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モーツァルトの「レクイエム」

 9月に入ったというのに、今日も暑い。まだまだ半袖を止められそうにない。街では若い女性が長袖のカットソーにロングカーディガンまで羽織っている。やはり、ファッションは先取りでいかないとオシャレではない。が、もうそれよりも、現実的に快適な格好をする歳になったと、開き直る。山下綾美は、今年で33歳になった。

 電車を下りて、区役所の大会議室に向かっていた。今日は、オケ合わせの日である。まだ演奏会本番までには1ヶ月近くあるが、今日は指揮者も来るので、気合を入れての練習になるだろう。今日の指示で今後1ヶ月の練習内容が、ガラッと変わる。オケの音も、確認しておきたかった。

 今日のオケはアマチュアである。綾美の所属する市民合唱団と親交が深く、お互いの定期演奏会では、よく共演していた。どのオケや合唱団でもそうだが、アマチュアは趣味の仲間なので、なかなかメンバー全員がいい音を出せるわけではない。歌は何人か上手いメンバーがいれば、その人たちを格として音創りが可能だが、オケの場合はソロパートがたくさんあるので、奏者によって演奏のレベルが、格段に変わってしまう。

 今回の通称「モツレク」も、管の役割はかなり大きい。フーガと呼ばれる「輪唱」部分が細かく何度も登場する。歌の下3声と同じ動きを管楽器が担い、音を補強しあうのである。綾美のパートであるアルトは、1番トロンボーンと同じ旋律を歌うように作曲されていた。

 今日のオケの1番トロンボーンは少し癖があり、綾美は歌いづらいと思っていた。かといって彼が2番を担当しては、第4曲「トゥーバ・ミルム」の有名なソロを吹くことになってしまう。どちらにしても、心配だ……。大きな声では言えないが……。

 練習会場に近づくにつれ、オケのメンバーと思われる人たちがチラホラと増えてくる。皆楽器を携えているので、すぐ分かる。こういう時、歌は楽だなぁと毎回思う。楽譜さえあれば、あとは手ぶらで身ひとつで移動すれば言い。現実的に、お金も掛からない。

 楽器は高い。趣味で使う程度だろうといって、侮ってはいけない。最低でも30万円程度の楽器を皆持っている。もちろん、プロのように何億とか、何千万という人は、さすがにいないが、上手い人になれば300万円程度の楽器を、常日頃使っている。しかも、それに至るまでに、何台も買い足しての話である。逆に、個人経営者や公務員、大手企業のサラリーマンの方が、下手な音楽プロの人達より収入は多いので、趣味にお金を使えるのかもしれない。やはり高い楽器は、いい音が鳴る。しかも、楽に鳴る。

 その点、歌はタダである。ただし、音が気に入らないからといって、買い換えることができないだけだ。ただひたすら、自分の声を訓練することでしか、いい音には到達しない。


「綾美ちゃん、今日帰り夕飯食べてくでしょ」

 アルトの一番のお友達、新城(しんしろ)さんがやってきた。彼女は今年70歳。この合唱団のマスコット的存在で、明るい性格にチャーミングな見た目が、皆に慕われていた。綾美とは、10年以上の付き合いである。

「行くよー。ここなら、いつもの特製カレー屋さんね」

 今日はオケが入るため、合唱団の通常練習の会場では、人が入りきらない。そのため、区役所の大会議場を借りているのだ。新城さんとは、色んな合唱団に参加しているので、それぞれの練習会場のそばに、練習後の夕食用に行きつけのお店があった。

「あそこ、美味しいけど食べ過ぎちゃうのよね。今日は少し綾美ちゃんに食べてもらうわ」

 毎回、同じことを言いながら、いつもペロッと完食する。身長が145cmくらいなので、綾美と並んで歩くと、頭1つは違うのだが、その食欲が彼女の元気さを物語っていた。

「発声練習、ちょっとサボっちゃおうかと思って。好きじゃないのよね、あのボイストレーナー。疲れちゃう……」

「サボるって、どこ行くの?」

「隣で、お茶してくるわ。佐田さん達と」

 佐田さんは同じアルトのメンバーで、堅実な歌を歌う。綾美としては、とても信頼しているメンバーの1人だ。まず、音が正確なのと、発声に癖がない。彼女も60歳を過ぎているが、ずっと歌を歌ってきたベテランである。残念なのは、声量がないことだ。きっと小さい時、大きな声を出さずに育ったのだろう。今でもその話し方から、上品な育ちが垣間見える。

「音出しの前までには、戻ってきてね」

 はーいと返事をしながら、3〜4人連れ立って出て行ってしまった。


 その「疲れちゃう」ボイストレーニングが始まった。綾美もこのボイトレには辟易している。そもそも、彼女の声は、ソロとしては3流なのだ。きちんと音大を出た、れっきとした「ソプラノ歌手」なのだが、世間はそうは思っていなかった。もちろん、声が3流でも教え方が上手ければ、誰も文句は言わない。しかし、それすらも独りよがりで、自分が歌ってばかりいる。残念ながら通常の合唱団の練習においても、ボイトレの時間の参加者が、どんどん減ってきていた。まぁ、合唱団の上層部の受けがいいので、彼女はこれからもここではボイトレを続けていけるだろう。

 綾美も声を半分に、自分に必要な部分のトレーニングだけを行っていた。筋肉のウォーミングアップだけは、しておいたほうがいい。響く場所を開いていく作業は、歌いながらでもできる。彼女の声を聞きながらでは、逆にへんな響きの場所で歌ってしまう。やめたほうがいい……。


 合唱団が発声練習をしている間は、オケのメンバーは各々音出しと指慣らしをしている。

 ふと気になっていたトロンボーンのメンバーを見た。今日、少し見たことのないメンバーがいた。「エキストラ」かなと、眺めつつ発声練習をしていた。

「ヤスさん、お久し振りです。今日のヤスさんのソロ、楽しみにしてました!」

 いつも1番を吹いている「癖のある」若い彼が、その人物に声を掛けていた。

「久し振りなので、僕も楽しみです。吉田さんが吹かなくて良かったんですか? 僕はアルトだけで構わなかったんですが」

「いや、何度練習してもヤスさんの様にはいきません。ソロが気になって、他まで吹けなくなっちゃいますから。隣で聴いて、勉強させてもらいます」

 と嬉しそうに吉田は答えている。ヤスさんと呼ばれた人は、自身も楽しみなのだろう、笑顔を見せながらトップの椅子に腰掛けた。有名なトロンボーンのソロは、2番のテナートロンボーンが吹く。今の話からすると、ソロ部分も彼が吹くのだろか……。楽器を持ち換えるつもりなのか……。無茶をする……。が確かに、吉田が1番では、テナートロンボーンより扱いにくいとされるアルトトロンボーンは無理だろうし、あのソロともなれば、もっと彼の手には余るだろう。どうするつもりなのだろう。一体この「ヤスさん」はどんな音を出すのか……。

 改めて目を向ければ、身長は割と高く、均整の取れたスタイルをしている。枠がないタイプの眼鏡を掛け、ドレスシャツ1枚にスラックスという出で立ちなのだが、どこかサラリーマンっぽくなかった。かといって、自営業とは思えない。綾美は思わず上から下まで眺めてしまっていた。目が合うかと思われる寸前に、目を逸らした。まずい、まずい。これじゃ、飢えたアラサー女子よね……。そう自重して、気持ちを「疲れる」ボイトレに戻した。


 新城さん達も無事戻り、音出しが始まった。指揮者はプロを呼んでいる。1ヶ月も前の練習に参加してくれるプロは、なかなか貴重なのだが、彼はもっと前から合唱団の練習に参加してくれる稀な存在だった。最近、念願のオペラの下振りの仕事をするようになり、今後の活躍が期待される指揮者でもある。

 そもそも「レクイエム」は、キリスト教のミサ曲のうちの1つ、「鎮魂歌」である。死者を弔う曲であることから、神に救いの祈りを捧げる歌となっている。その様式はミサに従っており、歌われる歌詞も決まっている。基本的には、ラテン語だ。よって、「レクイエム」という曲自体は、数多く存在することになる。そこで作曲者名を付けて、曲を区別している。今回は、モーツァルトが作曲したものだ。3大レクイエムの1曲である。日本でも毎年、数多く演奏される1曲といっていい。合唱に長く携わっていて、これを歌ったことがない人は、モグリといわざるを得ない。

 この指揮者は、キリスト教信者である。ゆえに、その歴史も、経典の意味も全て理解しており、何より、神への想いをもって、この「レクイエム」を振る。拙い素人の合唱団にも、とても丁寧に指導してくれていた。

 

「レクイエム」の第1曲目は「Kyirie−キリエ−」と決まっている。最初の主題の後、「メリスマ」部分が始まる。「メリスマ」(アジリタといわれる場合もあるが)とは、1つの単語を細かい音符で永遠と繋いでいく歌唱法である。「モツレク」の場合、8分音符で何小節にも渡り、音が上がり下がりする。当然、難しい。動き続けるので、声の音量も落ちる。そこで、オケの出番となる。

 アルトパートのメリスマが始まった途端、綾美はトロンボーンに目を、いや耳を奪われた。

「プロ」の音がした。きちんと訓練され、楽器もいいものだ。テンポも正確で、なにより音楽を分かっている。メリスマの中でも、「いる」音がある。それをきっちり出し、音楽にする。もちろん全ての8分音符の音も正確だった。

 これは、歌いやすい。綾美は嬉しくなって、思わず顔がほころんだ。必死に頑張らなくても、きっとアルトの旋律がこのトロンボーンに乗って、何倍にも膨らんで客席に届く。指揮者からも「もっと出して」と、要求されることもないだろう。アルトこそ、その音程や声質からして、埋もれるパートなのだ。ソプラノと同等の音量を出そうと思ったら、今のメンバーなら倍の人数がいる。

 しかし、日本人に本当の「アルト」の声をもった人は少ない。ほとんどが「ソプラノ」の声帯なのだ。ただ、高い声が出ないので、「アルト」を歌っているだけだ。年齢を経れば、高い音も出づらくなってくる。結果、「アルト」のメンバーに、若いお嬢さんは少ないし、メンバー補充も難しい。言い訳すると、綾美の声帯は「ちゃんと」メゾソプラノなので、若い頃から「アルト」パートを歌っていた。とても重宝がられていた。

 1曲目、ひと通り音を出したところで、指揮者が合唱団員の並びを変えだした。こういうところが、長く常任指揮をしてくれている彼ならではの行動である。数回しか来ない指揮者には、合唱団員個々の声などは、判別しがたい。逆に分かってしまうようでは、よっぽど突出している場合であり、合唱団員としては失格である。

 綾美や佐田、その他「歌える」メンバーが、各パートとも最前列に並べられた。普段は、ある程度身長ごとに並ぶので、綾美はいつも一番後ろなのだ。佐田も然りである。人の移動が終わったところで、もう一度初めからやり直しとなった。

 目の前に、「ヤスさん」がいた。やはり、あの音は、彼の音だった。とてつもなく歌いやすい。少し意識が飛ぶと、声を出すのを忘れるほどだった。さすがに、金管のすぐ後ろでは、自分の声は聞こえづらくなる。しかも、これ程同調していては、歌っているかどうか分からなくなるほどだったのだ。歌わなくてもいいような気にさえなった。もちろん、楽器と同じメロディーをずっと歌っているわけではないので、メロディが分かれれば、自分が大して頑張って歌っていないことは直ぐ自覚した。久し振りに、「音楽」を奏でている気になった。

 綾美は思わず、心の中で「ヤスさん」に深々と頭を下げた。


「ヤスさん」こと、国分康幸は少し驚いていた。今、合唱メンバーの並びが変わり、自分のすぐ後ろから聞こえる声が、変わった。

 いい声だ……。音大出だと、確信する。楽器もそうだが、やはり音大を出ているかどうかは、はっきりと分かる。基礎技術が違うのだ。若く吸収できる人生の時期に、毎日何時間も訓練したものは、やはり趣味のそれとは、違うのである。素質は当然バラツキがあるが、「スキ」がないのだ。そこを埋める訓練を延々とするからだ。それはやはり、基礎訓練に他ならない。

 後ろの彼女も、とても訓練された声をしていた。しかも、「メリスマ」が上手い。これは「いい声」だけではできない手法らしい。ソロで活躍する声楽家の中でも、この「メリスマ」は苦手だとする人達も結構いるのだ。ところが先程、アルトとメロディが重なった時、なんとも心地よく聞きながら吹くことができた。後ろに立つ人があまり上手くないと、心で耳を塞いで、ひたすら自分の中で音楽を進めるしかないのである。

 あぁ、ここのテキスト(歌詞)はこうなっているのかと確認できたほどだ。この8分音符の羅列の中でも、きちんと音に強弱がある。きっと彼女は、ピアノも上手いのではないかとも思う。今回の演奏会は気持ちよく吹けそうだと、少し笑顔になった。

 

 休憩時間になった。指揮者に合わせ、30分程休むだろう。彼が来ると、団はいつもお茶でもてなす。デザートまで出される時もある。団員は、その間に必要な連絡を済ましていく。

 綾美もアルトパートのメンバーに指示を出した。綾美は技術委員なのだ。一般的に言われるパートリーダーと違い、会費徴収や楽譜の配布、出欠連絡等パートメンバーの細々とした面倒は見ない。ただ、技術的なアドバイスをするのみである。もちろん、演奏会では皆と一緒に歌う。

「フーガの部分、少しバラけました。気が付きましたか? 後ろ、皆の声聞こえてますか?」

 その質問に、最後列から文句が上がる。

「綾美ちゃんの声が後ろから聞こえないから、歌えないわ。私、前に降ろしてくれない」

「わかりました。2列目、鹿島さんと交代してください」

「私、ソプラノの隣は無理。変えて〜」

「う〜ん、じゃ、隣と変わってください。日野さん、いけそうですか?」

 などと、次々に問題を解決していく。きっと、ここまで入れ替えても、また文句は出ると思うが……。ここで、綾美は「ヤスさん」ほか、トロンボーンのメンバーがいないことを確認し、言葉を発した。

「今回、とてもいいトロンボーンがいらっしゃいます。ここのフーガ、彼の音を聞いて歌ってください。少し気を向ければ、必ず聞こえるはずです。楽譜に書いて」

 と言って、「トロンボーンを聞く」と書かせる。実際、普段の練習のピアノ伴奏より、余程今日のトロンボーンの音を聞いた方が、歌いやすいはずなのだ。何せ、アルトパートの目の前に彼はいるのだから。

「あの、イケメン?」

 と言ったのは、落合さんだ。彼女は自分で喫茶店を経営している。日曜日だというのに、いつも歌を優先して、とっとと休業にしてしまう。古くからある店らしく、常連さんばかりなので、問題ないらしい。しかも彼女は、イケメンに目がない。

「そう、さすがにチェックが早いですねぇ。その、イケメンです。落合さん、さっきズレてたから、ちゃんとイケメンの音、聞いて歌ってね」

「イケメンなら、まかしといて~」

 はい、はい、よろしくお願いします。内心で溜息をつきつつ、音が下がった部分や、アクセントの位置など、再度の注意を指示していった。練習最後には、今日の指揮者の新たな指示を、きちんと再確認させるために、もう一度集まることになるだろう。そう思いながら、綾美も休憩に入った。


「……」

 康幸は、トイレから戻って手を拭きながら、自分の席に戻れないでいた。

「イケメン」のくだりの前辺りから、すっかり聞こえていたからだ。

「とてもいいトロンボーン……」

 単純に、珍しいと思った。康幸も何度か合唱付きのステージには上がっている。「モツレク」も初めてではない。だから、参加した。しかし、合唱団の人に、自分の音を頼りにすると言われたことは、初めてだったからだ。ちゃんと、聞こえてるのか……。やはり、彼女は「ソロ」なのかも知れないと思った。

 普通、音大では声楽科のメンバーに、合唱は推奨しない。ひとりで歌える「音楽家」を作るためだ。いつまでも合唱を歌っていると、先生から注意され、止めさせられる。しかし、音大を出てしまえば、後は本人の自由だ。皆が皆、ソロで活躍できるわけではないのだから、好きなことをすればいい。彼女は、合唱が好きなのだろう。そして、ソロの訓練をしたからこそ、オケの音に耳を傾けられるのだ。自然に彼女を、じっと見つめていた。

 

 休憩が残り10分となったところで、「ガタン」と大きな音がした。合唱団の方からである。

「綾美ちゃん、大丈夫!?」

 綾美が、倒れていた。幸い、一番前だったので、そのまま床に倒れたと思われ、ケガはしてない様子なのだが、周りが騒然となった。

「ヤスさん……」

 目の前で倒れられた吉田が、青ざめて康幸に助けを求める。康幸はサッと立って、綾美の横に膝をついた。


 そのまま、綾美の動脈を確認し、呼吸も確認する。首周りを探り、何かを探しているようだが、なかったらしくそのまま綾美に声を掛けた。名前は……、綾美ちゃんだったか……。

「綾美さん、分かりますか? 綾美さん」

 頬を叩いたり、体を揺さぶったりはしなかった。

 ゆっくりと、綾美が意識を戻す。少し、状況を把握するまでに時間が掛かったが、すぐに上半身を起こした。

「待って。少し見るから」

 と、康幸は彼女の目の下を押え結膜を見て、舌も確認する。指先も確認しつつ、言葉を掛けた。

「痙攣をおこしてないし、てんかんでは、ないね?」

「……はい」

「貧血かな? 血液検査で言われたことは、ない?」

「はい。すみません……。倒れちゃったんですね。貧血です。ご迷惑お掛けして……」

「少し、横になってた方がいいな。15分ほどで、大丈夫だと思うけど」

「……、ありがとうございました」

「綾美ちゃ~ん」

 周りで見ていた新城が、綾美に抱きつく。

「びっくりしたわよ~。急に倒れるんだもん」

「ゴメンね。もう、大丈夫だから。心配しないで。少し、あっちで、横になるね」

 そういって、後ろに移動しようとしたが、まだ目が回っているらしく、立ち上がったまま止まっている。康幸は彼女の体を後ろから抱えるように支え、腕を取って歩き出した。

「目をつむって歩いても、大丈夫ですよ。ちゃんと、連れて行きますから。頭動かさないように……」

 そう言われ、その通りにすると楽になった。なんとか、一番後ろまで行き、いくつか椅子を集めて、横になった。

「あの、本当にありがとうございました。助かりました」


「あの人、何? お医者さんみたい……」

 イケメン好きの落合が、トロンボーンのトップの吉田に無遠慮に聞いた。

「お医者さんです。総合病院の……」

「うわぉっ」

 と、変な声を上げて、落合が驚いていたことは、綾美はまだ知らなかった。


 練習が無事終わり、会場の後片付けを済ます。あの後綾美も、少し遅れて練習に復帰した。もう今は、ふらつくこともなかった。

 解散となったのが、19時近かった。13時からの練習だったから、5時間以上練習したことになる。綾美と新城、あとテナーの新田とバリトンの加藤という、いつものメンバーで、夕食をとるためにカレー屋に向かった。

「綾美ちゃん、食べて大丈夫?」

「もちろん。食べないと、違う意味で、倒れる」

 綾美の言葉に皆で笑いながら、席に着いた。ふと気がつくと、オケのメンバーも何人か来ていた。確かに、あの区役所のそばで、食事ができてすぐ座れるお店は、あまりない。しかも、ここのカレーは、よくテレビでも紹介される、美味しいカレーなのだ。夕食にと選ぶことが重なることは、想像できた。

 そこで、康幸と綾美は再会することになった。綾美は帰り際に改めて挨拶したかったのだが、合唱団は最後の打ち合わせもするので、気が付いた時にはもう彼はいなかった。

「あぁ、よかった。今日は、本当にお世話になりました」

「いえ、もうすっかり、大丈夫ですか?」

「はい、お陰様で。美味しいカレーが頂けそうです」

 と笑えば、彼も笑って「それはよかった」と言っていた。

「隣、空いてませんか?」

 と、加藤がオケのメンバーに聞く。空いているとのことで、店の人にテーブルを引っ付けてもらい、皆でわいわい軽い打ち上げ状態になった。男性陣は、カレーの前にビールを頼む。それを見て、オケのメンバーもビールを追加していた。

「あの、お名前教えていただいても、よろしいですか? ヤスさんで、間違ってませんか?」

「国分康幸です。君は、綾美ちゃん……、でしたね」

「山下綾美です。よろしくです」

 音楽で繋がる仲間は、仲良くなるのも早い。後ろにある、社会的立場や、家庭環境、学歴などは全てとっぱらうことができるからだ。しかも、金管という人種は、明るい人が多い。むしろ、明るさを越えて「バカ」と言われている程である。弦楽器の人とは明らかに違うので、こういう場ではすぐに大騒ぎができる。楽しいメンバーで、綾美は弦楽器の人達より、親しみやすいと思っていた。

「貧血、長いの? ちゃんと、見てもらってる?」

 さすがに病気のことなので、小さい声で聞かれていた。

「はい。掛かりつけの病院があります。お薬飲んでます。いつもは、倒れることはないんですけど、今日は少し暑かったせいかな、久々に倒れました」

「気をつけないと。数値は、いくつぐらい」

「え~と、この間、7切っちゃって……。びっくりです」

「7切った……。精密検査は?」

「MRIまで、撮ってます。大丈夫です」

「そうか。まぁ、主治医の先生がいるなら、大丈夫だね」

「はい。最近、ちょっとひどいっていう自覚もありますし、本番までにはもう少し良くなってると思います!」

 そこまで話して、やっと康幸が笑顔になった。医師の性なのか、病人と聞くと、少しほっとけないのだ。

「ところで、ヤスさんって、とっても病気に詳しいですね。音楽家なのに。身近に貧血の人でも、いましたか? 今日、移動する時も、体の支え方がとても上手で、驚きました」

「えっ、いやいや、音楽家ではありませんよ」

「えぇー、またぁ。楽器まで持ち換えて、あんな見事に『トゥーバ・ミルム』吹いておいて、それはないですよ。どこの音大出身ですか? 所属はどちらのオケですか? プロですよね?」

「……」

 康幸は、思わず黙ってしまった。それを見て、吉田が笑いながら会話に参加した。

「いやー、あの音聴けばそう思うのも無理はないですけどねぇ。ヤスさんは、お医者さんですよ」

「えっ。ウソ……」

 綾美が嫌そうな顔をして、康幸に向き直った。その顔を見て、康幸も少し驚く。今まで医者と言って、女性に嫌な顔をされたことは、あまり……、いや、ほとんどなかったからだ。

「医者は、ダメですか……」

「だって、あんないい音出してたのに……、信じられない。どうして、音楽の道に進まれなかったんですか!? お医者さんなんて、誰でもなれるのに……。ヤスさんなら、一流の音楽家になれたのに……。特別な才能は、誰にでも与えられるわけじゃない……!」

「……」

 突然、康幸は21歳の自分を思い出した。悔しくて、情けなくて、1人で泣き続けた、あの夜のことを……。


「綾美、失礼だぞー。医者は誰でもなれないし、医者になるんでも、才能はいるだろう」

 ビールを片手に、テナーの新田がテーブルの向こうから諭す。その声に、康幸も綾美も我に返った。

「あっ、すみません。ちょっと、びっくりしちゃって、失礼なこと言いました。お医者様も、もちろん素晴らしいお仕事だと思ってます。今日助けていただいたのに、ホントに、すみません」

「……綾美ちゃんに、20年前に会えてたら、僕の人生は変わっていたかもしれないな……」

 ふと、心に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。

「えぇと、それは無理ですね。20年前は、まだ中学生でしたから」

 康幸は一瞬驚いた顔をして、次には声を出して笑っていた。

「そうか! そりゃ、会えないわ!」

 あんまりおかしくて、思わず康幸も綾美に質問した。

「綾美ちゃんこそ、どこの音大出?」

 今度は、綾美が固まった。これには、新田がすかさず答える。

「綾美の声もプロ並だからな。でも、音大出てないよな~。お前こそ、もったいなかったんじゃないのか~?」

「えっ、そうなの? てっきり、歌科(うたか)出てると思ったよ。訓練された声だったから」

「……」

 綾美は康幸の顔を、困惑した目で一瞬見たが、次の瞬間には新田に叫んでいた。

「さっきから人のことを、綾美だのお前だの呼び捨てにして! 綾美お姉様と呼びなさい! ひよっこが」

「はじまった~」

 横から新城が合の手を入れる。

「昭和生まれは、こうだからやだねぇ。すーぐ上下関係を持ち出すもんなぁ」

「ギリギリ平成生まれは、黙らっしゃい!」

「お2人さん。もう時代は、令和ですよ」

 冷静に突っ込むのは、バスの加藤である。

「うるさい!」

 新田と綾美の声が揃った。みんなで、大笑いである。


 食事も終わり、皆で一緒に帰路に就く。駅に向かって歩いた。

 綾美の足取りがゆっくりになっていた。皆から取り残されていく。新城が気に掛けていたが、隣に康幸がいたので、他のメンバーと固まって先に歩いて行く。

「食事のすぐ後だから、少しふらつくかな?」

「……ゆっくり歩けば、大丈夫です。さすがに、お医者様ですね。分かりますか?」

「7を切るのは、男性なら歩けない人がいるレベルだからね……」

「……そうなんだ」

 といいつつ、やはり歩みが止まってしまった。さすがに新城が前方から叫ぶ。

「綾美ちゃん、大丈夫~?」

「大丈夫ですよ~。僕が見てますから」

 そう康幸が叫び返す。

「じゃ、先生お願いします。綾美ちゃん、電車来ちゃうから、先行くね~。またね~」

「ごめんね~。またね~」

 と、やっとの思いで声だけ張り上げた。

「少し、座りますか?」

 そう言って、康幸は歩道の緑地を囲んでいる、レンガの端に腰掛けた。

「大丈夫ですので、ヤスさんも先行ってください。少し休んで、私も帰りますから……」

 そんなに辛そうな顔で言われてもね……。とにかく横に座らせた。

 

 目の前の歩道を、忙しく人々が行きかう。背中の方では、車の音が途切れることはなかった。

「……僕ね、東京藝大出てる」

 突然の言葉に、綾美は顔を上げた。前を見たままの康幸の顔を、横から凝視することしかできなかった。

「……やっぱり」

「君は?」

 康幸が綾美に顔を向けて聞いた。

「桐朋です……」

「……やっぱり」

 康幸はふっと笑って、前を見る。綾美も前に向き直り、視線を落とした。2人はそれっきり、話さなかった。どれくらいそうしていたか……。

「タクシー拾おう。家は、どこ? 送るよ」

「いえ、これ以上ご迷惑は……」

 とそこまで言ったところで、康幸はそっと綾美の右手を、下からすくうように、自分の手に取った。一度だけ、強く握る。驚いて顔を上げれば、微笑みながら綾美を見ていた。

「送るよ」

「……ありがとう、ございます」

 移動中のタクシーの中では、ただ黙って、手を繋いだままだった。トロンボーンは楽器ケースも大きい。しかも今日はダブルケースだから、ベルの部分が上下に膨らんでいて、更に重い。タクシーに乗る際は、足の間に抱える形になる。決してトランクには入れたりしない。両手で抱えて走り出したが、間もなくもう一度手を繋がれた。綾美の心が、動きだす……。

 綾美のアパートの前まで送ってくれて、

「じゃ、今度は前日練習と、本番だね」

「はい、1ヶ月後。……おやすみなさい」

「おやすみ」

 と挨拶を交わし、そのまま行ってしまった。綾美はタクシーが見えなくなるまで見送った。繋いでいた右手を、そっと胸に抱きかかえながら。

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