むかしばなし②
高峰涼香との接触を試み、見事玉砕された僕は心が折れかけた。一縷の望み、それもこのような大敗を喫するとは微塵も思っていなかった「ひとにはなしかける」という簡単なタスクを満足にこなせなかったのだから。だが他の案、即ち別の誰かに声をかけるという、ただ億劫なだけで他に何のデメリットもなく、それも時間が解決してくれることでしかないのに、僕はそのどう考えても合理的な手段をとらなかった。幾ら純真無垢な13歳とはいえども損得勘定の一つや二つくらいわかっていそうなものだが、僕はそれをしなかった。合理的な判断を甘えだと、逃亡だと思ってしまった。今考えればあり得ないが、ともかくそのころの僕はそれほどまでに愚直で、ただのバカだった。少しは働かせていた頭はもはや機能させず、感情論のみで行動しようとしていた。何の根拠もない希望的観測に縋ろうと。
誰でもテレビの中のヒーローにあこがれ、自分もそうありたいと思ったことがあるだろう。ヒーローでなくとも、つらい環境にある誰かを救い出してあげたいと。そんなフィクションを妄想したことがあるはずだ。
いきなりこんなことを言い出したのは他でもない。僕もご多分に漏れずその一人だったからだ。それもかなりベタな。僕はあまりにも現実味のない高峰涼香のことばには何か裏があるのだと思ってしまった。あんな言葉を初対面の人間に、「普通」の人間が吐くわけがない。きっと彼女にはつらい過去みたいなものがあって、それで人と仲良くできないんだと、そんなことを本気で思ってしまった。ここまで重症だと心配にもなるので一応断っておくと別に妄想癖があったとか、そんな裏事情はなく俗にいう漫画やドラマの見過ぎだったというだけだ。だからこそ余計いたたまれないのだが。あまりにまぬけすぎる。
妄想たくましい僕は、今こヒーローになるときだ、というくらい意気揚々,高峰涼香に再度接近した。何がヒーローだ、ただの勘違いぼっちじゃないか、滑稽にもほどがある。思い返すだけでもそんな自分への罵倒の言葉が次から次へと思い浮かぶがそれはさておき。
愚かな僕はそれでも愚かなりに頭を使い、時と場所を選んだ。高峰涼香はうるさい他人がいる中を帰るのが嫌なのか、毎日教室に最後まで残っていた、僕はしばらく教室から離れ、彼女以外が教室からいなくなるのをじっと待っていた。日が傾き始めたくらいに彼女もようやく帰る支度を始めたのを見てから、前回よりもより優し気な言葉をかけた。軽くトラウマだったので、笑顔は前回より三割くらいひつっていたかもしれないけど。そのときの彼女の表情は印象的だった。何せ僕が求めていたような、期待を孕んだ驚きの表情だったから。少なくともそこには人間味を感じられたのだ。窓から入り込んだ夕日が、彼女の整った顔と黒髪を優しくそめ、彼女らしくないような一人の少女のあどけない表情を一瞬作り出して見せた。しかし、その表情をすぐに殺し、何か言うのかと思ったが、僕の耳に声が届くことはなかった。もったいぶってもしかたないのであっさりと言ってしまうが、僕は生まれて初めて眼球の触感を覚えた。それも痛みを伴う。恐怖のあまり尻餅をつきかけたが、それは許されなかった。彼女のか細い手が僕の胸倉を、拳から血が出そうなほどギュッと握り潰していたのだ。僕の耳は恐怖の中でも彼女の声を受け止めた。
「あなた、正気?よそ者はここの人たちよりバカなのかな。私、言ったよね、次は左目って。いい?いくよ?」
彼女の声は以前よりずっと冷たく、けれどやけに鮮烈に僕の耳に響いた。泣きそうになりながらも、僕はそこで言い返して見せた。
「なんでそうやって知りもしない人を拒むのさ!話してみなきゃわからないだろう!」
多分ドラマか何かの受け売りだったのだろう。文脈も何もあったもんじゃなかった。それに、声はもう震えていて、目から涙茂こぼれていたかもしれなかった。けれど、結果的にこの言葉が僕の左目を救うこととなった。僕のめちゃくちゃなセリフを聞いた彼女は新しいおもちゃを見つけた悪魔のように嗜虐的な笑みを浮かべていった。
「あなた、バカね。違いないわ。でもなんとなく…なんとなくおもしろそう。ほとんどなんにも考えてないんだろうけど、いいわ、遊んであげる。明日からも私に話しかけてみなさい。え?目は良いのかって?ますますおもしろいわね。ほんとに何も考えてないのかな。目も睾丸も勘弁してあげるけど…もし私が不快になるようなことをしたらもっとひどいことしちゃうかも、ね?」
そういうと彼女はそれ以上目もくれず、さっさと荷物をもち、教室から離れて行ってしまった。
気の抜けた僕はその場に尻餅をつき、しばらくすわりこんでいた。教室を淡い夕日のオレンジが優しく、けれどどこか不気味に染めあげていた。