01 離したその手のぬくもりを覚えている
今もあの夜に囚われている。
とても星が綺麗に見える晴れた夜だった。
あの顔が頭から離れない。
あの瞳が俺を見ている。
俺たちの世界は止まってしまった。
「今日じゃなきゃ駄目な訳?」
立入禁止の看板と壊れかけの粗末な鉄柵を越えて電灯の切れた暗い道を三人で歩いていた。
夏祭りの夜、遠くで祭り囃子が聞こえてなおさらここにいることを後悔する。
りんご飴も食べたかったし毎年する金魚すくい勝負で今回こそ俺が勝ってやると思っていたのに。
「駄目な訳!な、これが最後だから」
「俺と澪、お前の三人で」
そう言って夜の海なんて珍しくもないものを見るために最後のお願いを使う。
まあこれが数えるのも億劫になるほどの何百回目かの最後のお願いなのだが。
普段通りため息と肯定で返す。
自分で誘っておいて懐中電灯の一つも準備がない。
仕方なく暗闇と生い茂る草木の間を波の音だけを頼りに足を進めた。
その音が段々と大きくなって、見上げれば星空と月が現れる。
瞬間、目の前で長い澪の髪が強い風を受けて散らばる。
ここは三人の秘密の場所。
向こうに見える赤い灯りと人でいっぱいの砂浜とは違いこの崖の上は見晴らしが良いが、立入禁止というだけあって海側に柵もつけられていない危険な場所だ。
真下で聞こえる岩肌にぶつかる波の激しい音。
そこからは月のあかりを頼りに三人で崖の縁をなぞって歩いた。
気付けば自分の少し前を歩く二人はまるで恋人の様に手を繋いでいた。
いや、恋人は間違いだ。
なんせ自分が澪の恋人なのだから。
「危ないぞ、零斗」
「うん、知ってる」
澪の手を引きながら海を覗き込む。
風が強く吹いて、その身体が揺れる。
その顔はいつものにやけ面ではなくて、今まで一度も見たことのない真剣な顔つきで気味が悪かった。
そして見つめ合った二人、その瞬間の澪の驚きと恐怖、なんとも言えないような表情に嫌な予感がした。
まるで自身の一部であるかの様に、気付いたことが当然の様に。
二人だけの世界のようで吐き気がした。
零斗は俺よりもずっとずっと大切な存在で。
それが、その特別が、嫌いだったんだ。
お前のその居場所が。
俺はお前が居なくなればいいと本気で思っていた。
だから。
「どうすれば俺はお前の全てになれるかな」
「まって、零斗!!」
風が吹いた。
何もかもを奪っていきそうなほど。
とても強い風が吹いた。
「ごめん、愛してる」
だからお前は死んだんだ。
嬉しそうに笑って澪の手を振りほどいた。
彼女の目の前で風と共に星の海に飛び込んだ。
二度と忘れられない永遠の中に。
「忘れるな、澪は俺のモノだ」
落ちる瞬間。
その瞳が俺を写してそう言った。
その顔を今でも思い出す。
今まで見てきたどれよりも嬉しそうなその笑顔が。
澪にそっくりな海の様な瞳が。
自分のモノだと吐き捨てるその精神が。
お前の居場所も全部、全部全部。
お前の全てが、大嫌いだ。
「やっぱりお前は、狂ってるよ」
海に向かって伸ばした手は届かなかった。
届かないことは最初から分かっていたし、お前がいなくなることを望んでいたのは俺だ。
だから涙は出なかった。
けれど結局は声を上げて泣く澪の絶望する顔を見て後悔する。
こうなることを願ってしまった俺の罪だ。
それはとても星が綺麗に見える晴れた祭りの夜だった。
お前が今もあの夜にいる。
あの海に、あの星の海に。
彼女の心を連れてお前は死んだ。
頼むから最期くらい惨めに死んでくれよ。
俺をひとりにしないでくれ。