」
知佳子は少し顔を引き締めた。
「康幸もいなくなったことだし、お話したいこともあるから、お料理続けましょうか」
綾美もその言葉に応えるように、真剣な顔で「はい」と頷いた。
康幸は意外にも煮物や魚料理が好きだという。それは、康幸が小さい頃、祖母がよく面倒を見てくれていたからとのことで、その味付けを教えてもらう。東京にしては少し薄めの見た目で、お砂糖よりも酒とみりんをたっぷりと使っていた。出来上がったものも、やはり綾美のそれとはコクが違う。
「なるほど。じゃ、お醤油はほとんど最後に色付け程度に入れるんですね」
「そう。野菜は甘みが入れば、もう味は決まったも同然なのよ。お醤油は、香り付け程度。でも、お魚はこの逆よ。あとで、作りましょう」
「はい」
綾美は時々スマホで動画を撮りながら、頭に入れていった。
「あの……、康幸さん嫌いなものってありますか?」
「あの子、何て言ってました」
「にんじんとピーマン。笑っちゃいました。ちょっと拗ねてましたけど、『だって、マズいでしょ』って、開き直ってました」
と、思い出し笑いしながら伝える。
「ちゃんと言ったのね。女の子には、カッコつけていつも言わないのに……」
「そうなんですか……。確かに、カッコ悪いですね。ふふっ」
「あとね、東京なのに納豆もダメなの」
「あっ、そうなんですね。よかった。私もダメなんです。だから、出したことなくて……、気が付きませんでした」
「あとは何でも食べますよ。でも、赤だしが大丈夫だとは思わなかったわ。家で作ったことないもの」
「無理してくれてるのかな……。よく、リクエストしてくれるんですが……」
「きっと、口に合ったのね。私も食べてみたいわ」
「じゃ、今度是非。今日は、お義母さんのお味噌汁教えてください。お味噌は康幸さんに教えてもらって、購入してありますので……」
「はい。じゃ、さっそくね……」
1時間ほどで、3人前には多すぎる量の昼食が出来上がった。
「少し作り過ぎね……」
「そうですね……」
2人して、顔を見合わせて笑った。
それでも2人で食べれば、康幸のことでなんとか会話も繋がり、意外と消費されていく。康幸の分を残して、片付けることになった。綾美は1人で洗い物をするので、休んでて下さいと申し出たが、知佳子は2人で片付ければ早く済むと、一緒に流しに立ってくれた。
知佳子が横に立ったまま、今までとは違った静かな声で話し掛けた。
「綾美さん。申し訳ないけど、主人が反対してるの。今回のお話、無かったことにしていただけるかしら」
綾美は、きっと今日の1番の目的であろう会話に、一瞬動きが止まったが、また手を動かしながら言葉を返した。
「……、そうだろうと、思っていました」
えっという顔で、知佳子は綾美を見た。見られていると分かっているはずだが、こちらを向いて目を合わせることはしない。そのまま、洗い物を続けていた。知佳子はもう流しのものには手を付けずに、綾美を見たまま話しを続ける。
「ご両親、昔ご商売してらしたのね。でも病気になられて店を畳んだ」
「はい」
「あなたも、1度結婚しようとした……」
「はい」
「お子さんが、お腹の中にいたって……」
「……はい」
「康幸は、そのことを知っているの?」
「はい。お話しました。短い間に、よくお調べになられて……」
そこで初めて、綾美は蛇口を止めて知佳子の方を向いた。その顔は、微笑んでいるように見える。それは、調べたことを責めるわけでもなく、むしろ大変でしたねと労っているようにも感じる笑みだった。知佳子は、表情こそ変えなかったが、内心驚いていた。この子は、康幸と一緒になれなくてもいいと思っている……?
「お義母さん。ご心配なさらないで下さい」
何……?
「康幸さんから、ご実家が開業医だとお聞きした時に、覚悟はできてます」
何の……?
「そんなに長く一緒にはいられないだろうと……。ただ、思ったより早くて、康幸さんがもう少し優柔不断だったらよかったのにって、変なこと思ってます……」
くすっと笑ったかと思ったら、今度こそ真剣な顔になり、しっかりした声で答えた。
「ちゃんと、時期が来たらお別れします」
「……時期?」
「はい。康幸さんとお別れする前に、お見合いを先に進めていただけませんか。きっと、いいお話、いっぱい来てるんですよね」
「ええ。皆さん良家のお嬢さんで……」
「相手の方が決まったら、伝えていただきたいんです。必ず毎日、康幸さんの話を聞いてあげて欲しいって……」
「どういうことかしら……」
「お義母さん。康幸さんが小さい頃、学校から帰ったらすぐお話聞いてあげてたのではありませんか?」
知佳子は、35年近く前のことを瞬時に思い出した。
「ヤス君、今日は学校、どうだった?」
「ママ、今日ね、すご〜く面白いことがあったんだよ〜」
「あら、なーに?」
毎日続けられた小さなことを、今更のように言われ、驚く。
「ええ……。どうしてそうだと、思ったの?」
「康幸さん、あの通りお仕事が大変で……、いつもハチ切れそうで……。どうにか少しでも楽にしてあげられないかと、色々試したんです」
「最初は、帰ってきても1時間くらい話し掛けずに、自分でクールダウンできてるのかどうか見るところから始めました。でも、ずっと仕事のことが頭の中を巡っているみたいで……。次は、私が一日あったことを、20分程話し続けたりしました。そうしたら、全く上の空で。ふふっ、これもダメだと……。帰ってすぐお風呂に入ってもらったり、音楽聴いてもらったり、一緒に料理手伝ってもらったり、……全部違ってました」
「それで、話を聞くようになったの?」
「そうです。康幸さんが話すのを待ってるんじゃなくて、促してあげる……」
――今日は学校、どうだった?
「そうしたら、10分位話しているうちに、どんどんリラックスしていくのが分かって……」
「……」
「きっと、頭の中の情報を、一旦整理して言葉にすることで、落ち着くんだと分かりました。それからは毎日、帰ってきたら必ず10分ほど電話で話すようになったんです」
最初は綾美が電話をねだっていたが、今は何も言わなくても、康幸から家に到着したら電話をくれるようになった。
「それで、これはきっと、小さい頃お義母さんがしてあげてたことなんじゃないかって、ふと気が付きました。本人には聞けないので、1度確認したくて……」
知佳子は、康幸の今を考えてみた。人より4年遅れで医師免許を取ったが、それは研修医の期間もズレていくことになった。とにかく研修医は、仕事もハードで覚えることだらけだ。休日も少ない。若いに越したことはないが、康幸は4年遅れていた。人には分からない苦労も多かっただろう。しかし今、やっとその期間も過ぎ、認定医の資格もいくつか取得し、経験も年齢も重ね、安定しているとばかり思っていたが、やはり精神的にはキツイのだろうと思い直した。それを今支えているのが、このお嬢さんなのだと分かってしまって、知佳子の葛藤が始まる……。
「結婚相手の方が決まったら、その方にバトンタッチできるから……。それができないと、またその間、康幸さん苦しいと思うので、お見合いを先に進めて頂きたいんです」
そんなことを言ってのける綾美を見て、知佳子は「親の責任」を康幸に押し付けているのではないかとの考えが、脳裏をかすめる。ため息をついた。
「あなたの考えは、よく分かりました……」
その言葉を聞いて、綾美は残りの片付けを再開させた。
「もし結婚出来たらだけど……。もう1つ、あなたは知らなきゃいけないことがあるわ」
知佳子も洗ったお皿を拭く作業を再開させながら、先ほどとは違う柔らかさの声で話し出した。
「……何でしょう?」
「医者はとてもモテる、ということです」
今度は綾美の方が驚いて手を止めた。思わず知佳子の顔を見た。音に気付いて、慌てて蛇口も閉める。次の言葉が出るまでに、たっぷり30秒は掛かっただろうか……。
「……お義母さんは、それをどうやって乗り切られたんですか!?」
自分のことを言ったつもりはなかったのに、まさか自分に話が戻って来るとは思わなかった。知佳子も、綾美の顔をこれでもかと見つめてしまった。
「苦しかったでしょうに……」
綾美の言葉が、知佳子の心に滑り込んでくる。
「まさか、『今も』ではないですよね」
「……」
「そんな……」
「ほんの、火遊びでしょう。もう、主人も若くありませんから……。そんなに、長続きしませんよ」
「そんな……、当たり前みたいに、言わないで下さい!」
苦しそうな顔をして、綾美が知佳子に言い募る。
ガチャンと音がして、知佳子の手の中にあったお皿が滑り落ちていた。
「あら、やだ。割っちゃったわ……」
綾美は慌てて知佳子の足元を慮った。
「いいです。片付けます。ケガしてませんか……」
そして、知佳子の顔に視線を戻した時に、知佳子の頬に涙が伝っていることに気づく。
「……やだ、お義母さん」
綾美の目にあっという間に涙が溢れるのを見て、知佳子も自分が泣いていることに気が付いた。
綾美は知佳子の背に手を回しながら、必死にその背中を擦る。擦られれば擦られるほど、どうしたことか涙が止まらないと悟った知佳子は、結局止めることとをあきらめ、泣き続けることにした。
「もう、大丈夫よ。落ち着きました……」
「はい……」
「みっともないわね。この歳になって……」
「歳は、関係ないです……」
2人で泣き続けて、やっと落ち着いたころ康幸から電話が入った。後、1時間ほどしたら帰れそうだからとのことで、そのことを知佳子にも伝えた。
綾美は、紅茶を入れた。ダージリンを選んだ。この香りは、高ぶった気持ちをいつも穏やかにしてくれる。康幸の家に来るようになって、綾美もコーヒーより紅茶の香りを好むようになった。もちろん、これは康幸の実家の好みなのだと分かっていた。
小さな和菓子を一緒に添えた。季節の生菓子を綾美はなるべく絶やさない様に用意している。休日ごとに買ってきては、康幸にも付き合わせていた。たまに抹茶を点てると、康幸も喜んでいる。
「綾美さん。お見合いの件は、少し考えてみるわね。康幸がそう簡単に応じるとも思えないし……」
「はい……」
「あなたと会わない期間が必要になったら、連絡させてもらうわ。それでいいかしら」
「はい」
「強いのね……。あなたは、康幸のどこがよかったの?」
「音です。トロンボーンの……」
「……そう」
音には、その人の全てが出る。何を考えどう向き合い、そしてどう生きてきたか。隠すことはできないのだ。その音に、綾美は一瞬で心を持っていかれた。しかもその音を捨てて、医者になったという康幸に、心を動かされるなという方が無理というものだった。
「和菓子もたまにはいいわね。私も、これから買ってみようかしら」
「あぁ、是非。いいお店があるんですよ。今LINEで送りますね」
すっかりスイーツ談議になり、深刻だった時間は霧散した。故意にそうしているのだと、知佳子も分かった。一緒に泣いてくれた綾美に、心が揺れていた。
「ただいま」
パタパタと綾美が出迎える。
「お疲れ様〜、ヤスさんも休憩して」
「ん……」
「思ったより、早かったのね」
「あぁ、母さんはゆっくりできた?」
確かに言葉は優しいが、出て行った時とは表情も声までも違っていると知佳子も気付く。
和菓子と抹茶を綾美が出す。それをゆっくり飲んで、まずは人心地付いている。
「無事、終わった?」
「ん……、何とか……ね。入院が長い患者さんでね……」
「そう……。長いと大変だろうね」
「うん。昨日まで何とか良くなってきてたんだけど、吐いて誤嚥になった……」
「大変……」
「うん。今、彼は頑張ってるよ」
「そう……、良くなります様に……だね」
「うん……」
康幸は大きく深呼吸をする。リビングを出て、ベランダに出て行った。それを綾美は、そっと見守っていた。
2人のやり取りを見ながら、知佳子は思う。ここまで寄り添ってもらえれば、康幸が離婚後2年もせずに次の結婚に踏み切る意味が分かる。きっと、手放せないだろう。どうしようか……。
「じゃ、お母さんも帰るわね。康幸、下でタクシー拾うから、見送って頂戴」
綾美とは玄関で別れる。笑顔で手を振っていたが、私がしにきた話は、あんな笑顔で送り出される話ではない。そこに、彼女の強い決意を感じる。どうするか……。
エレベーターの中で知佳子が話し出す。
「綾美さんのことは、よく分かったわ。あなたは、彼女と結婚したいのね」
「そうだよ。分かってもらえた?」
「ええ……。でもこのお話、少し難しいわよ」
「何が? 父さん?」
「いえ、……綾美さん」
「……どういうこと」
「康幸、お父さんはお母さんがちゃんと説得するわ。だから、あなたは、綾美さんをちゃんと説得しなさい。このままでは、あなた結婚できないわよ」
「綾美が、……何?」
「とにかく、ちゃんと綾美さんじゃないとダメだと、分かってもらいなさい」
「母さん……」
「しっかり、頑張りなさい」
タクシーを見送りながら、康幸は母の言っていることに見当が付かず、途方に暮れた。