第十六話〜落涙な少女〜
唐突で恐縮だが、僕には苦手なものが多数存在する。
一つ目は僕を可愛がっているのかからかっているのか弄んでいるのか判断がつかない、五人の姉達だ。奴らは僕を女装させたり無理難題を押し付けたり八つ当たりしたり実験台にしたり襲ってきたりと、僕の平穏な生活を脅かす存在でしかなく、いわば僕はカゴに飼われたモルモットのような立場である。故に、家で僕がまずすることは自室に篭もり鍵をかける事から始まる。
二つ目はなすび。こればっかりはどうも克服する事が出来そうにない。食の好き嫌いなんてものは人それぞれだし、別に嫌いならば嫌いでも構わないのだが、それをしっかりと理解している我が家の料理当番は、嫌がらせとしか思えないほど毎日なすびを混在させてくるから困ったものだ。そのくせ残すと激怒するから、僕は吐きそうになるのを堪えながら、毎日なすびと戦っている。
三つ目。僕は男性が苦手である。それは過去のとある事件がトラウマになっているからなのだが、どうも僕は男を前にするといつもの口上が出てこない。というか言葉を発する事も忘れてしまうぐらいに恐怖する。トラウマ以前からの友人であるナユタは、僕がまともに話が出来る唯一の男性である。
そして四つ目。
これが今回の本題であり、僕が今陥っている状況をまず説明する必要があるが、先に言っておくと、僕は女の涙が非常に苦手だ。
「…………」
というわけで、僕は例によって例の如く、放課後の屋上へやってくると、そこには無言で涙を流しているハルナちゃんがいた。
久しぶりに顔を合わせる人物用の口上マニュアルが僕の中にはあるのだが、彼女の目尻から流れる液体を見て、僕は声をかけるのを躊躇った。躊躇ったどころか硬直した。メデューサの視線をモロに直視してしまったかのように、僕の身体は石化する。
「……あ」
彼女は僕の姿を見つけると、涙を腕で拭って僕に向き直る。
目が赤い。
「こ、こんにちわ」
「あ、ああ。こんにちわ。久しぶりダネ」
緊張のせいで、声が裏返る。我ながら情け無いとは思うが、こればっかりは仕方がない。
「そ、それにしても実に良い天気だね」
「曇ってますけど……」
「えっと、ほら。丁度良い感じに涼しいじゃないか」
「……はぁ」
ダメだ。グダグダだ。
いつもの僕ならば適当に言葉を並べ立て、相手を呆れさせる事ぐらい出来るはずなのに、今日ばかりは言語中枢が機能していない。
「え、えっと。そうだっ、彼女と一緒じゃないのかい?」
「ナギちゃん、ですか? 今日は……一緒じゃないです」
「…………」
「…………」
会話終了。
僕って、こんな話題提供のへたくそな奴だったか?
「そ、その。泣いてたみたいだけど、何かあったの?」
他に話題の見つからなかった僕は、ついついそんな事を尋ねてしまった。
「…………っ」
「わー! うそうそっ! 別に言わなくても良いから! 思い出さなくても良いから! 泣かないで!」
ハルナちゃんの表情が見る見る内に歪み、今にも泣き出しそうになってしまったので、僕は慌ててそう叫んだ。
「……っ、ちょっと、嫌な事が、あったんです」
「そ、そう。それは、その。大変だったね」
陳腐な言葉しか出てこない僕の口を呪いたくなった。
「その、先輩も、前となんだか様子が、変ですけど」
「まあ、ね。その、泣いてる女の子には、どうすれば良いのか、よくわからなくて」
「あ、その。すいません」
「い、いや。なんていうか、僕もごめん」
……なんだこれ。
傍から見れば実に滑稽な会話だった。普段の僕でも滑稽に見えるかもしれないが、それ以上の滑稽さだった。
そこに救いの女神……いや、救いの魔女が現れた。
「あーっ! ナナちゃん、何ハルナいじめてんのよっ!」
唐突に現れた彼女は、一瞬の無駄の無い動きでカバンの中から辞書を取り出し、僕に向かって投擲する。
今まで散々投げられてきた辞書だが、今日ついにその武器は僕の腹部を捉えた。
「ぐふぅっ」
鈍痛が走り、僕は膝から床に落ちる。
精神に対する防御力は高いが、肉体的な守備力は皆無に等しい僕は、文字通り撃沈した。
「大丈夫ハルナ!?」
「え、えっと。その。先輩の方が大丈夫じゃないかも」
そんなこんながあって。
「君っ! いい加減その辞書を武器にするのは止めてくれないか!? ただでさえ僕は貧弱なんだ! そんな攻撃力の高いもので攻撃されたら、僕なんか一発で天に召されるぞ! せめて折り紙で作った手裏剣にしてくれ!」
腹部のダメージから復帰を果たした僕は、開口一番彼女に文句を放っていた。
「それにね、早とちりしすぎじゃないか? そりゃ確かにハルナちゃんの目が赤くて涙の跡があったから泣いていたことは隠しようも無い事実だが、だからといって僕がハルナちゃんを泣かせるわけが無いじゃないか! そりゃ、泣かそうと思えば泣かせる自信はあるが、そんな事をして僕にメリットが無いだろう!?」
「あー、ごめんごめん。悪かったってさっきから謝ってるじゃない。全く、器の小さい男ね」
「少しは誠意を見せようという気は無いのか!?」
「そんな事より、どうしたのハルナ? なんかあったの?」
僕の生死をそんな事、で片付けながら、彼女はハルナちゃんに向き直った。
苦手なものの項目に、彼女の名前が連なった瞬間でもあった。
「……ううん、別に大丈夫だから」
「そう、それならいいけど……」
「うん」
「とりあえずこの辞書貸すわ。ナナちゃんになんかされそうになったら、これをチラつかせればおとなしくなると思うから」
僕はサーカスで飼いならされている猛獣か何かか?
「本当に大丈夫だから」
「……何かあったらちゃんと話してよ? 相談だったらちゃんと聞くから」
「つまり相談以外の場合はちゃんと聞かないという事だね」
「あんたは黙ってろ」
魔女の真髄ともいえる、凶悪な瞳でそう言われた。
ナユタといい彼女といい、どうして目つきの悪い奴ばかり僕の周りに集まるんだ?
「ごめんね、変な心配かけちゃって」
「いいのよ。これぐらい。友達でしょ?」
「……うん」
さて。
友情を確かめ合う二人に、僕はお邪魔虫のようである。
僕は二人から離れて、屋上を後にした。
結局、ハルナちゃんの涙の理由はわからなかったが、別に僕が尋ねるような事じゃない。
後は彼女に任せよう。