『井の中の蛙』
春の雨が土に染み込み、
田んぼの住民たちが目覚め
春を謳歌し始める季節がもうすぐやって来る。
ある春の日 気持ちよく車を走らせていると、
屋根から小さな小さな“手”がニョコンとのぞき、
フロントガラスに伸びてくるのが見えた。
ぬっと現れたその“手”の持ち主は、一匹のアマガエル。
走行中だというのに気にもせず、
わっしわっしとフロントガラスの上を歩いている。
やがてワイパーの上にチョコンと座り、運転席の私とガラス越しに対峙する姿勢になった。
間違いなく家の庭から乗り込んだと思われるそのアマガエル。
(どうしよう、、、)
もはやカエルが歩いて帰れる距離を遥かに上回るほど走ってきている。
彼がもといた場所へ自力で帰るのは不可能だろう。
もちろん、私もここまで来てカレ1匹のために引き返すことはできない。
ただ、彼が振り落とされないよう安全な速度で走行するのが精一杯だ。
ワイパーの上で喉を膨らませたり引っ込めたり、
目をキョロキョロさせているカレは、どんなカエル人生を送ってきたのだろう。
田んぼに水が張られるのを待って、卵を生む約束をした恋人がいたのではないだろうか。
庭のどこかに家があり、家族がいたのではないだろうか・・・
『わりいな、ちょっと邪魔するぜ、』
『ゲェロゲェーロ。』
『あっ、オレ アマノ。夜露死苦な!』
パクパクパク……。
ワイパーの上でアマノ君が口を開いた。
何か言っているようである。
『ゲェロ、ゲェロ。』
パクパクパク……。
『このクルマって奴は、エライ遠くまで行けるんだってな。』
パクパクパク……。
『おかげで、やっと、あの狭苦しい庭から外の世界に旅立つことができたぜw』
パクパクパク……。
『俺はもう、あんな田舎で意気がってゲコゲコ鳴くだけの毎日は、うんざりだったんだ!』
パクパクパク……。
『俺には夢があるんだ。』
パクパクパク……。
『都会に出て、一流のミュージシャンになるんだ!』
パクパクパク……。
『そして俺の奏でるゴキゲンなロックンゲロゲロールで、世界中のカエルどもを感涙に咽び鳴かせてやるんだ!』
走行の風圧もなんのその、雄弁に己の野望をパクパクパク……。
語るアマノ君。
「じゃあ、あの庭にいた家族や仲間のことはどうするんだい?」
私がそう問いかけると、アマノ君はワイパーの上からわしわしと移動し、
私の方に背中を向けて進行方向をキッと睨んだ。
『俺は俺さっ。天涯孤独の一匹カエルなのさ!』
言うが早いが、アマノ君はピョンと勢い良くジャンプし、一瞬で私の視界から消え去った。
慌てて後ろを振り返るが、
もちろんその小さな黄緑色の体を見つけることなどは出来なかった。
男一匹、カエル一匹で旅立った、青雲の志を持つアマガエルが無事に夢を叶えられたのか……。
道路の真ん中で、アマガエルなのにヒキガエルに…いや、ヒカレガエルになっていないか。
ただ、それを心配するのみであった。
道路でペシャンコになっているカエルを見るたびに
「もしや、アマノ君?」と胸が打ち震え、
夜の田んぼで独特な声で歌うカエルの声に、
「もしや、ロックンゲロゲローラーのアマノ君?」と期待する。
そんな季節が、もうじきやって来ます。
(笑)