【三題噺】俺と彼女が蜂蜜プリンを食べるまで。
俺が伸ばした手を
迷いなく掴んでとは言わないから。
だから、ただ帰ってこい。
「なんで」
夜の公園で依那はむすりと腰に手を当てて俺を睨んだ。
「何が不服なんだ」
「違うし」
「確かにプリンって言ったぞ」
袋から取り出したプリンを目の前に突き出せば、彼女は腕を組んで顔を背けた。
「あたしが言ったのは蜂蜜プリンだし」
「俺に買わせといて何様のつもりだ。そもそもお前の好みなんか知らん」
「おつかい出来ない奴はみんなそういうこと言うのよ、馬鹿」
彼女らしい暴言に呆れて、それ以上なにも言えずにため息を零す。
願い事ひとつ叶えるにもひと苦労だ。
俺はどうしたらいいんだと正直困惑やら不満やらがくすぶる。
依那はそんな俺の内心でも分かるのか、避難めいた目を向けてくる。
「あんたが願い事あるかって言うから言ったのに、これぐらいも叶えられないなんてダメダメね。これなら流れ星に三回唱えてたほうがまだ現実的よ」
「俺は流れ星は信じん。あれはどう控えめに言っても現実逃避だ」
「頭が固い奴はみんなそう言うし。このリアリスト」
「お前なぁ」
抗議の声を上げかけて止めて、ままならなさにこめかみを押さえる。
俺は自分が不器用なことなんて自覚しているし、依那がこの性格なのもわかっている。
上手くいかないのは始めから折り紙つきだ。
もう一度、ため息を吐く。
かじかんだ手に握りこんだものを自覚すれば無意識に夜の風に微かに自嘲が混じった。
「依那」
「何よ」
「どうしたらいい」
目を合わせて問えば、彼女がつと表情を消した。
そのわかりやすい欠落に俺はまた自嘲を零す。
遠回しになど聞けるほど俺は器用ではないし、遠回しに聞いて理解するほど聡い依那でもない。
もう一度、問い掛ける。
「なぁ、俺はどうしたらいい?」
「……だから願い事、か」
ぽつりと夜闇に落ちた小さな呟きは、星の瞬きのように儚い。
それでも俺は次の言葉を待った。待つしかなかった。
やがて俯いた顔をあげて、依那は糸の切れた人形のようにことりと首を傾けた。
「透野はあたしをどうしたい?」
俺は言葉が選べなくて口をつぐむ。
宙に浮かぶ彼女から逃げるように目を逸らした。
俺を責めるでもなく、依那はぼんやりと月を見上げた。
満月になりかけの明るい光が柔らかくぼやける輪郭を捉える。
「透野はどうして目が覚めないのかって思ってない? あたしはなんとなくわかるよ。なんか嫌になっちゃったのかも」
依那は他人事のように語りだす。
熱のない声音が凪いだ風の上を滑っていく。
「別に何が嫌になったとか、絶望したとかそんなんじゃないよ。ただ、なんか月並みだけど疲れたし。ここに留まりたいだけなのにずっと走り続けなきゃいけないのがなんか嫌になっちゃった」
泣きそうに笑う気配に俺は掌に目をやる。
握りしめた手を解けば、傷ついた白いスマートフォン。
これは依那のものだ。
依那は交通事故にあった。
俺の目の前でトラックに接触した。
ひしゃげた自転車の虚しく空回る車輪と、割れて飛び散った反射板。
道路に投げ出された華奢な体。動かない手足。
あの惨状を俺は鮮明に思い出せる。
幸い命に別状はなく、目立った外傷はなかった。問題はないはずだった。
目覚めない、その一点を除いては。
依那が月明かりに透けたまま俺を見る。
「あたし、まだ生きてるんだよね?」
向けられる薄い笑みに頷く。
依那はそうだよね、と目を閉ざした。
今、俺の手には依那の白いスマートフォンがある。
壊れて電源さえ着くはずがないのに、そのバックライトは光りつづける。
依那曰くそれのおかげで俺は依那を知覚できるらしい。
なら、この光が消えたらどうなるのか。
「透野には」
依那が囁く。
「きっとわからないよね、こんな気持ち」
突き放すように、どこまでも優しく依那は笑う。
ふわりと浮いた足も背景を透かす体も、嘘のようだと思うのに俺には少しも笑えない。
「俺は、どうしたらいい。どうしたら」
「――帰りたいって思わせて」
諦めて浮かべるような曖昧な笑みに俺は瞬間、
「好きだ」
「え?」
途端に依那の纏う静けさが消えた。
見開かれた瞳と、ぱくぱくとする口。
帳の静寂も風船が割れたように空気を変える。
俺は畳み掛けるように重ねる。
「好きだ、依那。帰ってこい」
「な、え、ちょ、待って!」
「好きだ」
「ちょ、待て!」
慌てふためいた依那が手で制止をかける。
しょうがなく口を閉ざせばさっきまでの雰囲気など消えうせ、依那はわたわたとした表情で視線をさ迷わせる。
そのまま数秒が経過してもう一度声をかける。
「依那、」
「なんで!」
ばっと俺を睨む顔は生き霊なのに微かに色づいて、瞳には混乱で涙が浮かんでいる。その反応に馬鹿だなぁ、なんて思う。
「これを好きなんて俺も大概馬鹿だな」
「なんなのよ、なんで、なんでこんなどうでもいい時になんて」
「帰ってこい」
声を遮って手を伸ばせば、くしゃりと依那の顔が歪む。
やるせなさや困惑や痛みが瞳を過ぎるのがわかった。
それでも手は下ろさない。
これでも悩んだのだ。
俺が言うべき言葉を探してもみた。
でもなにかが違うと感じた。
まどろっこしいことも、依那のことだけを考えることも違うと思った。
というより、面倒臭い。
俺はたぶん短気なんだ。
泣きそうに俺を見る依那に痺れを切らして叫ぶ。
「いいから帰ってこい!」
さらに手を伸ばせば、やっと依那が笑った。
泣き笑いみたいな、それでもどこか晴れた笑み。
「馬鹿、今は触れないよ」
「……知ってるが」
「恥ずかしー」
くすくすと依那が笑い声をたて、俺は小さく息を零す。
ちかちかとスマートフォンが瞬いた。
依那がそれを見て、柔らかく目を細める。
「そろそろ帰れってことかな」
「さあな」
「帰ってきたら買い物付き合って。新しい自転車とスマフォ買わなきゃだし」
「さすがに奢れとか言わないだろうな」
恨めしく見遣れば、悪戯っぽく首を傾げられた。
今ここで奢らせられたものの数々をそらんじてやろうかと思った。
ひと睨みすると依那はバツが悪そうにふいと目を逸らしてから小さく呟く。
「あと、さ。返事はまたその時とかで……」
「ていうより、お前馬鹿じゃないか?」
「え?」
「買ってこいって言ったが今のお前は喰えないだろ?」
忘れかけていたプリンを突き付ければ、依那が急に肩をいからせた。
握りしめられた拳を震わせながら、顔を真っ赤にする。
「〜〜っ! 透野の馬鹿っ!」
「何に怒ってるんだ」
「あたしはあんたにっ」
「俺に?」
問えば、依那は言葉を詰まらせた。
そのまま数秒の沈黙が落ちて、依那がくるりと踵を返した。
「帰る」
「は? まだ話は終わってないだろ」
「うっさい!」
「おい。このプリン、どうするんだ」
「あんたが食べればいいでしょっ!」
そう叫ぶと本当に依那は病院のほうへ飛んでいってしまった。
わけがわからず呆れ果て、プリンを見つめてため息を零す。
「つか、あいつが蜂蜜好きなの知ってるくせに何してんだ俺は」
無印のプリンを眺めてから、スプーンを取り出して一口食べる。
「激甘」
夜の公園で俺はひとり顔をしかめた。
依那と二人で蜂蜜プリンを食べることになるのはまだ俺の知らないの話。
三題噺として書きました。
蜂蜜、バックライト、反射板。